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福島県桑折町 旧伊達郡役所 福島市 文知摺(もぢずり)石 飯坂温泉鯖湖湯 高湯温泉 土湯温泉

2024年06月25日 14時25分43秒 | 福島県

重文・旧伊達郡役所。福島県桑折町陣屋。

2024年5月26日(日)。

桑折町西部の丘陵にある桑折西山城跡を見学後、15時45分ごろ福島市方面へ向かった。福島市北・東地域の見学は、文知摺(もぢずり)観音、宮畑遺跡、信夫山第一展望台を予定していたが、面倒くさくなって文知摺観音だけ見学することにした。ナビに従って進んで行くと、16時ごろ、旧伊達郡役所が突然現れた。

新婚カップルが前撮り写真を撮影しているところだったので、前のコンビニに車を停めて撮影した。

旧伊達郡役所は、見学を検討したが、同種の建物はかなり見学しているので省略してしまっていた。しかし、目の前で見ると同種の擬洋風建築にたがわずスタイルの良い建物だった。なお運がいいことに、2021年・22年の福島県沖地震により大きな被害を受け、2022年4月から約8ヶ月をかけ復旧保存修理工事を行い、2022年12月にリニューアルオープンしたという。

旧伊達郡役所は、明治時代初期の洋風庁舎である。伊達郡の郡役所は1879年に保原町(現・伊達市)に設置されたが、桑折町の有志が誘致運動を行ったことにより1883年(明治16年)4月に桑折町に移された。その際に新築された庁舎が、現在も残る旧伊達郡役所の建物である。廃止になるまでの約43年間、郡行政の中心的役割を果たし、廃止後も県の出先機関として利用されていたが、1974年3月にその役目を終えた。

地元大工の山内幸之助・銀作の手による擬洋風建築である。郡役所で遺存している建物のうちでは最大規模を持つ。質がよく改変も少ないことから、明治初期の建築の特徴をよく示している。

基礎は切石を積み、ベランダを張り出したペンキ塗下見板壁になっている。正面は総二階建、中央塔屋を設け、軒は化粧垂木様飾りに円形刳り蛇腹、窓はすべてガラス入りの上げ下げ窓と洋風を模している。

文知摺(もぢずり)観音・普門院。福島市山口字文字摺。

16時20分ごろ駐車場に到着。少し離れた駐車場から受付に着くと、17時に境内が閉鎖されると知った。境内の拝観は無料。受付の男性が紅葉の時期は参拝客が多いと話していた。ここに来たのは、境内にある「もぢずり石」が、小倉百人一首の歌枕の地であり、松尾芭蕉、正岡子規などの文人墨客が多数訪れた場所だからである。「もぢずり石」は、受付から50mほど奥の場所に鎮座していた。

文知摺石。

「しのぶもぢずり(忍捩摺)」は信夫郡の名産で,石に草木をこすりつけ,布にその色を移した染物のことで、かつてこの地は、綾形石の自然の石紋と綾形、そしてしのぶ草の葉形などを摺りこんだ風雅な模様の「しのぶもぢずり絹」の発祥地・産地であった。その名残を今に伝える文知摺石は、都からの按察使(巡察官)、源融(みなもとのとおる)と長者の娘・虎女の悲恋物語の舞台となった。

古今集「みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆえに 乱れ染めにし 我ならなくに」(源融)と詠まれた歌は小倉百人一首にも選ばれ、松尾芭蕉も訪れ「早苗とる 手もとや昔 しのぶずり」の句を遺している。

後世、正岡子規や小川芋銭など数多くの文人墨客が足を運んだ境内には悲恋を伝える、もぢずり石を中心に観音堂、県重文の多宝塔はじめ諸堂宇のほか、芭蕉、子規の句碑、源融、沢庵和尚の歌碑などが建立されている。

源融(822~895年)は、嵯峨天皇の子で、河原左大臣とよばれた。紫式部「源氏物語」の主人公、光源氏の実在のモデルの一人ともいわれている。この地には、源融と村の長者の娘の悲恋物語が伝わっている。

遠い昔の貞観年中(9世紀半ば過ぎ)のこと。陸奥の地を訪れた源融は、村の長者の娘・虎女と出会います。日ごとに二人の情愛は深まり、融公の滞留はひと月にも及び、再会を約束し遂に都へと戻る日がやってきました。再開を待ちわびた虎女は、慕情やるかたなく「もぢずり観音」に百日参りの願をかけました。

満願の日を迎えましたが、都からは何の便りもありませんでした。嘆き悲しんだ虎女がふと目を遣ると、「もぢずり石」に慕わしい融公の面影が彷彿と浮かんで見えました。しかし、近づくとそれはすぐに消えてしまいます。虎女は遂に病の床についてしまったとき、一辺の歌が都の使いの者により虎女のもとに届けられました

届いた歌には「みちのくの忍ぶもぢずり誰ゆえに みだれ染めにし我ならなくに」と、融が遠く都で恋の思いに心乱れている様子が記されていました。故事にちなんでもぢずり石は別名「鏡石」とも呼ばれています。境内の奥には虎女と源融(京都嵯峨の清涼寺より土を移す)の墓が建立され、当時の歴史を今に伝えています。

 

古墳時代、安洞院裏山峨嶁山(がろうざん)中腹に多くの古墳群が作られる。697~706年、文武天皇の時、僧行基により、文知摺に聖観音像が安置される。864~869年、源融が按察使(あぜち)として文知摺を訪ねる。この間に短歌(しのぶもぢずり)が作られる延喜5(905)年、古今集に「陸奥の信夫もぢずり誰故に乱れ染にし我ならなくに」源融の和歌が紀貫之らにより撰される元禄2(1689)年、松尾芭蕉が曽良と共に文知摺を訪ねる。「早苗とる手もとや昔しのぶずり」を奥の細道に残す。元禄14(1701)年、安洞院全焼。明治26(1893)年、正岡子規、文知摺を訪ねる。「涼しさの昔をかたれしのぶずり」を詠む。

飯坂温泉鯖湖湯。福島市飯坂町湯沢。

17時近くになったので、道の駅「ふくしま」に向かうことにして、その前に近くにある飯坂温泉鯖湖湯で入浴することにした。福島市営の共同浴場は高湯温泉・土湯温泉も障害者無料である。無料駐車場は少し離れた北東にあるが、一方通行と狭い道が多いので一苦労した。

鯖湖湯は、飯坂温泉で一番古い湯で、元禄2年(1689)に飯坂を訪ねた芭蕉もこの湯に入ったといわれる。日本最古の木造建築共同浴場として親しまれてきたが、1993年に明治時代の共同浴場を再現した御影石の湯船に改築された。

名前の由来は、西行法師がこの湯を訪れた際、「あかずして 別れし人のすむ里は 左波子(さわこ)の見ゆる 山の彼方か」と詠み、そこから「鯖湖の湯」という名が定着したという。現在も飯坂温泉共同浴場のシンボルとされ、県外からの観光客も多く訪れている。

アルカリ性低張性温泉。源泉温度51.0℃。石鹸シャンプー類は要持参。

 

このあと、道の駅「ふくしま」へ向かった。この先の道の駅各駅には無料Wi-Fiがあって重宝した。

高湯温泉共同浴場「あったか湯」。福島市町庭坂高湯。

2024年5月27日(月)。

道の駅「ふくしま」で起床。西の吾妻山方向へ登り、9時5分頃「あったか湯」横の駐車場に到着。

建物は、昔の湯治の湯屋をイメージした和風建築で、浴場はすべて露天風呂。加水も加温もしない自然のままのかけ流し100%方式で、白濁の硫黄泉が温泉風情を醸し出している。PH2.7の酸性含硫黄カルシウム・アルミニウム硫酸塩温泉。

入浴後は、坂を下って土湯温泉へ向かった。

土湯温泉公衆浴場中之湯。福島市土湯温泉町下ノ町。

東北三大こけし発祥の地と言われる土湯温泉唯一の公衆浴場。単純泉と炭酸水素塩泉の2つの源泉を1か所で楽しめる。特に炭酸水素塩泉はアルカリ性で角質を軟化し、肌が滑らかになることから「美肌の湯」と呼ばれている。受付で、単純温泉の源泉温度は約65℃と高温なので、水で薄めて揉んで入るようにいわれた。

 

このあと、福島市民家園へ向かった。

福島県桑折町 戦国伊達氏の本城 桑折西山城跡


帯広市 帯広百年記念館④旧石器時代 暁遺跡 細石刃 黒曜石

2024年06月25日 09時59分00秒 | 北海道

帯広百年記念館。帯広市字緑ヶ丘。

2022年6月11日(土)。

黒曜石(十勝石)。

黒曜石(十勝石)は、火山活動でできた天然のガラスで、十勝では上士幌町三股付近がその産地として知られている。この石は、割っただけで鋭い刃ができ、加工もしやすいことから、石器の材料に適していた。

十勝の旧石器時代の遺跡からは、黒曜石で作った石器が数多く出土する。化学分析によって、遠軽町白滝や置戸など、十勝以外の産地の黒曜石が持ち込まれていたことも分かっている。

 

日本の旧石器時代は、一般には土器の出現以前の時代とされる。現在のところ、日本列島で確実な人類活動の痕跡(遺跡)が見つかるのは、およそ4万年前以降(後期旧石器時代)のことである。

この時代は、最終氷期(約8万~1万年前)とよばれる寒冷な時期に相当し、とくに2万5000年前頃からは、最も寒冷な時期(最寒冷期)に入った。

北海道(十勝)での人類の足跡は、約3万年前から見られるようになり、2万年前以後には多くの遺跡が残されるようになった。この時代の遺跡は十勝ではおよそ100ヵ所見つかっており、最も古い遺跡は3万年くらい前に残されたと考えられている。

8万年前ころから始まる寒冷化は、海水面を低くし、北海道は大陸からのびる半島の一部になった。海水面は今より120mくらい低かったようである。

 最寒冷期の十勝は、年平均気温が現在よりも7~9℃低かったとされている。日高山脈には氷河が発達、平野部はハイマツやグイマツ、エゾマツなどの針葉樹がまばらに生える草原状の景観だったと想像されている。

北方系の動物であるマンモスやステップバイソン、トナカイなど草原性の大・中型動物群は生息に適した環境を求め、陸伝いで北海道へやってきた。

この時期に北海道で生活していた人びとは、海水面の低下で陸続きになっていたシベリア方面から渡って来たと推測されます。寒冷な環境では、食料にできる植物がとても少ないことから、当時の人びとは定住せず、群れで移動する大・中型動物の狩りで得た獲物をおもな食料にしていたと考えられる。

遺跡から見つかる石器には、槍の先、毛皮や革の加工に使われる掻器(そうき)、切ったり削ったりする削器(さっき)、骨や角の加工に使われることの多い彫器(ちょうき)、形のそろった縦に長い石刃(せきじん)細石刃(さいせきじん)、石斧などがある。ほかに、赤や黒の顔料のもとになった鉱物も見つかっている。

1万5000年前以降になると急激な温暖化が地球規模で進み、地形や植生・動物相に大きな変化をもたらした。森林が拡大し草原が減少したため、草原性の大・中型動物の減少や絶滅、シカ属(エゾシカなど)の分布域の拡大などが想定されている。

このころ、両面に丁寧な加工を施して作られた小・中型の石槍や、刃部を磨いて作られた石斧が出土するようになった。このような石器群出現の背景には、気候の急激な温暖化の進行が考えられる。 この直後、およそ1万4000年前に本州方面から土器文化を携えた人びとが大正遺跡までやってきたようである。

なお、温暖化に伴う海水面の上昇により、約8万年前以降陸橋によってつながっていたサハリンとの間には、宗谷海峡が成立し、1万3000年前頃には北海道は大陸と切り離され、島になったとされている。

■細石刃(さいせきじん)。

 細石刃は、幅数㎜~1㎝前後の細長いカミソリの刃のような石器である。ツノの先などで、細石刃核から押し剥して作られた。

多くはナイフや槍の部品として使用され、複数の細石刃を動物の骨などで作った軸の側縁に埋め込んで槍などとして用いた。この石器は刃こぼれが生じても、その部分だけを新しい細石刃に取り替えて使うことができるという効率的な道具であった。

日本列島を含む東アジアからアラスカにかけて広い地域に分布しており、起源はシベリア方面に求められるようで、およそ2万4000年前に北海道に出現し、2万年前以降には道内各地で細石刃を出土する遺跡が急増する。さらに、この数千年後には本州へ波及したようである。

 なお、細石刃を出土する遺跡・地点は道内で約300、十勝では46ヵ所が確認されている。

帯広市暁遺跡。 

後期旧石器時代後半期の細石刃石器群(約1万6千年前)と縄文時代早期(約9千年前)の土器(のちに暁式土器と命名)が出土した。

暁遺跡からは、細石刃(さいせきじん)とよばれる石器が8千点以上も出土している。当時、この遺跡では石器製作が集中的に行われていたものと考えられている。

出土した石器類は、質・量とも全国的に見ても豊富で、当時の石器製作技術や広域での石材獲得活動のようすなどを知る上で貴重な遺跡として評価されている。

暁遺跡の細石刃は、幅が8㎜~12㎜前後の幅広タイプと5㎜前後の細身のタイプがあり、前者のほとんどは帯広から直線距離で100㎞以上も離れた、遠軽町白滝から産出する黒曜石を素材としている。

なお、次の時期に現れる大型の両面調整石器も多くは白滝産の黒曜石が用いられている。白滝産地の黒曜石は良質で量も豊富であったため、旧石器時代には道内はもとよりサハリンの遺跡まで運ばれていた。このことは、製作する石器に合わせて石材の産地が選定されていることや、石材の広域流通ネットワークの確立がうかがわれる。

スポット12の細石刃。

発掘調査で出土した石器の広がりを見ると、とくに密集する範囲が22ヵ所あり、この範囲を中心に石器作りが行われていたことを物語っている。

22ヵ所の密集範囲のうち、スポット12とよばれる15×17mの範囲からは、1900点の細石刃をはじめとし、掻器や彫器などの加工具、細石刃核(細石刃が剥されたあとの付いた石器)、剥片(かけら)など、5700点あまりが見つかった。

帯広市 帯広百年記念館③白亜紀蝦夷層群 アンモナイト類化石 ゴードリセラス


福島県桑折町 戦国伊達氏の本城 桑折西山城跡

2024年06月24日 15時58分00秒 | 福島県

国史跡・桑折(こおり)西山城跡ガイダンス施設の展示。桑折大かや園。福島県桑折町万正寺字大榧。

2024年5月26日(日)。

14時30分ごろ、国史跡・阿津賀志(あつかし)山防塁「下二重堀地区」の見学を終え、16時に閉まる戦国時代伊達氏の本城であった桑折西山城跡ガイダンス施設(月曜日休み)へ向かい、新幹線ガード下を進んで、14時45分頃桑折町老人福祉センター「大かや園」の天然記念物・「万正寺の大榧(おおかや)」の大樹がある駐車場に着いた。玄関を入った正面の部屋がガイダンス施設になっている。

千田嘉博氏と高橋英樹氏の写真と直筆サインが飾られており、心を和まされた。2021年10月に全国山城サミット桑折大会が開かれたという。桑折西山城跡に関する小冊子・見学マップなどのパンフレットを入手して、展示を見たあと、車まで登城口駐車場のある観音寺まで向かったが1分もかからなかった。車は奥に1台停まっているだけだった。登城口手前には、1週間ほど前に城跡麓にクマが目撃されたという注意看板があったが、登城口の扉を開閉して登城道を登り、いったん町道と合流しながら、大手門跡に着き、本丸跡に登ったのち、往路を戻った。見学時間は40分ほどであった。

桑折西山城は、桑折町の西方標高193m高館山(たかだてやま)を中心に位置している。伝承によれば、1189年(文治5年)の奥州合戦の戦功によって、伊達郡を与えられた常陸入道念西(伊達氏初代伊達朝宗)が居を構えたと言われている。また、応永7年(1400)から9年にかけて鎌倉公方に背いだ9代伊達大膳大夫政宗が立て籠もって上杉禅秀の攻撃をしのいだ赤舘もこの西山城と言われている。

大永2年(1522)奥州守護・奥州探題となった14代伊達稙宗は、1532年(天文元年)に居城を梁川城(福島県伊達市)から桑折西山城に移した。西山城が現在の規模に築城されたのはこの時で、西山城は文字通り陸奥国守護の府城となった。

伊達稙宗は1536年(天文5年)には分国法「塵芥集」も制定しており、桑折西山城の本丸建物で発布されたとされている。その71条には「みちのほとりにて見つけ候ひろいものの事、にし山のはしもとにふたをたて……」とみえており、この西山城とその城下が伊達氏分国の中心であったことをよく示している。

1542年(天文11年)、稙宗の三男・伊達実元の越後上杉氏への入嗣問題を巡り、稙宗の嫡男・15代晴宗が稙宗を西山城へ幽閉するという事件が起きた。この事件を契機に、伊達氏は稙宗方と晴宗方に分かれて内紛状態になり、さらには南東北の諸大名も巻き込んだ大規模な内乱状態となる(天文の乱)。

この内乱は約7年続いたが、この間西山城では何度も両軍の攻防戦が展開された。戦況はしだいに晴宗方が優位となり、1548年(天文17年)に将軍足利義輝の命によって両軍は和睦し、晴宗が伊達氏家督を継いで稙宗は丸森城(宮城県丸森町)に隠居した。また、晴宗も居城を米沢城(山形県米沢市)に移し、西山城は破却された。

ただし、城域西側の西館・中館は、廃城になった後、戦国時代末期以降に戦闘用の砦として再構築されている。

桑折西山城は、東側の高舘とよばれた本丸・二の丸と数段の腰曲輪と、鞍部を隔てた西側の中舘・西舘とよばれた主に4つの曲輪を中心とした曲輪によって構成され、東西1km、南北500mの規模をもつ。城の北面から東面へ流れる産ヶ沢川は天然の堀として利用され、城から川にかけては急崖である。比較的、傾斜の緩やかな南側には現在は、観音寺という伊達氏ゆかりの寺が残っている。また、西舘の南には枡形虎口、中館にはカギ型土塁の遺構がみられる。また二の丸の南西には戊辰戦争時の砲台場跡もみられる。

登城口。観音寺駐車場北。

大手門跡。

二の丸南西下。砲台場分岐。

本丸表門への途中から。二の丸跡・奥に中舘跡方向。

本丸表門跡から南方向。

本丸跡。

福島市の信夫山方向。

本丸の東端部から中心部方向。

本丸跡中央部の高館城址碑。

本丸から下る途中。二の丸跡・中舘方向。

 

見学後、福島市の文知摺観音へ向かった。

福島県国見町 国史跡・阿津賀志(あつかし)山防塁 源頼朝・伊達氏


帯広市 帯広百年記念館③白亜紀蝦夷層群 アンモナイト類化石 ゴードリセラス

2024年06月24日 09時19分17秒 | 北海道

帯広百年記念館。帯広市字緑ヶ丘。

2022年6月11日(土)。

アンモナイト類化石。中川町佐久出土。

中川町は、北海道の上川地方最北部に位置する町で、明治期以来アンモナイトの化石が発掘されている。

北海道は世界有数のアンモナイト産地である。アンモナイトの産出は世界で1万種以上、北海道で500種以上、中川町で100種以上とされる。

地層は蝦夷層群という白亜紀後期の海の地層で、北海道の襟裳岬から宗谷岬まで南北に縦断して広がる地層で、縦長の中川町に広く分布する。地層が川で削られることで化石が産出する国内屈指の白亜紀海生生物の化石産地で、クビナガリュウの全身復元骨格標本がある

 

アンモナイト(subclassis Ammonoidea)は、古生代シルル紀末期から中生代白亜紀末までのおよそ3億5000万年前後の間を、海洋に広く分布し繁栄した、イカ・タコなどの頭足類の分類群の一つ。多くの種が平らな巻き貝のような形をした殻を持っているのが特徴である。

中生代の幕引きとなる白亜紀末のK-Pg境界を最後に地球上から姿を消した。

蝦夷層群は、北海道浦河町から稚内市の宗谷岬を通りロシア連邦サハリン州西部アレクサンドロフスク・サハリンスキーまで北海道中軸部を貫くように分布する

前期白亜紀アプチアン期から古第三紀暁新世にかけて堆積した海成層の地層で、アジア大陸東岸の前弧海盆に堆積し、全層厚は約10,000メートルに達する。

蝦夷層群は下位から順に惣芦別川層・シューパロ川層・丸山層・日陰ノ沢層・佐久層・鹿島層・函淵層の主に7累層に区分される。また、下部日陰ノ沢層から佐久層に対応する三笠層と、鹿島層に対応する羽幌川層があり、三笠層と羽幌川層は浅海層である。

蝦夷層群からは生物の化石が数多く産出する。世界的なアンモナイト産地である蝦夷層群では報告されたアンモナイトの種数が数百種に上り、ニッポニテスやエゾセラスなどがいる。アンモナイトの他に多産する生物として二枚貝のイノセラムスがあり、示準化石として用いられている。

恐竜ではテリジノサウルス科のパラリテリジノサウルス、ハドロサウルス科のカムイサウルス、ニッポノサウルスがいる。海棲爬虫類の化石も発見され首長竜などが報告されている。

佐久層は、日本の北海道中軸部に分布する地層。蝦夷層群を構成する累層であり、天塩中川地域の佐久地域が模式地に指定されている。佐久層およびそれに相当する地層は北海道中軸部に広く分布している。

鍵層であるKY-4層の絶対年代は9500万年前後を示し、海洋無酸素事変を示すOAE 2が確認されている。

佐久層では泥岩中に石灰質ノジュールが多く見られ、アンモナイトやイノセラムス類が多産する。同時期の三笠層からはトリゴニアやカキなど浅海性二枚貝類の化石が産出する。

鹿島層は、下位層に佐久層、上位層に函淵層があり、また浅海相の羽幌川層と対応する。北穂別地域や大夕張地域、富内-安住地域などに分布している。

栗原・平山 (2003) によると鹿島層はUaユニットとUbユニットに区分される。鍵層KY-6の放射年代は約8.2~8.5千万年前を示す。佐久層上部から鹿島層にかけて当時の堆積環境は中部 - 上部漸深海にあったと推測されている。

鹿島層のUaユニットは生物化石に乏しく、Ubユニットは化石に富む。Ubユニットのアンモナイト化石ではネオフィロセラス、アナゴードリセラス、ゴードリセラス、テトラゴニテス、メソプゾシア、ダメシテス、スカフィテスが主に産出する。

ゴードリセラス(学名:Gaudryceras)は、ゴードリセラス科に属するアンモナイト亜綱アンモナイト目の属。前期白亜紀のアルビアン期から後期白亜紀のマーストリヒチアン期にかけて生息し、日本からも化石が産出する。

ゴードリセラスは1894年に命名された。Gaudryは研究者の名前、cerasは「角」を意味し、後者は太陽神アメンの角に由来している。ゴードリセラスはテチス海やインド太平洋(特に北太平洋地域)に広く生息していたため種数が多く、2012年時点では過去100年間に20種以上が記載されている。

(国土交通省北海道開発局 帯広開発建設部)

帯広市 帯広百年記念館②十勝監獄 ばんえい馬と農耕 カルチベーター プラウ ハロー


福島県国見町 国史跡・阿津賀志(あつかし)山防塁 源頼朝・伊達氏

2024年06月23日 15時08分09秒 | 福島県

国史跡・阿津賀志(あつかし)山防塁。下二重堀地区。福島県国見町西大枝字原前。あつかし千年公園。

2024年5月26日(日)。

鎌倉時代以来、中世伊達氏の本城であった伊達市の梁川城跡を見学後、伊達氏初代伊達朝宗(中村常陸入道念西)が、源頼朝の奥州征伐のさい、文治5年(1189年)の「厚樫山の合戦」で奥州藤原氏を撃破した国見町の阿津賀志(あつかし)山防塁の現地とガイダンス施設へ向かった。次に、桑折西山城跡などの見学を予定しているので、一番遺跡の残りが良いという下二重堀地区を見学することにしたが、場所が正確には分からなかったので、先に国見町文化財センター「あつかし歴史館」を見学し、下二重堀地区見学用駐車場は「あつかし千年公園」ということを教えてもらった。

阿津賀志(あつかし)山防塁は、源頼朝の軍勢が奥州へ攻め入ることを想定して事前に奥州平泉の藤原氏が築いた防御施設で、阿津賀志山中腹から阿武隈川まで約4㎞の距離にわたりに構築され、我が国三大防塁の一つとされる。

『吾妻鏡』文治5年条の記載は、「阿津賀志山」周辺を源頼朝の奥州征伐の最大の激戦地として詳細に伝えており、この地における泰衡の敗退が奥州藤原氏の滅亡を招いたとしている。

1189年(文治5年)8月の阿津賀志山の戦いでは、阿津賀志山一帯に立て籠もる奥州藤原氏(大将・藤原国衡)と源頼朝の軍勢が3日間にわたり戦って源頼朝軍が勝利し、以後は大きな抵抗もなく平泉に進軍して奥州藤原氏を滅亡させて鎌倉幕府の全国支配を決定づけた戦場であり、勝利に貢献した関東武者の中村常陸入道念西が、伊達郡を源頼朝から恩賞としてもらい、姓を伊達氏と改めた伊達氏発祥ゆかりの地でもある。

 

本遺跡は宮城県との県境に接し、福島盆地の北端に位置する標高289mの厚樫山の南麓から、そのまま約4km南下して阿武隈川に近い地点までの水田地帯に所在する。この一帯は現在も東北本線・国道4号・東北自動車道が平行して通っていることからわかるように、北上するには必ず通らなければならない交通の要衝であり、また、奥州藤原氏の郎党・佐藤基治の本拠地でもあることから、南からの攻撃に対しての平泉守備の最前線基地として奥州藤原氏が重要視していた場所であったと考えられる。

この一帯には、今日も「阿津加志山」「大木戸」「国見」のほか、「堤下」「中島」「遠矢崎」「段ノ越」「上二重堀」「下二重堀」「石田」「元木(本城・元柵)」などの地名が南北に連なっているが、現況は東北本線・国道4号線・東北縦貫自動車道などに分断され、更に耕作や用水路などによって地形が相当に改変されてはいるものの、その間に国見町史跡「阿津加志山二重空堀」を始めとして、水田畦畔の各地、あるいは畑地・果樹園・墓地等の随所に断続的に土塁状の地形の高まりや段差を残し、特に「下二重堀」地区には明らかに二重の堀跡と三重の土塁跡が現存していて、古くから『吾妻鏡』文治5年条記載の藤原泰衡が構築したという「阿津賀志山」と「国見宿」との中間の「口五丈堀」であろうと考えられてきた。

1971年、東北自動車道建設にともなう調査により、厚樫山の南傾斜面中腹で、二重の堀を2m前後に掘り、その排土を約1m程度に積みあげた三重の土塁跡を検出した。また、西堀の西壁と東堀の東壁との掘り込み部の幅は15mにおよび、東土塁には自然石で根固めをしていることも確認された。

1978年、この地区一帯の圃場整備事業のための発掘調査により二重堀が検出され、二重堀の幅15m、堀の深さ1.5mから2.8mで、堀としては深く、断面がV字状をなす「薬研堀」であることが確かめられた。

この遺跡が藤原泰衡の防塁跡であることはほぼ間違いないものと考えられ、また、二重堀の堀幅の15mは吾妻鏡に記された「口五丈堀」の「五丈」におおむね一致していることが裏付けられた。

 

国見町文化財センター「あつかし歴史館」。福島県国見町大木戸霞原。

「あつかし歴史館」は、旧大木戸小学校校舎を改修した阿津賀志山防塁のガイダンス施設であるが、国見町の文化財も展示している。

防塁を迂回する頼朝軍の奇襲戦術により、防塁による防御力は低下した。

 

14時30分ごろ、下二重堀地区の見学を終え、16時に閉まる桑折西山城跡のガイダンス施設へ向かった。

福島県伊達市 中世伊達氏の本拠地 梁川城跡