ひっさびさの『今伝えたいこと』シリーズです。
初めのころに随分とハイペースで書いて、言いたいことはほぼ書いてしまったのでこれからはこのシリーズはボチボチやっていこうと思います。
このカテゴリーはエピキュリアン的に楽しく実り豊かな人生を創造するために、まずはコレは知っておいた方がいいよ、という宇宙の基本ルールやそれに沿うために必要だと思われることを書いています。
今回のテーマは『判断を手放すこと』。
結構、難しいテーマです。
何が難しいかって、これは地球人類のテーマともいえるから。
キリスト教では原罪にも由来すること。
話はむかーし、昔の人類の祖、アダムとイブにまで遡ります。
神様は彼ら(アダム&イブ)をこよなく愛し、故にすべての権限と自由を彼らに与えました。ただ、たった一つだけ彼らに絶対にならぬ、と禁じたことがありました。
それが、ある木の果実を食すること。
彼らは固くこの言いつけを守って幸せに暮らしていましたが、あるとき蛇のささやく誘惑に負けてついに言いつけを破り、その実を食べてしまいました。
これを知り、激怒した神は二人を楽園(エデン)から追放しました。
その彼らが食べた禁断の果実こそが
善悪を判断すること
を知る果実でした。
つまり、人間が善悪の判断を身につけたことによって、楽園から追放され、キリスト教では原罪といわれる罪を犯したことになるわけで、善悪を判断するということは、それほど罪深いことだといえます。
まぁ、この「罪深い」という表現はキリスト教の表現なので、本当に人類は罪深いことをしてしまったのか?というと、それはその人の考えによる、としかいえません。
でも、『善悪の判断』をするようになってしまったことで、自らを制限という鎖でがんじがらめにして生きづらくしてしまっているのは確か。
男とは、女とは、人とはこうあるべき。こうあらねばならぬ。
なーんて。
個々の小っさなことから、大きなことまで。
ありとあらゆることを判断をして、枠を決めてその中に納まれば善し。
納まらなければそれはダメなこと。
そう周りを判断をすることで、結局は自分自身を制限してしまう。
そんな制限でがんじがらめになった状態では、せっかく神様が授けてくれた「自由な創造」もままならず、「限定的な創造」になってしまいます。
だから神様は『善悪の判断』を知ることを禁じたのではないのか?
そう思うのです。