最近は頑張って歩いても、
なかなか前のように20kmや
長いと30kmも歩いたりすることは
ほとんどありません。
朝はそこそこの9~10時ころ
から歩き始めて、歩き終わりか
その少し前に昼食を食べて、
一日の行程は終わりという
楽な感じが多いのです。
それで家に帰って少しゆっくりしたら
ジムに出かけるというお決まりのパターン。
まあコロナの関係でさほど
遠くへ歩きに行くこともないし、
外でビールを飲んだりもあまりとれない。
だから、そんなパターンにならざるを得ない。
そんな短時間の楽な歩きでも、
それでも2~3時間歩くと
結構な情報を得るので、
遊びと好奇心をそこそこ
満足させてくれるのです。
これはまあ歩き一筋9年の重み
というものにちがいない。へへ。
そんなことを踏まえて、
今回も少し前に歩いた高野街道の
つづきを歩きに行くことにしました。
前回は三日市町の駅から
電車で戻りましたので、
今回はそこからということになりますね。
では車で出かけてゆきましょう。
前回チェックしておいた
三日市町駅近くの駐車場に止めて、
そこから三日市町の駅前に行き
高野街道の続きをあらためて
歩いて行くことにしましょう。
駅から進行方向を眺めますと、
ああ、あの道ですね。
河内長野の観光案内所が言ってた通りに
道が茶色に塗られています。
これをたどってゆきましょう。
家の前にはこんなろうそく立ても
置かれていますねえ。
河内長野からのあちこちの家庭の前に
置かれていたのと同じですね。
しばらくいくと、大きな石が建っています。
これが里程石ですね。
狭山の人が発起人となり、
西高野街道の堺から高野までに
一里ごとに建ててられた石です。
ここは八里石ですね。
高野の女人堂まで八里で
あることを指しています。
1857年に建てられたという古い石です。
この里程石は高野街道の各地に
十三基ともすべて残されています。
ここ三日市は大阪から八里、
高野山から八里で
西高野街道で言えば
ちょうど中間点となりますね。
刻まれているのは
「高野山女人堂江八里」
側面には「南無大師金剛遍照」の
文字となっています。
堺のあたりでは、この石を目当てに
doironも進んできて
楽しかったですねえ。
でもまだまだ半分続いていきます。
ここから先では高野街道は
国道にいったん合流していきます。
そうなると車の通行量の多い道ですから、
歩きにくくなりますねえ。
国道沿いにはしばらく名所・旧跡もないので、
八里石からいったん三日市の駅まで戻り、
高野線の山側の道を歩いて
行くことにしました。
遠くに三日市の町を望める
高台の道ですね。
駅の中を抜けて広い道に出ます。
この日は天気も良く緑と町と
青空がとてもきれいでした。
そんな道を進んでいくと
新町橋のところに出てきます。
前方の山の中あたりは
「新町」
といわれていますが、
何も最近の都市開発で出来た街だから
そんな名前になっている
というわけではなくて、昔は
このあたり宿泊する人も多く、
三日市宿に泊れなかったひとのために、
新たに泊まれる場所も作ろうと、
高野街道が全盛だったころに
新たに作られた町なので、
こんな名前になっているそうです。
旧跡などはありませんが、
地域の名前が過去の歴史を
持っているという土地です。
コースはこの交差点から、
しばらく国道を進んでいきます。
昔高野山へ自転車のトレーニングに
行ったことがあります。
その時はずっと田舎のこの国道を
通ってきて、このあたりから
河内長野に向けての都会道に
なっていったなあという
印象がつよくあります。
いまはそこをてくてく
歩いているんですねえ。
人生、どんなふうに変わっていくのか
本当に想像もつかないものですねえ。
続く
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