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山形県高畠町 山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館③置賜地域の弥生・古墳時代 稲荷森古墳・天神森古墳・下小松古墳群

2024年09月27日 10時25分12秒 | 山形県

山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館。山形県東置賜郡高畠町安久津。

2024年9月6日(金)。

 

置賜地域の弥生時代・古墳時代。

米作りを始めた頃の置賜地域の弥生時代の出土品や、古墳時代の集落からの出土品、国史跡で全長96mと県下最大の前方後円墳である稲荷森古墳と下小松古墳群、県史跡の前方後方墳である天神森古墳、県指定有形文化財のお花山古墳群出土品や資料館の周辺にある安久津古墳群とその出土品、古墳時代の集落からの出土品を紹介している。

川西町・天神森古墳は、東北地方の前方後方墳の中では最大級である。築造年代は古墳時代前期の4世紀前半と考えられている。県内の確かな古墳では、南陽市の稲荷森古墳(前方後円墳/全長96m)に次ぐ大きさで、全長75.5mを測る。

小松駅の北東、フレンドリープラザの北の平地部にある。昭和55年(1980年)、川西町教育委員会の調査で、自然堤防状の高まりをみせる地山を整形し、削り出して盛土した前方後方墳であることが確認された。

同じ前方後方填の米沢市窪田寶領塚古墳、南陽市蒲生田3・4号墳などとともに最古に属する古墳である。この北西部の眺山丘陵には、前方後円墳19基を含む179基の下小松古墳群があり、国指定史跡となっている。

墳丘全長75.5m、後方部の長さ43m、後方部幅56m、高さ4.3m、前方部の長さ32.5m、幅32m、高さ3m。後方部は長さに対して幅広で、前方部は撥型に広がる。版築によって盛土され、。

くびれ部から底に孔を開けた儀式用の壺(底部穿孔壺型土器)が発見された。これは古墳時代前期の土師器である。

南陽市・稲荷森古墳は、南陽市長岡にある前方後円墳。国の史跡に指定されている。

山形県では最大東北地方では第7位の規模の古墳で、4世紀末(古墳時代中期初頭)頃の築造と推定される。大型古墳としては日本海側内陸部で最北に位置する。

最上川を遡った内陸部に米沢盆地がある。この地域は、古くは置賜郡として陸奥国に属し、出羽国の成立とともに出羽国に属したもので、福島県・宮城県方面との文化的交流も深く、弥生時代中期以降の農耕文化を示す遺跡や横穴式石室をもつ古墳群の存在も知られていた。

この盆地の東北方に当たる平野部にある低丘陵を利用して営まれた前方後円墳が稲荷森古墳である。この古墳は、西南方に向かって連なる小さな低丘陵の一つを利用し、前方部を南々西に向け、後円部の東北方には丘陵が遺存する。

この付近は古墳時代中期ころ(南小泉式期等)の集落跡となっている。墳丘は半ばは丘陵を利用し、その上に盛土したものである。全長は約96m、後円部径62m、高さ約10m、前方部は長さ34m、前方部端幅32m、高さ約5mで、後円部は三段築成となっている。後円部に比較し、前方部が短く、また低い特色を示すが、全体として墳形を良く残しているものである。調査により葺石の一部や後円部築成前に破砕された土師器の脚部が検出されている。

この地域は、日本列島全体の古墳の広がりとしては北端に属する地域であるが、このような大型の前方後円墳が築造されていたことは、古墳時代研究上に新しい問題点を提出するものである。加えてこの盆地内で若干数の小規模な前方後円墳も知られつつあり、卓越した規模をもつ稲荷森古墳は、この盆地を基盤としたこの地域の首長墓としてとらえられるものである。古墳時代におけるこの地域と東方あるいは西日本等との政治的関係も示す重要なものである。

川西町・下小松古墳群は、米沢盆地西縁の川西町西部にのびる低丘陵・眺山(ながめやま)丘陵に築かれた約200基からなる東北有数の大古墳群である。

北から陣が峰支群・永松寺支群・薬師沢支群・鷹待場支群・小森山支群・尼が沢支群の6つのグループがあり、このうち薬師沢、鷹待場、小森山の3支群179基が国指定史跡になっている。

これらの古墳群の多くは、5世紀後半から6世紀にかけて営まれたものと推測されている。最も北に位置する陣が峰1号墳は古墳時代前期の4世紀中葉の前方後方墳で、古墳時代後期の6世紀に最盛期を迎えたと考えられている。大きさ10~34mほどの前方後円墳や前方後方墳、円墳、方墳があり、小森山支群には山形県下の約半数となる19基の前方後円墳が造られるなど、当時の東北経営のあり方を示す重要な古墳群となっている。

主な古墳を発掘調査した結果、鉄の刀や剣、鏃(やじり)などの武器類のほか、青銅鏡、ガラス製の玉、農工具、須恵器や土師器などが出土した。前方後円墳は、一定の権力を持つ人物の墓とされていることから、これらの被葬者はヤマト王権にかかわりのある人物であったとも考えられる。

高畠町・阿久津古墳群。

安久津集落の北側に分布し、東から安久津八幡神社の裏手の鳥居町支群12基、県立考古資料館敷地内の安久津支群5基(現存するもの2基)、その北側山腹の味噌根支群3基、源福寺支群4基、加茂山洞窟墳1基、羽山古墳1基、北目支群13基より構成される。

築造年代は7世紀後半~8世紀中葉と推測される。

これらの古墳は、すべて横穴式石室を主体とし、付近から豊富に産出する凝灰岩の巨石を用いて石室を構築しており、墳丘規模は10~20m程度の円墳である。これまで県教育委員会や高畠町教育委員会によって発掘調査されたのは、鳥居町9・12号、安久津1~4号、味噌根2号、北目1号などである。

出土遺物は、直刀・刀子・蕨手刀・鉄鏃・刀装具・玉類・耳環などで、羨道部や前庭部から土師器や須恵器も多く発見された。

羽山古墳。

標高280mほどの南に面した横穴式古墳。十数基あったといわれる羽山古墳群のうち、唯一現存する古墳。小規模ながら生前とした石組みが見事な玄室が残る。出土品には、メノウの勾玉など5種類650個の玉類、青銅にメッキした金環19個等があり、副葬品の少ない山形県内の古墳の中でも特に重要な古墳である。

このあと、阿久津八幡神社を見学した。

山形県高畠町 山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館②遊佐町の縄文遺跡 小山崎遺跡


室井佑月 「アベノミクスをやめる」…いわないのではなく、いえないのかもしれん。

2024年09月27日 07時15分04秒 | 社会

室井佑月の「嗚呼、仰ってますが。」

「アベノミクスをやめる」…いわないのではなく、いえないのかもしれん。

2024/09/20 日刊ゲンダイ 室井佑月 作家

 

アベノミクス路線、もっといえば新自由主義路線を自民党は行くんですか、いい加減ここらでその弊害が出ているんだから見直すんですか。本来の自民党路線は違うんじゃないですか』(神保哲生・ジャーナリスト)

 

 これは9月14日に配信された『videonews.com』の『日本の次の総理を決める選挙でアベノミクス継承の是非を問わずにどうする/大沢真理氏(東京大学名誉教授)』という記事と一緒に貼り付けられた動画の中での神保さんの言葉だ。

 

大沢さんと、神保さん、社会学者の宮台真司さんが対談し、その内容が記事になったようだ。

 記事のタイトル通り、自民党の総裁選、あたしもこのことを中心に話すべきだと思う。

 記事には、こう書いていた。

 

(総裁選で)誰もアベノミクスの検証の必要性を口にしないまま、それぞれに勝手な経済政策を主張している』

 

 不自然だよね。それが総裁選の一番の論点にならないのはおかしい。

だって、日本はここ30年、ほぼ経済成長できなかった。儲けた企業はあるけれど、人々の賃金は上がらず、困窮者が増えた。アベノミクスによる円安で、国民の6割が生活困窮を訴えるまでになっている

 次の首相候補が、独自の経済対策を新たに述べるのは構わない。けど、まずアベノミクスについて検証だろう。

 アベノミクスの弊害ははっきりしている。なら、その一番の対策は『アベノミクスをやめる』ことなんじゃないのかな?


山形県高畠町 山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館②遊佐町の縄文遺跡 小山崎遺跡

2024年09月26日 10時58分40秒 | 山形県

山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館。山形県東置賜郡高畠町安久津。

2024年9月6日(金)。

 

特別テーマ展「遊佐町の考古学Ⅰ-旧石器、縄文時代-」展

 6月15日(土)~9月8日(日)

小山崎遺跡山形県の最北、秋田県に接する遊佐町吹浦地区に所在する。山際の斜面地からは縄文人が4,200年~3,000年前に暮らした住居跡が発見され、その正面の低地には石敷きの道や作業場を持つ「水辺の施設」が残っていた。

周辺からは縄文人が食べたサケやイノシシなどの動物の骨や木の実のほか、約6000年前の祖先の骨までもが見つかる。加えて、シカの角で作られた道具や高い技術力がうかがえる漆製品、数々の木工品が発見されている。

小山崎遺跡の低地東部からから出土した前期初頭の上川名2式、前葉の大木1式土器、中葉の2a、2b式、3式、後葉の5式、6式を展示。

小山崎遺跡の低地西部から出土した中期後葉の大木9式の深鉢破片と台地斜面部の住居跡から出土した大木10式の深鉢や注口土器、珍しい橋状把手のついた土器など展示。

 

上川名式土器は、東北地方南部の前期初頭土器型式。「羽状縄文系土器」の最初期に位置する関東地域の前期初頭の土器型式である花積下層式と共通性がある。

大木(だいぎ)式土器は、東北地方を中心に分布する縄文時代前期前葉から中期末葉までの土器型式で、標式遺跡は宮城県七ヶ浜町の大木囲貝塚である。1式から10式に細分され、大木6式土器までが縄文時代前期に属し、7a式以降は縄文時代中期に属する。

縄文時代前期から中期中葉までは、概ね秋田市・田沢湖・盛岡市・宮古市を結ぶ以南の東北地方南部を主な分布域とし、東北地方北部から北海道南西部にかけて分布する同時期の円筒土器と並行する。

後期中葉の加曾利B式併行の土器 小山崎遺跡低地西部から出土。

加曽利B式は縄文後期中頃の土器

 

吹浦(ふくら)遺跡で出土した大木6式1・2期、3期、4・5期の土器と土器片を展示。

吹浦遺跡。遊佐町吹浦堂屋・一本木・赤坂。

鳥海山(2237m)の泥流が築いた西裾の南に舌状に突出する台地上、標高5―16mの緩斜面にある。庄内平野と庄内砂丘の北端を限る山裾にあり、眼下の牛渡(うしわたり)川が遺跡の西で月光(がつこう)川(吹浦川)に合流してすぐ日本海に注ぐ。縄文海進時には河口から内陸深く潟湖であったと推定される。遺跡の北北西には大物忌(おおものいみ)神社吹浦口之宮と神宮寺跡があり、「三代実録」仁和元年(885)に「神宮寺西浜」に石鏃が降った記載がある。

大正8年(1919)に貝塚が出土し、一本木(いつぽんぎ)貝塚として紹介され注目された。昭和24年には遺物と横穴が出土。さらに同26―28年にかけて四次にわたる県下初の科学的発掘調査が実施され、竪穴住居・洞窟・竪坑・貝塚などが明らかになり、食生活の残滓も含めた縄文文化が総合的に示された。

朝日下層式土器北陸地域を中心に分布する縄文時代前期末の土器型式である。富山県氷見市に所在する国指定史跡朝日貝塚の下層出土資料を指標として設定された。

 

柴燈林(さいとうばやし)遺跡から出土した中期前葉の深鉢や浅鉢、北限の火炎土器(馬高式土器)など展示。

 

 

吹浦遺跡、小山崎遺跡、神矢田遺跡から出土した土偶、石棒・石刀・石剣、異形石器、土製石製の耳飾り、土製品、骨角製の装身具、漆関連製品や漆容器、アスファルト付着石器、ヒスイ、ネフライト製品とココヤシ、青銅刀のレプリカを展示。

山形県高畠町 山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館①日向洞窟遺跡 押出遺跡


山形県高畠町 山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館①日向洞窟遺跡 押出遺跡

2024年09月25日 11時09分45秒 | 山形県

山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館。山形県東置賜郡高畠町安久津。

2024年9月6日(金)。

米沢市の宮坂考古館の見学を終えたのが15時30分頃だった。北東方向に隣接する高畠町の山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館へ急ぎ、16時ごろに駐車場へ着いた。閉館は16時30分である。今回の旅行の行程は9月15日の山形市での芋煮会体験後、17日昼に東京・杉並まで高速道路不使用で到達するという野心的計画だったので、なるべく米沢市・山形市・天童市を済ませておく必要があった。

考古資料館の受付で、今からですか、16時30分までですよ、と言われた。見学を終え受付へ帰ったのは16時30分頃で、館長らしき人が玄関から出ていくのと同時だった。玄関横に、いまどき珍しくウォータークーラーがあり、かなり飲んだ。

 

「うきたむ」とは「置賜」の古語である。もともと「u-ki-tomam」(“ウキタム”「広く葦のはえている湿地」の意味)のアイヌ語に由来しており、「優嗜曇」の字をあてはめたものという。歴史上最初に出てくるのは日本書紀であり、その後「オイタム」や「オイタミ」などさまざまな読み方がされ、中世以降は「オキタマ」と呼ばれた。白龍湖周辺(南陽市赤湯地区)の湿地帯にはウキタムの面影を感じとれる風景が残るという。

山形県立というだけあって、常設展示室は置賜主体だが、企画展示では置賜地方だけでなく山形県全体の埋蔵文化財をカバーしている。

 

ロビー展示。置賜のあけぼの。旧石器時代。

今から4~5万年前の飯豊町上屋地遺跡からはじまり、約3万年前の岩井沢遺跡、約2万年前から1万5千年ほど前までの小国町湯の花遺跡などの主として置賜地域の旧石器時代を紹介している。

後期旧石器時代後半期の湯の花遺跡から出土した黒曜石製石器の原産地を地図で示している。北海道の白滝や、青森県深浦、秋田県脇本、長野県小深沢など極めて広範囲に渡る交流を示している。

湯の花遺跡。小国町湯の花裏山。小国盆地の東縁、荒川の支流横川の形成した洪積段丘上に位置する。標高160m。当遺跡にはいくつかの地点があり、旧石器時代のナイフ形石器や石刃などが採集されている。このうち細石刃核が採集されているM地点が1972年以来三回にわたって調査された。調査区の南東隅に3×1.5mの楕円形状の礫群がある。炉跡であろう。出土遺物は細石刃・稜付削片・スキー状削片・石刃・石核・ナイフ形石器・彫刻刀形石器・掻器などで、石材は頁岩・玉髄・黒曜石を用いている。

繩文時代草創期。日向(ひなた)洞窟遺跡の隆起線文土器。

高畠町には繩文時代草創期の頃に営まれた日向洞窟、一ノ沢洞窟、火箱岩洞窟、大立洞窟の4つの国指定史跡がある。

日向洞窟は、山形県東置賜郡高畠町にある洞窟遺跡で、米沢盆地の東北縁、宮城県の白石市方面から奥羽山脈を米沢盆地に抜ける国道113号線の出口に当たる北側山地に所在する。付近には、本洞窟のほかに尼子洞窟群、観音岩洞窟群など14地点に洞窟遺跡群が存在している。洞窟遺跡がこれほど密集する地域は他に類を見ないものである。

この日向洞窟は、通称「立石」(標高230メートル)の麓に南に開口する。立石は凝灰岩塊の露頭で積年の侵蝕、風化作用によって形成された4か所の自然洞窟、岩陰が居住に利用されたものである。このうち最も規模が大きい洞窟を日向第1洞窟、第1洞窟の真上に小規模な日向第2洞窟、さらに第1洞窟より東へ約15メートルの所に日向第3岩陰、第1洞窟より西へ約40メートルの所に日向第4岩陰が位置する。洞窟前面には豊富な水量の小川が流れ、ゆるやかな勾配で、「白龍湖低湿地」に臨む。

発掘調査の結果、遺跡の中心が日向第1洞窟にあることが判明した。洞窟内には、基盤上に5層の堆積層が認められ、第1層の表土には繩文時代晩期以降の遺物、第2層には繩文時代晩期から早期の各時期の遺物、第4層には繩文時代草創期の遺物が包含されていた。第3層と最下層の第5層には遺物の包含は見られない。このうち特に第4層の繩文時代草創期に属する土器、石器は、新潟県小瀬ヶ沢洞窟、長崎県福井洞窟等と並んで、旧石器文化から繩文文化への発展過程を解明する上で極めて重要な資料を提供するものである。

土器は、繩文時代最古の隆線文系土器をはじめ、後続爪形文系土器多繩文系土器の各様式が存し、現在までのところ、日本海側の草創期土器の北限をなしている。このことは、日本列島において土器製作が開始された当初の繩文土器の普及状況の一端を示すものである。

また、伴出の石器は、石鏃、石槍、有舌尖頭器、断面三角形の鑚、局部磨製石斧、矢柄研磨器等他の時期には例を見ない程多種にわたる。このうち、矢柄研磨器、断面三角形の鑚は、草創期の一時期に限って出現し、早期以降に継承されないで姿を消す特殊な種類であり、それらは山内清男によって繩文文化成立にかかわって大陸から渡来した石器の一部であろうという説がなされた注目すべきものである。

2016年、西側約150メートルの休耕地の地表を2メートル掘り下げた地点で、縄文時代草創期の局部磨製石斧と矢柄研磨器がそれぞれ1点ずつ見つかった。

2020年、日向洞窟の近くで見つかった縄文時代草創期前半の竪穴建物跡は、東北地方では最も古いものとされている。

 

押出(おんだし)遺跡は、東置賜郡高畠町深沼押出に所在する縄文時代前期の集落跡である。大谷地(おおやち)低湿地の南西部(標高約240m)にある低湿性集落跡である。1972年に沼尻排水路掘削に際して注目された。1985年から87年にかけて、米沢―南陽道路(国道13号)の建設に伴って緊急発掘調査された。

現地表下2mに生活面があり、調査区4000㎡の範囲に大壁構造かとみられる33棟の打込杭式の平地住居跡が検出され、焼けた礫を積んだ石塚も確認されている。これら住居跡の形態は,通常の同時期の遺跡でみられる「竪穴式住居」とは異なり、床を掘下げない平地式の「壁立式住居」であり,柱に丸太あるいは割材を用いて先端をとがらせて打込んである。また掘立柱による大型の建物も1棟検出されている。

出土した遺物には赤と黒の2種の漆を使用した彩文土器や漆塗りの木製大杯,その他各種漆製品や櫂 (かい) ,杓子 (しゃくし) ,へら状・弓状の木製品,縄・編物の断片,基部の付いた尖頭器や石鏃 (せきぞく) などのほかに異形石器,石製装飾品,漆の塊といった特殊なものもある。特に漆製品の存在はきわめて高度な漆技術があったことを裏付けるものであり、木製品、漆塗りの土器、木の実など多くの遺物が大変良い状態で発見されたことから、約6000年前のタイムカプセルと呼ばれている。

押出遺跡からの出土遺物の多くは、国の重要文化財に指定されている。

縄文時代前期後半・大木式の粘土紐貼付文が特徴的な深鉢形土器28個をはじめ、鉢形土器・台付鉢形土器・浅鉢形土器各1個、多様な造形の小形土器23個や、基部につまみ状の突起がある「押出形ポイント」と呼ばれたもの116本を含む石槍123本、石鏃・掻器・石匙・石錐等の利器類合計706個、磨石・凹石・食物の焼け痕が残る石皿等加工具としての石器類57個、石製装飾品9個、小形石棒2個、さらに赤漆櫛・盤・杓子・石斧柄・手網・箆状木製品残欠等多彩な木製品類33個で構成される。

 

縄文時代中期では中葉の米沢市台ノ上遺跡の土器、後葉の小国町下野遺跡などの調査成果や出土品を展示している。

小国町下野遺跡は、小国町増岡下野に所在する。小国盆地北西部、西流する横川と荒川との合流点東400m、荒川東岸(横川北)の段丘西縁に立地する縄文時代中期後葉、大木9―10式期の集落遺跡である。

1980年、県営圃場整備事業に先立って調査が行われた。縄文時代中期後葉の竪穴住居跡17棟(うち重複も含めて完掘したもの14棟)、土壙7基・集石遺構1基・埋甕跡9基が検出され、竪穴住居跡は特徴ある複式炉をもつ例が完掘14棟のうち7棟、石囲炉のもの2棟などであった。住居群から20mほど南東に離れた地点に同一時期にかかわる埋甕群が位置する。

山形県米沢市 重文・旧米沢高等工業学校本館


立憲・野田新執行部の人事案 幹事長には小川淳也氏が浮上

2024年09月24日 12時33分47秒 | 社会

【独自】立憲・野田新執行部の人事案が判明 幹事長には小川淳也氏が浮上 中堅議員を起用へ

Yahoo news 2024/9/24(火)  FNNプライムオンライン(フジテレビ系)フジテレビ,政治部

 

金子勝@masaru_kaneko

【同じ間違いを許さない】立憲民主党代表選の戦犯たちは影の内閣を否定し、若手を育ててこなかった。マニフェストを作った影の内閣の大臣を一人も入閣させず、TPPだ消費税だと勝手な政策を行って政権を壊し、風頼みで希望の党騒動に帰結した政策アジェンダを作らせるまで信用しないことだ

(🍓映画は面白かった。小川淳也には人間的魅力がある。斎藤元彦と同じく東大法卒の自治官僚OB。希望の党から出馬、野田佳彦の子分、維新候補への出馬取り下げ依頼事件はデメリット。党内左派のサンクチュアリ所属、井手英策からの支持があるので政策に期待できる。

 

立憲民主党の新たな執行部人事をめぐり、党運営の要の幹事長に小川淳也前政調会長(53)を起用するなどの人事案が浮上していることがわかった。

【画像】幹事長起用が浮上の小川淳也氏は「なぜ君は総理大臣になれないのか」というドキュメンタリー映画の主人公になったことが

 

FNNの取材に対し、関係者が24日、明らかにした。

23日の臨時党大会で選出された野田佳彦新代表は記者会見で、執行部人事の骨格について、24日午前中までに決め、午後にも両院議員総会で承認を得たい考えを示している。

 

浮上している人事案では、幹事長には小川氏政調会長には中堅・若手議員が所属するグループ「直諫の会」を率いる重徳和彦衆院議員を起用し、国会対策委員長は笠浩史国対委員長代理を昇格させる。

 

いずれも代表選では野田氏を支持し、党内では中堅議員にあたる。

また、代表代行には辻元清美氏を留任させるとともに、経験者の長妻昭政調会長を再び起用する方向。

 

野田氏は本格的な検討を行い、関係者との調整を進めた上で、慎重に最終判断するものとみられる。