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岩手県釜石市 世界遺産・橋野鉄鉱山 現存日本最古の洋式高炉跡

2023年12月16日 08時14分50秒 | 岩手県

世界遺産・橋野鉄鉱山。岩手県釜石市橋野町。

2023年6月12日(月)。

インフォメーションセンターで散策マップをもらい、大門前の駐車場に駐車して徒歩で一番高炉から散策した。

現存する日本最古の洋式高炉跡、橋野高炉跡が建設されたのは、安政5年(1858年)〜6年。建設は後に近代製鉄の父と呼ばれる盛岡藩士大島高任(たかとう)が指導、安政5年に仮高炉(現在の三番高炉)での操業に成功した。これが橋野鉄鉱山の始まりである。

安政の大獄後、一時は閉鎖が検討されたものの有力な鉄山であったことから高炉は南部藩直営となり、一番高炉と二番高炉が建設され、高任の仮高炉は三番高炉として操業された。

明治27(1894)年操業終了までの間、釜石地域には7か所13基もの高炉が立ち並んだが、当時国内最大の鉄鉱山であった橋野は、まさに幕末から明治にかけての日本の近代製鉄業を支え、国の発展に貢献した「近代製鉄発祥の地」といえる。

周辺には、採掘場から運ばれた鉄鉱石を砕いた種焼場・種積場・種砕水車場跡、高炉の事務管理を行った御日払所跡、鍛冶や大工の長屋跡などが残されている。高炉のフイゴ(送風装置)を動かす水車のために引かれた水路跡、立派な山神碑など、1000人もの従業員が働いていたという最盛期の賑わいが思い浮かぶ。

 

水路跡。

一番高炉。

二番高炉とともに、1860年(安政7年)頃に田鎖仲や田鎖源治らにより建設された。

花崗岩の基壇が1段、その上に約5.8m四方、高さ2.4mの花崗岩の石組が4段。南側に送風のためのフイゴ座、東側に湯出し口が設置され、当時は石組の上に甘石を積み、漆喰を塗った壁があった。石組の炉の内側にはさらに耐火煉瓦の炉が組み立てられ、高さは約7.8m、さらに覆屋があった。

二番高炉。

花崗岩の基壇が1段、その上に約4.8m四方、高さ2.4mの花崗岩の石組4段。残っている絵図には9段の石組が描かれており、当時の高さは約7.9m。フイゴ座と湯出し口の位置は一番高炉と同じである。高炉中央には炉底塊(ろていかい)といわれる、流れきれずに炉底にたまった銑鉄が残っている。

第3高炉跡方向。

種焼窯・種砕水車場。後景は大工長屋跡。

種とは鉄鉱石のことである。高炉へと供給する鉄鉱石は、採掘された状態のままではなく加工された。鉄鉱石を加工するための施設を種焼場とよぶ。人力のほか、水車の力で鉄鉱石を粉砕し、種焼窯で焼結。その後、金づちで砕いて高炉内に供給していた。

御日払所。

事務所のことで、当時はその名の通り従業員の賃金支払いをはじめ、鉄鉱石や製品の管理もここで行われていた。

御日払所では橋野の川原で採集された餅鉄が買い取りされていたようで、その証拠として「餅鉄通」という台帳が残されている。

山神碑方向。

三番高炉。

仮高炉として大島高任の指導により、1858年(安政5年)に建設された。その後、1864年(文久4年)頃に改修を行い、以降三番高炉として利用された。一番高炉と二番高炉の廃炉後も稼働し、橋野高炉が廃止される1894年(明治27年)まで稼働した。三番高炉の石組形式は、初期の高炉の基本形であったと考えられている。当時の高さは約7.0m。高炉中央には炉底塊がある。

 

20分ほど見学したのち、11時30分ごろ遠野方面へ戻って仙人峠の釜石寄りにある釜石市甲子町の旧釜石鉱山事務所へ向かった。

岩手県釜石市 世界遺産・橋野鉄鉱山 インフォメーションセンター



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