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オホーツクミュージアムえさし。枝幸町三笠町。
2022年6月18日(土)。
「オホーツク人と死」熊木俊朗 東京大学総合研究博物館特別展展示図録(2002年)
「オホーツク文化」を知る者にとって、「オホーツク人と死」と聞いてまず思い浮かべるのは網走市モヨロ貝塚の墓であろう。手足を強く折り曲げて、土器を被せられ埋葬された様子は、当時の「死」と葬儀に関するイメージを強く喚起する。
また、死に際してオホーツク人の墓に副葬されるものには、武具や装飾具など、大陸系・本州系の稀少な遺物が認められることがある。このような点からオホーツク文化の墓は、埋葬されたヒトの形質人類学的特徴はもとより、葬送儀礼や社会生活、交易などの実態をリアルに示すものとして注目を集めてきた。
墓域は、「住居址のある付近に、住居址と重複せずに」つくられる例が一般的であるようだ。継続的な居住がおこなわれた目梨泊遺跡では、住居等の生活地点が移動するのと連動して、墓域も推移していくことが指摘されている。墓域と住居の近接関係を示す例といえよう。ただ、墓域と住居の位置関係については方位・地形上の一般的傾向はないようで、墓域の位置には住居の開口部側・奥側海側・陸側など様々な例が見られる。
大井晴男は、墓域は住居とは近接するものの、住居やキャンプサイトなどの日常的な生活空間から切り離され、それらと重複しないというのが一般的であるとする。大井の見解を裏付けるかのように、目梨泊遺跡では住居跡と墓域を区画するような、柵列と思われる柱穴列が検出されている。ただし、礼文島香深井A遺跡や常呂町栄浦第二遺跡では住居跡と墓が重複する例も見つかっており、日常空間/墓域の分離が厳密な規制であったか否かはなお検討を要する。
墓群の空間分布を分析して社会組織を復元しようとする試みもある。佐藤は目梨泊遺跡には「最低でも五群の墓域が存在」するとし、うち一つが一軒の住居に居住した集団に対応したとする。森秀之は佐藤の墓域をさらに細かく分割して七つのグループを設定し、各グループに一名ずつの刀剣被葬者=有力者がいるとした。森は「有力者」の具体像については触れていないが、仮にその存在が認められるとしても、それはオホーツク文化の社会に「超越的・絶対的な」リーダーは存在しないという従来の見解を越える人物(群)にはならないであろう。
モヨロ貝塚の墓の埋葬法は、土壙墓で、頭位は北西、仰臥屈葬である。頭の上部には土器が逆さまに被せられている(被甕)。オホーツク文化の典型的な墓制を示す例といえるが、墓制にはかなりの時期差・地域差があり、多くのバリエーションが認められる。
時期差は藤本によって指摘された。被甕のない木槨墓が最も古く、刻文期(天野の「中期」前半になると木槨墓にかわって被甕があらわれ、さらに貼付文期(天野の「後期」)になると被甕に加えて配石が盛行する、とされている。
一方、高畠は近年増加した資料を加えて集成し、墓制に関する諸要素の組み合わせに地域差があると指摘した。
(一)刻文期には墓制の地域差が成立し、(二)沈線文期以後も地域差は維持されるか、むしろ強化される、というプロセスが明らかになってこよう。重要なのは、地域内での通時的変化がゆるやかである一方、地域間では変化が連動していないようにみえる、という点である。すなわち墓制は、ある範囲の地域内で強く共有・伝承されてゆくかたちをとるといえよう。高畠の設定した「墓制の地域型」はこのような内容・性格のものであったと理解できる。特に刻文期から地域差が顕在化している
墓の副葬品に関しては、副葬品の所有形態を分析して社会構造を明らかにする、という方向と、副葬品(特に大陸系遺物)の類例・年代・分布を示して交易の形態を推定する、という方向から研究が行われてきた。
藤本の研究は前者の視点でなされたもので、以下の点が指摘されている。(一)副葬品は日常使用されていたものを用いる。(二)副葬品は個人の所有物であり、逆に副葬品に用いられない遺物は集団の所有物である可能性がある。(三)副葬品には性差があり、石鏃・骨鏃という陸獣狩猟具は成人男性の墓からのみ出土する。(四)墓どうしの間で、構造・副葬品の内容に格差はない。
よって経済・権力面で人々の上に君臨する人間は存在しない。このうち特に(一)については修正が必要であるようだ。高畠は、大陸系遺物全般一武具・各種装飾具・金属製生活用具)が日常の生活空間よりも墓から多く出土することに着目し、これらが「副葬品として選択される特別な背景を負っていた」と指摘する。副葬品には非日常的な・特別な意味を持ったものもある、と言い換えることができよう。
副葬品の意味については森の興味深い分析がある。森は、オホーツク・擦文の両文化間では刀剣を墓に埋納する方法に差があることを指摘し、両文化の間で刀剣に対する意識が異なっていたと推測する。擦文文化には刀剣を「身分秩序のシンボル」とする情報が本州側から伝えられ、その「象徴的価値」が意識されていたのに対し、オホーツク文化にはそのような情報が伝達されず、自らの伝統(「続縄文的遺制」)に則って刀剣が墓に副葬されていたという違いである。オホーツク文化の埋納法を「続縄文的」とする考え方には異論もあろうが、当時の社会状況を考える上で興味深い指摘である。
交易に関する研究には多くの蓄積がある。近年では、大陸系遺物が時期的・地域的に偏在する点に注目が集まっている。
まず時期的には、刻文期〜貼付文期前半(実年代を七〜八世紀とする)に大陸系遺物の流入が集中すると指摘されている。臼杵勲は同時期の極東の動向と関連づけながら、この時期以後オホーツク文化と極東をつなぐ交易ルートは縮小され、交易の中心が擦文文化へ移ったと想定する。
一方、地域的偏在については高畠がまとめている。大陸系遺物のうち、生活用具(曲手刀子・平柄鉄斧)には地域的偏在がみられない一方、装飾具・武具、特に武具の副葬は目梨泊遺跡とモヨロ貝塚に限定されることが指摘された。本州系の武具(蕨手刀等)も両遺跡への集中が認められている。
これらのことから、生活用具と装飾具・武具とでは流通ルート・交易形態が異なること、流通ルートからはずれた地域で模倣品が製作されること、目梨泊・モヨロの両遺跡で出土した帯飾の形態的類似はこのような交易形態を背景にしていること、などが推定されている。