いまの日本人は、「自己の権利ばかりを主張して他のことはお構いなし」、という『倫理』も『道徳』もへったくれもない、人として非常に未熟な人間が多く感じられます。
電車内で人目もはばからず化粧をする女性の姿も珍しくないですし、タバコや空き缶のポイ捨てもよく見かける光景です。
日本人とはそういう民族なのか?といえばそんなことはなく、むしろ逆。
かつての日本人は国政に携わるTOPの人間から農民や町人などの下々の者たちまでみな『道徳』や『倫理』を重んじ、誰が見ていなくても「そんなことしたらお天道様に顔向けできない」と自らを律する非常に霊性の高い民族でした。
それが戦後のアメリカ(GHQ)主導による資本主義化によって、『道徳』や『倫理』をどこかにウッチャッて自己の権利を何よりも尊重し、『ルール』さえ沿えば何をしても構わない、という歪んだ個人主義の社会になってしまいました。
かつての日本人。わたしたちのご先祖がいまの日本を見たらなんと思うでしょうか?
なんと自由な!なんとすばらしい時代だ!!
と、褒め称えるでしょうか?
とてもそうは思えませんが・・・。
むしろ、「我は、我は」と自己の権利を主張するばかりの日本人の多さに、『道徳』はどこへいったのか、と嘆き悲しむのではないかと思うのです。
そんなかつての日本人が大切にしていた『道徳』は『美』と『恥』という二つの価値によってできていました。
その行為は美しいか?
その行為は恥ずべきことではないか?
この2つが日本人の持つ『道徳』の基本的な考え。そして日本人的な価値基準でした。
ですから、いくら法で禁じられていないから良いといっても、人前で化粧をする行為は好ましくないことだと感じるのです。
『ルール』でアレコレと言動を規制するよりもよほどシンプルで、それでいてとても理にかなっていると思いませんか?
ただ、「美しいかどうか」はいいのですが、「恥ずべきことかどうか」の判断基準は個人によっての解釈に違いがでますし、社会の価値観にも非常に左右されるのですが、敢えていうなら「自分の魂、自分自身に対して恥ずべきことかどうか?」ということを判断基準にしたいと思います。
そうでないと、かつての武士社会のように面子や名誉を守るためなら、潔く死ぬのが良いことで、生きながらえる事は「恥ずべきこと」だと、その時代の価値観に影響されてしまうから。
真理とはどの時代、どの場所でも、変わらないもの。
ですから、これからは『美』を基準に物事を考えてみてはどうかと思うのです。