故:宜保愛子氏は、
「霊界を歩み続けているにもかかわらず、霊は自分に常日頃あたたかい供養の
手をさしのべてくれる人に対しては、いつでもその人を助けてあげようと用意
しています。」と「生まれ変わりの秘密」講談社の書籍の中で語っています。
「それが『守護霊』です。」と。
宜保愛子氏は、
「守護霊は光と同じくらいのスピードで、歩いている霊界のそのスポット(地点)
と、この世とを往復し、供養してくれる人に異変がないか、見て回っています。」
とも述べています。
「そして、危険を察知したら、それを未然に防ぐため、迅速な行動をとってくれる
のです。」とおっしゃっています。
守護霊は私たちを、じつにいろいろな形で助けてくれていると宜保愛子氏は言い、
その一つに、
「霊は夢に現れて、そんなことをすると怪我をしますよ」などと警告を発したり
してくれるのが、そうだと語っています。
「虫の知らせ」も警告の一例だそうです。
・・・
私は「供養」について色々と考えてしまう点があります。
基本的に・・・
派手な供養よりも、心から冥福を祈るということはどの書籍にも共通する点です。
ただ、宜保愛子氏の場合は、亡くなった人が好きだった食べ物や、夢に故人が
現れて何かを欲しがったなら、その物を供えてあげましょうと言っています。
もちろん、故人が生前好きだった物やそのような夢を見たなら、そのようにして
あげたいと思います。
しかし、霊は物を欲しがったりしないという話も他の書籍に出てきます。
(これは、江原啓之氏の語りのなかでも守護霊=主護霊や霊媒師に憑いている高
次の霊=高級霊は、そんなことを言わない。言うような霊は低級霊であるという
話から、そう感じたのですが・・・)
この点が私の心の中で「一体どっちなのだろう」と思ったりしていた点です。
ですが、少しずつわかってきました。
どのように、分かってきたかと言いますと・・・
「この世を離れたばかりの魂や亡くなってまだそんなに間がない魂は、肉体を
もっていた『人間』のころと同じで、俗世的というか『これが欲しい』という
現世の物や現世での楽しみであったモノに、まだ気持ちがある」からだという
ことが、分かってきました。
亡くなっても、すぐに完璧な魂(江原氏流にいうと『高級霊』)になれるわけで
はないでしょうから、この世的な何かを欲しがったり、未練や執着があってもお
かしくありませんよね。
また、故人は「供養」してくれる、してくれないとで「守ってあげる」という故人
の気持ちが違うような語りかけが本書の所々に出てきます。
これについても、「どうなのだろう」と考えてしまいます。
この「供養する、しない」については、
「供養してくれない」から、化けて出るというようなことは無いでしょうけど、
例えば、ドリス・ストークス著 江原啓之 監訳 横山悦子 翻訳「天国の
子どもたちから 残された家族への愛のメッセージ」ハート出版の中にも出
てきますが、「この世の者が、もう故人のことを忘れ去っているような姿は、あ
の世にいる子供は悲しがっている」ということはあるように思います。
死後も、意識(魂)は存在するのであれば、
あの世にいる故人を偲ぶことは大切だと感じます。
ですから、故人との接し方、考え方は、福島大学の飯田史彦教授が述べる、
「ブレイクスルー思考」がもっとも理想的であると思います。
-他書と「生まれ変わりの秘密」との相違点-
私は、無理矢理全てのスピリチュアルな書籍を一つに結ぼうとは思っていません。
ですから、「これは『あの世』について語る人によって、違いがあるな」と思う
ことも挙げたいと思います。
江原啓之氏や坂本政道氏は、あの世にもこの世と似たもの(建物や家、スポーツ、
電気機器など)がある世界が存在すると言っておられます。
飯田史彦教授も、あの世は明るい色彩の世界であると言っています。
しかし、宜保愛子氏は・・・
「霊たちは、無味乾燥な赤土の上を、ひたすら歩いていくのみなのです。」と
おっしゃっています。
「この世では、空からこぼれるような日の光が指し込み、昼夜を、その光で区別
できますが、霊界では誰しも、昼と夜を知ることはできません。」
「トボトボと歩くその道は、すべての霊が、ここを行けばよいということを、
そしてそれは来世につながるということを、自分の体で感じとっている、不思議
な場所です。」と言っておられます。
だから、
「そのトボトボと歩む霊界を、少しでも足を早めることができるように、気持ち
のよい香りや快適な色彩、そして美しい花を送ってあげるのは、私たち生きている
者の使命です。このことに関して、私は何度も説明いたしました。」
とおっしゃっています。
宜保愛子氏が言うには、
霊が好きだった食べ物だけでなく、霊の趣味を満たしてあげる、大好きだった音楽
なども聞かせてあげるということも大きな供養なのだそうです。
・・・
ここなんですよね。
他の方々がおっしゃっていない点なんです。
どう取り上げたらよいか思案していました。
そこで一つの結論が、私の中で出ました。
その前に・・・
宜保愛子氏の、三途の川を見たという話が本書に載っています。
まず日本人に多い「三途の川」は、これは風土と言いますか、飯田史彦教授も
カール・ベッカー教授も、その人(日本人なら日本人の欧米人なら欧米人の)
の想いに合わせた「あの世」を、死の直後に見せてくれる、これは江原啓之氏
のいう「あの世の計らい」であるということで、異なることはないと思ってい
ます。カール・ベッカー教授もキリスト教徒は、臨死体験をしあの世をかいま見
た際には、「イエス・キリストを見た」という人が多いことを取り上げています
ので、私も想念の世界なら、そんなこともあるだろうし、そうであろうと思いま
す。
そして、無味乾燥な赤土の上をトボトボと歩く。
そこは、薄明るいようで暗いようなところと記されてもいます。
これだけが真実であったなら、実に寂しいあの世だということになってしまいます。
私は、色々と考えていましたら・・・
宜保愛子氏が見た世界というのは、A・ファーニス 著「死後世界地図」の霊人:
フランチェッツォ氏が伝えてきた、はじめに行った霊界の「希望の家」(2006.12.16
訂正 「たそがれの国」厳密には 「灰色の石の谷---希望の家---たそがれの国の間」
の3つの霊域)と言われる場所ではないかと思うのです。
雰囲気と言い、赤土、どんよりと明るいような暗いような世界は、まさに「たそがれ
の国」と名づけられていた世界と一致します。
江原氏流に言いますと「幽界の下層部」です。
あの世は無数の階層に分かれているのは、他書でもよく語られています。
宜保愛子氏は、あの世の階層については語っていません。
ですから、宜保愛子氏は自らが見た世界(ある一階層)を伝えているのだと思いま
す。
それがあの世の全て(全貌)であると思われても、宜保愛子氏が見た世界がそこ
だけであったのであれば、それも真実と言えるのではないでしょうか。
宜保愛子氏は、自らが見た世界についてのみは自信を持って語っておられても、
それは嘘ではないという解釈が可能だと言いたいわけです。
ですから、私は「あれ?この人とこの人の言うことは違っているな。じゃあ、
あの世なんて全てでっちあげで何もないんだ。」と決め付ける前に、ちょっと待
ってみて。もう一度、考えて見ましょうよ。と言いたいわけです。
・・・
奥様を亡くされた、東京学芸大学の先生が自書で、輪廻転生があると言っておられ
ましたが、その方は・・・
亡くなる→遺体は火葬・土葬する→水や二酸化炭素などの原子になる→草花や動
物の身体に入る→我々が口にして、体内に入る。
これを輪廻転生と説いており、たましいも存在するが、肉体の死によって、
たましいは無くなる(消える)という考えを説いていました。
・・・
私は、あぁ奥様を亡くされたというのに唯物論の考えで、心を癒しているのか・・
先生は、それで本当にご納得されているのかなぁと思いました。
見えないもの、科学で証明できないものは「存在しない」という理論なんでしょ
うけど。。。
輪廻転生。心(意識)のない輪廻転生説で、「それでいい」と納得の行く人は、
何人いるのでしょう。
亡き人は、雨となり地に降り注ぎ、今も存在する。
しかし、その存在には物質のみの理論だけで、心の世界のことは含まれていませ
ん。ハッキリ言って、寂しい考え方、捉え方だなぁと思いました。
これでは、福島大学 飯田史彦教授の生まれ変わりの研究に関する結果報告の
内容や京都大学 カール・ベッカー教授の出現物の研究を否定し覆せるとは思い
ません。
これは、ただの食物連鎖の発想だけで物事を考えた「物質主義の輪廻転生」です。
故人はもう死んでいないんだ。
いいじゃないか、故人の肉体は輪廻転生しているんだから。
・・・
それなら、期待していないのに霊を見る、霊が出現するのはどう説明するのでし
ょうか。
福島大学の飯田史彦教授や聖心女子大学の鈴木秀子教授が、臨死体験をした際に
見えた、上から下にある自分の肉体を見たビジョンは、どのように説明するので
しょうか。
天井にカメラを取り付け、肉体の脳にコードを繋いで見えるようにしたとでも言
うのでしょうか。
死別の悲しみを癒すためには、スピリチュアルな視点も含めて検討した上で、書
籍にて語らないと、それこそ遺された者のスピリチュアル・ケアはできないと思
います。
「霊界を歩み続けているにもかかわらず、霊は自分に常日頃あたたかい供養の
手をさしのべてくれる人に対しては、いつでもその人を助けてあげようと用意
しています。」と「生まれ変わりの秘密」講談社の書籍の中で語っています。
「それが『守護霊』です。」と。
宜保愛子氏は、
「守護霊は光と同じくらいのスピードで、歩いている霊界のそのスポット(地点)
と、この世とを往復し、供養してくれる人に異変がないか、見て回っています。」
とも述べています。
「そして、危険を察知したら、それを未然に防ぐため、迅速な行動をとってくれる
のです。」とおっしゃっています。
守護霊は私たちを、じつにいろいろな形で助けてくれていると宜保愛子氏は言い、
その一つに、
「霊は夢に現れて、そんなことをすると怪我をしますよ」などと警告を発したり
してくれるのが、そうだと語っています。
「虫の知らせ」も警告の一例だそうです。
・・・
私は「供養」について色々と考えてしまう点があります。
基本的に・・・
派手な供養よりも、心から冥福を祈るということはどの書籍にも共通する点です。
ただ、宜保愛子氏の場合は、亡くなった人が好きだった食べ物や、夢に故人が
現れて何かを欲しがったなら、その物を供えてあげましょうと言っています。
もちろん、故人が生前好きだった物やそのような夢を見たなら、そのようにして
あげたいと思います。
しかし、霊は物を欲しがったりしないという話も他の書籍に出てきます。
(これは、江原啓之氏の語りのなかでも守護霊=主護霊や霊媒師に憑いている高
次の霊=高級霊は、そんなことを言わない。言うような霊は低級霊であるという
話から、そう感じたのですが・・・)
この点が私の心の中で「一体どっちなのだろう」と思ったりしていた点です。
ですが、少しずつわかってきました。
どのように、分かってきたかと言いますと・・・
「この世を離れたばかりの魂や亡くなってまだそんなに間がない魂は、肉体を
もっていた『人間』のころと同じで、俗世的というか『これが欲しい』という
現世の物や現世での楽しみであったモノに、まだ気持ちがある」からだという
ことが、分かってきました。
亡くなっても、すぐに完璧な魂(江原氏流にいうと『高級霊』)になれるわけで
はないでしょうから、この世的な何かを欲しがったり、未練や執着があってもお
かしくありませんよね。
また、故人は「供養」してくれる、してくれないとで「守ってあげる」という故人
の気持ちが違うような語りかけが本書の所々に出てきます。
これについても、「どうなのだろう」と考えてしまいます。
この「供養する、しない」については、
「供養してくれない」から、化けて出るというようなことは無いでしょうけど、
例えば、ドリス・ストークス著 江原啓之 監訳 横山悦子 翻訳「天国の
子どもたちから 残された家族への愛のメッセージ」ハート出版の中にも出
てきますが、「この世の者が、もう故人のことを忘れ去っているような姿は、あ
の世にいる子供は悲しがっている」ということはあるように思います。
死後も、意識(魂)は存在するのであれば、
あの世にいる故人を偲ぶことは大切だと感じます。
ですから、故人との接し方、考え方は、福島大学の飯田史彦教授が述べる、
「ブレイクスルー思考」がもっとも理想的であると思います。
-他書と「生まれ変わりの秘密」との相違点-
私は、無理矢理全てのスピリチュアルな書籍を一つに結ぼうとは思っていません。
ですから、「これは『あの世』について語る人によって、違いがあるな」と思う
ことも挙げたいと思います。
江原啓之氏や坂本政道氏は、あの世にもこの世と似たもの(建物や家、スポーツ、
電気機器など)がある世界が存在すると言っておられます。
飯田史彦教授も、あの世は明るい色彩の世界であると言っています。
しかし、宜保愛子氏は・・・
「霊たちは、無味乾燥な赤土の上を、ひたすら歩いていくのみなのです。」と
おっしゃっています。
「この世では、空からこぼれるような日の光が指し込み、昼夜を、その光で区別
できますが、霊界では誰しも、昼と夜を知ることはできません。」
「トボトボと歩くその道は、すべての霊が、ここを行けばよいということを、
そしてそれは来世につながるということを、自分の体で感じとっている、不思議
な場所です。」と言っておられます。
だから、
「そのトボトボと歩む霊界を、少しでも足を早めることができるように、気持ち
のよい香りや快適な色彩、そして美しい花を送ってあげるのは、私たち生きている
者の使命です。このことに関して、私は何度も説明いたしました。」
とおっしゃっています。
宜保愛子氏が言うには、
霊が好きだった食べ物だけでなく、霊の趣味を満たしてあげる、大好きだった音楽
なども聞かせてあげるということも大きな供養なのだそうです。
・・・
ここなんですよね。
他の方々がおっしゃっていない点なんです。
どう取り上げたらよいか思案していました。
そこで一つの結論が、私の中で出ました。
その前に・・・
宜保愛子氏の、三途の川を見たという話が本書に載っています。
まず日本人に多い「三途の川」は、これは風土と言いますか、飯田史彦教授も
カール・ベッカー教授も、その人(日本人なら日本人の欧米人なら欧米人の)
の想いに合わせた「あの世」を、死の直後に見せてくれる、これは江原啓之氏
のいう「あの世の計らい」であるということで、異なることはないと思ってい
ます。カール・ベッカー教授もキリスト教徒は、臨死体験をしあの世をかいま見
た際には、「イエス・キリストを見た」という人が多いことを取り上げています
ので、私も想念の世界なら、そんなこともあるだろうし、そうであろうと思いま
す。
そして、無味乾燥な赤土の上をトボトボと歩く。
そこは、薄明るいようで暗いようなところと記されてもいます。
これだけが真実であったなら、実に寂しいあの世だということになってしまいます。
私は、色々と考えていましたら・・・
宜保愛子氏が見た世界というのは、A・ファーニス 著「死後世界地図」の霊人:
フランチェッツォ氏が伝えてきた、はじめに行った霊界の「希望の家」(2006.12.16
訂正 「たそがれの国」厳密には 「灰色の石の谷---希望の家---たそがれの国の間」
の3つの霊域)と言われる場所ではないかと思うのです。
雰囲気と言い、赤土、どんよりと明るいような暗いような世界は、まさに「たそがれ
の国」と名づけられていた世界と一致します。
江原氏流に言いますと「幽界の下層部」です。
あの世は無数の階層に分かれているのは、他書でもよく語られています。
宜保愛子氏は、あの世の階層については語っていません。
ですから、宜保愛子氏は自らが見た世界(ある一階層)を伝えているのだと思いま
す。
それがあの世の全て(全貌)であると思われても、宜保愛子氏が見た世界がそこ
だけであったのであれば、それも真実と言えるのではないでしょうか。
宜保愛子氏は、自らが見た世界についてのみは自信を持って語っておられても、
それは嘘ではないという解釈が可能だと言いたいわけです。
ですから、私は「あれ?この人とこの人の言うことは違っているな。じゃあ、
あの世なんて全てでっちあげで何もないんだ。」と決め付ける前に、ちょっと待
ってみて。もう一度、考えて見ましょうよ。と言いたいわけです。
・・・
奥様を亡くされた、東京学芸大学の先生が自書で、輪廻転生があると言っておられ
ましたが、その方は・・・
亡くなる→遺体は火葬・土葬する→水や二酸化炭素などの原子になる→草花や動
物の身体に入る→我々が口にして、体内に入る。
これを輪廻転生と説いており、たましいも存在するが、肉体の死によって、
たましいは無くなる(消える)という考えを説いていました。
・・・
私は、あぁ奥様を亡くされたというのに唯物論の考えで、心を癒しているのか・・
先生は、それで本当にご納得されているのかなぁと思いました。
見えないもの、科学で証明できないものは「存在しない」という理論なんでしょ
うけど。。。
輪廻転生。心(意識)のない輪廻転生説で、「それでいい」と納得の行く人は、
何人いるのでしょう。
亡き人は、雨となり地に降り注ぎ、今も存在する。
しかし、その存在には物質のみの理論だけで、心の世界のことは含まれていませ
ん。ハッキリ言って、寂しい考え方、捉え方だなぁと思いました。
これでは、福島大学 飯田史彦教授の生まれ変わりの研究に関する結果報告の
内容や京都大学 カール・ベッカー教授の出現物の研究を否定し覆せるとは思い
ません。
これは、ただの食物連鎖の発想だけで物事を考えた「物質主義の輪廻転生」です。
故人はもう死んでいないんだ。
いいじゃないか、故人の肉体は輪廻転生しているんだから。
・・・
それなら、期待していないのに霊を見る、霊が出現するのはどう説明するのでし
ょうか。
福島大学の飯田史彦教授や聖心女子大学の鈴木秀子教授が、臨死体験をした際に
見えた、上から下にある自分の肉体を見たビジョンは、どのように説明するので
しょうか。
天井にカメラを取り付け、肉体の脳にコードを繋いで見えるようにしたとでも言
うのでしょうか。
死別の悲しみを癒すためには、スピリチュアルな視点も含めて検討した上で、書
籍にて語らないと、それこそ遺された者のスピリチュアル・ケアはできないと思
います。
大変なつらさ、深い思いはプログで吐露されている以上のものがあるのでしょうね。とうてい私には理解できるものではないでしょうが、徐々に落ち着かれている感じに思えます。私も、どうしても会いたい故人がいて、少しずつ精神世界の入口に近づきつつあります。この世の時間の流れとは違う次元なのでしょうが、俗世の我々としては、どうしても早く会いたいという気持ちが強くなりますね。僅かずつでも気付きを進めたいものです。
また、暖かいお言葉、大変嬉しく思いますm(_ _)m
確かに・・・
最近睡眠時間が少なくて、お客様を案内しているときでも、ボーっとしてしまうことがあります。。。注意しないといけませんね。
気の向くままに書いていますので、スピリチュアルな記事だけでなく、勝手な一方的な思いも載せさせていただき、不愉快な面もあるかと思いますがお許しください。「そのとき思ったこと」「感じたこと」をそのまま書くほうが、素の自分でいられてよいと思ってのことですので。。。
私も逢いたい、亡き彼女に逢いたいです。
彼女の残していってくれた、江原啓之氏の書籍から始まり、「スピリチュアルな視点」「精神世界(あの世)の存在」に希望が持てるようになってきました。
これだけ多くの方々があの世の仕組みを語り、私たちに伝えようとしてくれていることが、作り事や空想話ではないと、強く感じています。
フォーカス様、いつか逢いたい故人には「必ず」逢えるのだと信じて、お互いに頑張っていきましようね。
今後ともよろしくお願いいたします。
ありがとうございました。