サーチナ2011/07/04(月) 13:15
中国で浙江省舟山市の定海文化広場に出現する“火星人”が評判になった。
銀色の“宇宙服”に身を包み、巨大な頭部に大きな目。広場の一角にしゃ
がみこみ、足元には白いチョークで「火星に帰るために5元ください」
と書いている。中国新聞社が報じた。
“火星人出現”の情報は、インターネットなどで次々に転載された。
当初、撮影地点などは紹介されていなかったが、ユーザーの指摘で舟山市
の定海文化広場と分かった。
当の“火星人”もミニブログで他のユーザーと「交流」。詳しい個人情報
は公開していないが、「実は廈門(アモイ)の出身」と打ち明けた。
約半年前に舟山市に来て仕事を始めたが、見知らぬ土地で親戚も友人もおらず、
気が滅入ってしまったという。6月上旬になり、「火星人になってみよう」
と考え、衣装を着用して定海文化広場に出かけた。注目度は抜群で、実に
気持ちがよかった。写真を撮ってくれ、笑顔で話しかけてくれる人もいた。
「やみつきになった」という。
“火星人”になるため、衣装代などに約400元を使った。いただいた
「火星までの帰郷費」は計300元あまり。初期費用を回収できたわけでは
ないが、「引退」することにした。父親にけしかけられた小さな子供に、
“宇宙服”を切り裂かれたからだ。「おもしろがってもらっていると思って
いたが、もうやめた。少なくとも舟山ではね」という。
集めた300元の一部分は使ってしまったが、残りは小動物保護協会に寄付でも
しようと思っている。今は仕事が忙しいが、時間があったらエサを買って
贈りたいという。
その後、広州(広東省)、南寧(広西チワン族自治区)、湖南省、湖北省でも、
同様の“宇宙人”が大量に出現して、インターネットでも紹介されはじめた。
“元祖・宇宙人”の男性は「インターネットとはそもそも、情報を共有する
ものだからね」と言い、「パクリの出現」は気にしていない。「でも、
ボクみたいにやせぎすで、本当に宇宙人みたいな体型の人はいないな」と、
ちょっと自慢げに語った。
・・・
どういうこと?と思いましたが、
記事を読んでいて、今の世の中を風刺しているなぁと
そうしみじみと感じました。
「見知らぬ土地で」
「親戚も友人もおらず」
「気が滅入ってしまった」
学校を卒業後、地元を離れて、とにかく仕事に慣れるまでは
「仕事」「寝る」を繰り返して、
多少、時間に余裕が出てきたら、少なからずの方々は、
「何やってるんだろう・・・」
と、自分自身を振り返ることがあったのではないかと思います。
私も、大学新卒後、一度も住んだことのない街(広島市内)
に行きまして、社会人となりました。
はじめは「我武者羅(がむしゃら)」
に働き、とにかく一日も早く仕事を覚えようとしました。
それだけで、月日はあっという間に過ぎていきました。
私の場合、入社して落ち着いた時に出てくると言われる
「5月病」は無かったです。
5月では、まだまだ振り返ったり、立ち止まったりしている
余裕すら無かったからです。
・・・
入社して1年近くが経った頃でしょうか。
「こんなところで何やってるだろ・・・」
と思ったのは。
銀行に入社(入行)して、1ヶ月間は預金係、その後5月からは
融資係として窓口に座り、証書貸付、手形貸付、オートローン
や住宅ローンなどの対応をしていました。
外為窓口にもいましたが、融資担当で、とにかくひたすら
実務と勉強の日々でした。
遊びどころではなく、
休日は、ほとんど寝て暮らす毎日。
一週間で体重は3kgは落ち、土日で2kg戻るような
生活でした。
入社2年目の6月に渉外係(外回り)となり、晴れて
一人前の銀行員ぽくなりました。
渉外係は、男性銀行員の花形?みたいなものです。
内勤は、新卒→いかに早く外回りになれるか→渉外担当を経験→
また内勤に戻ってくるが地方銀行では、だいたいそんな
感じではないでしょうか。
入社して丸3年が経ったとき、
私の体重は、身長約175cmで、入社当初63kgあった
のが50kgを切りました。
(今は幸せ太り?それともストレスで?78kgあります)
まだまだ、22歳から25歳の若い時代、
それはそれは、仕事が慣れて来るにつれて
「こんな知らない街で、何やってんだろ」
と思うもんです。
また、こういうときに限って、
あれこれと失っていくものなんですよね。
当時、学生時代から付き合っていた彼女が離れて行き・・・
ちょっと待ってよ・・・と思っても時すでに遅しでした。
亡き彼女が焼もち焼くといけないんで
あまり過去のことは・・・
と思いますが、
まぁ、このときこそ、改めて「女性は強し」と思いましたね。
社会人1年目、そして約丸1年経ったときに
とうとう別れてしまいました。
約束した時間に・・・広島市内の銀行の寮で寝てて、岡山市内
まで行くのに遅刻することも多くなり・・・
でも!でもですね!言い訳ではありますがっ!
当時は携帯など出回っていなくてポケベル時代。
私は、岡山に向かっている最中、遅刻する!と思い、
広島の三原(高速船が止まるところ)の国道で電話BOXを
見つけて、公衆電話に駆け込み、彼女の自宅に
「ごめん!遅れるわ」と電話、そして、すぐに車に乗ろうと
すると・・・車が無い!
「D」に入れたまま、車から飛び降り、電話BOXへ入った
ため、車が勝手に、無人で動いて行ってました!
言い訳・・・言い訳ではないですが、
それほどまでに「日々の仕事の生活」がきつかったんです!
言い訳ですね。。。
そして、会ってドライブに行くと・・・
綺麗な風景(牛窓辺りなど)の場所で車を止め・・・
気づくと爆睡していまして、彼女が泣いている始末。
でも、彼女は当時、大学生だったから
結局は・・・世間を知らないんですっ!(←言い訳)
どれだけ社会人となって、そして無名私大から
銀行員になって、激務でしんどかったかを!
まあ、今振り返れば、こうやって大学生の頃の彼女とは、
社会人となり、別れ別れの土地に住み、そしてすれ違い
別れていく=学生時代のある種のパターンだと
いう事が、分かったように思います。
人生には「後悔」は付き物
確かにそうだと思います。
岡山市内の信用金庫も就職出来そうだったのに、
「銀行」と名の付く金融機関のほうが良い
と思い、広島へ。
・・・
今思うこと。
大学生の時、新卒のときに描いた夢や希望って
世間体やリクナビに踊らされて、「これが大学新卒の
道」だのように動いたりしたこと自体、
「青かった(ケツが青い)」
と思います。
何が大切なのか、何を大事にしないといけなかったのか
それは、世間体や就職雑誌に書かれているような見栄えだけの
キラキラした職場ではなく、そのときの幸せ(彼女と一緒に
いる等)だったと思います。
・・・
まぁ、でも広島、岡山、京都、滋賀、愛知と
動いていなかったら、亡き彼女とも出会っていませんでしたので
過去は過去として良し(良い経験?)としましょうか。
・・・
話は、大きく逸れましたが、
「見知らぬ土地で」
「親戚も友人もおらず」
「気が滅入ってしまった」
という気持ちは、よく分かります。
亡くなった彼女が生前、私の母親と電話で、
「○○○さん(←私)は、実家へ帰ったほうがいい」
と言っていたそうです。
その話は、彼女が亡くなったのち、母親から
聞きました。
私のどこかに、ポツンと空いたものでも
何か感じていたのでしょうかね。
仕事上の付き合いで、取引業者の人と食事に
行くことはありました。
でも、休みの日は、いつも亡き彼女と一緒に過ごして
いて、彼女が友達と出かけると、住まいでごろごろして
過ごしていました。
ですから、彼女の存在はとっても大きかったんです。
彼女しか居なかったし、彼女さえ居てくれたら
幸せでしたから。
当初は、
彼女は名古屋名東区に居て、私が銀行員→再度大学院へ行き
大学院を出て、滋賀県の湖北の街に再就職したのは
彼女の住まいまで、高速を使ったら、1時間ちょっと
で行けるから、「ここで働くのはどうかと、誘われたし、
彼女のとこにも行きやすいし」だったからです。
金曜日の晩に、彼女のところへ行き、月曜日の朝、滋賀県に
帰るという生活を1年しました。
金曜日の晩から行きますと、色々なところへ遊びに行けて
とっても楽しく過ごしました。
その後、彼女は私の住む滋賀県の街にやってきました。
・・・
それほど一緒だった彼女が亡くなったとき、
もう実家へ帰ろう・・・と考えるようになりました。
厳密に言うと、実家よりも先に、
北海道の旭川へ行って暮らそうと考えました。
でも、亡き彼女のお父さんに車を借りて、一日、旭川市内
を走りましたが、彼女と住もうと決めていたけど、彼女も
居ない街、見知らぬ街、やはり寂しかったです。
結局のところ、私は色々な街に住んできましたが、
どこか「故郷には胸を張って帰る(帰れるように)」
という、何か古臭い、何かカッコをつけたところが
有って、なかなか地元に帰ろうとはしなかったことに
改めて気づきました。
それは、あの若かった頃と同じものをまだ、
心のどこかにぶら下げていたのだと思います。
そこで、約17年振りに実家へ帰ってきました。
・・・
「気が滅入る」
やはり、仕事と名誉、そしてよく分からない何か(周囲の目)
などで、世間一般に言われる「いいところ」「いい会社」
に行こうと流されると、機械的なモノは手に入れられても、
人(ヒト)としての心に響く何かを失ってしまうことが
多々あるということではないでしょうか。
まだ、火星に帰りたいというコメディのような面を出しながら
の心の訴えを表現したに留まった、この人物はまだマシな
行動なのかも知れません。
犯罪を犯したわけでなないですから。
でも、人は意外と脆く壊れやすいものだと思います。
人の心と言うものは。
自分は、いったい何をどうしたいのか
それが分からずに、生きていて、また生半可に頭が回る人は
思い悩んで葛藤して、でもこっちを取れば、あっちが無くなる
など求めたいものと、持っておきたいものとの優劣がつかない
でいるのではないでしょうかね。
私もそうでした。
でも、今は、今、このときが安定していて、そして飲み友達も
いて、色々と語れる地元の友人が居て、給料は安いですが、
地元ではそこそこの会社の正社員になれて、まぁ、今は、
これでいいかなと妥協しつつ、納得しつつ生きています。
中国でも、
「東京砂漠」のような心境でいる人もいるんだなぁと、
改めてそう感じましたし、確かに中国などは、特に田舎から
出てきて、夢や希望、そして周囲の期待も大きい分、
うまく就職出来ると、この記事のような気が滅入ることが
あっても、どうしたらよいのか分からないと言う人も
大勢いるだろうなぁと感じました。
でも、私が言えることは、
欲を出せば切がない。
何かを掴むと、何かが零れ落ちる。
だからこそ、自分自身の中で、しっかりと「自分は何がしたい
のか」を持たないといけない。
そのためには、金目のものは手に入るけど、もっと大切なもの
(心)を失う、じゃぁ、どっちが欲しいのか決めるのは、あなた
でないと決める人はいませんよ。ということです。
中国で浙江省舟山市の定海文化広場に出現する“火星人”が評判になった。
銀色の“宇宙服”に身を包み、巨大な頭部に大きな目。広場の一角にしゃ
がみこみ、足元には白いチョークで「火星に帰るために5元ください」
と書いている。中国新聞社が報じた。
“火星人出現”の情報は、インターネットなどで次々に転載された。
当初、撮影地点などは紹介されていなかったが、ユーザーの指摘で舟山市
の定海文化広場と分かった。
当の“火星人”もミニブログで他のユーザーと「交流」。詳しい個人情報
は公開していないが、「実は廈門(アモイ)の出身」と打ち明けた。
約半年前に舟山市に来て仕事を始めたが、見知らぬ土地で親戚も友人もおらず、
気が滅入ってしまったという。6月上旬になり、「火星人になってみよう」
と考え、衣装を着用して定海文化広場に出かけた。注目度は抜群で、実に
気持ちがよかった。写真を撮ってくれ、笑顔で話しかけてくれる人もいた。
「やみつきになった」という。
“火星人”になるため、衣装代などに約400元を使った。いただいた
「火星までの帰郷費」は計300元あまり。初期費用を回収できたわけでは
ないが、「引退」することにした。父親にけしかけられた小さな子供に、
“宇宙服”を切り裂かれたからだ。「おもしろがってもらっていると思って
いたが、もうやめた。少なくとも舟山ではね」という。
集めた300元の一部分は使ってしまったが、残りは小動物保護協会に寄付でも
しようと思っている。今は仕事が忙しいが、時間があったらエサを買って
贈りたいという。
その後、広州(広東省)、南寧(広西チワン族自治区)、湖南省、湖北省でも、
同様の“宇宙人”が大量に出現して、インターネットでも紹介されはじめた。
“元祖・宇宙人”の男性は「インターネットとはそもそも、情報を共有する
ものだからね」と言い、「パクリの出現」は気にしていない。「でも、
ボクみたいにやせぎすで、本当に宇宙人みたいな体型の人はいないな」と、
ちょっと自慢げに語った。
・・・
どういうこと?と思いましたが、
記事を読んでいて、今の世の中を風刺しているなぁと
そうしみじみと感じました。
「見知らぬ土地で」
「親戚も友人もおらず」
「気が滅入ってしまった」
学校を卒業後、地元を離れて、とにかく仕事に慣れるまでは
「仕事」「寝る」を繰り返して、
多少、時間に余裕が出てきたら、少なからずの方々は、
「何やってるんだろう・・・」
と、自分自身を振り返ることがあったのではないかと思います。
私も、大学新卒後、一度も住んだことのない街(広島市内)
に行きまして、社会人となりました。
はじめは「我武者羅(がむしゃら)」
に働き、とにかく一日も早く仕事を覚えようとしました。
それだけで、月日はあっという間に過ぎていきました。
私の場合、入社して落ち着いた時に出てくると言われる
「5月病」は無かったです。
5月では、まだまだ振り返ったり、立ち止まったりしている
余裕すら無かったからです。
・・・
入社して1年近くが経った頃でしょうか。
「こんなところで何やってるだろ・・・」
と思ったのは。
銀行に入社(入行)して、1ヶ月間は預金係、その後5月からは
融資係として窓口に座り、証書貸付、手形貸付、オートローン
や住宅ローンなどの対応をしていました。
外為窓口にもいましたが、融資担当で、とにかくひたすら
実務と勉強の日々でした。
遊びどころではなく、
休日は、ほとんど寝て暮らす毎日。
一週間で体重は3kgは落ち、土日で2kg戻るような
生活でした。
入社2年目の6月に渉外係(外回り)となり、晴れて
一人前の銀行員ぽくなりました。
渉外係は、男性銀行員の花形?みたいなものです。
内勤は、新卒→いかに早く外回りになれるか→渉外担当を経験→
また内勤に戻ってくるが地方銀行では、だいたいそんな
感じではないでしょうか。
入社して丸3年が経ったとき、
私の体重は、身長約175cmで、入社当初63kgあった
のが50kgを切りました。
(今は幸せ太り?それともストレスで?78kgあります)
まだまだ、22歳から25歳の若い時代、
それはそれは、仕事が慣れて来るにつれて
「こんな知らない街で、何やってんだろ」
と思うもんです。
また、こういうときに限って、
あれこれと失っていくものなんですよね。
当時、学生時代から付き合っていた彼女が離れて行き・・・
ちょっと待ってよ・・・と思っても時すでに遅しでした。
亡き彼女が焼もち焼くといけないんで
あまり過去のことは・・・
と思いますが、
まぁ、このときこそ、改めて「女性は強し」と思いましたね。
社会人1年目、そして約丸1年経ったときに
とうとう別れてしまいました。
約束した時間に・・・広島市内の銀行の寮で寝てて、岡山市内
まで行くのに遅刻することも多くなり・・・
でも!でもですね!言い訳ではありますがっ!
当時は携帯など出回っていなくてポケベル時代。
私は、岡山に向かっている最中、遅刻する!と思い、
広島の三原(高速船が止まるところ)の国道で電話BOXを
見つけて、公衆電話に駆け込み、彼女の自宅に
「ごめん!遅れるわ」と電話、そして、すぐに車に乗ろうと
すると・・・車が無い!
「D」に入れたまま、車から飛び降り、電話BOXへ入った
ため、車が勝手に、無人で動いて行ってました!
言い訳・・・言い訳ではないですが、
それほどまでに「日々の仕事の生活」がきつかったんです!
言い訳ですね。。。
そして、会ってドライブに行くと・・・
綺麗な風景(牛窓辺りなど)の場所で車を止め・・・
気づくと爆睡していまして、彼女が泣いている始末。
でも、彼女は当時、大学生だったから
結局は・・・世間を知らないんですっ!(←言い訳)
どれだけ社会人となって、そして無名私大から
銀行員になって、激務でしんどかったかを!
まあ、今振り返れば、こうやって大学生の頃の彼女とは、
社会人となり、別れ別れの土地に住み、そしてすれ違い
別れていく=学生時代のある種のパターンだと
いう事が、分かったように思います。
人生には「後悔」は付き物
確かにそうだと思います。
岡山市内の信用金庫も就職出来そうだったのに、
「銀行」と名の付く金融機関のほうが良い
と思い、広島へ。
・・・
今思うこと。
大学生の時、新卒のときに描いた夢や希望って
世間体やリクナビに踊らされて、「これが大学新卒の
道」だのように動いたりしたこと自体、
「青かった(ケツが青い)」
と思います。
何が大切なのか、何を大事にしないといけなかったのか
それは、世間体や就職雑誌に書かれているような見栄えだけの
キラキラした職場ではなく、そのときの幸せ(彼女と一緒に
いる等)だったと思います。
・・・
まぁ、でも広島、岡山、京都、滋賀、愛知と
動いていなかったら、亡き彼女とも出会っていませんでしたので
過去は過去として良し(良い経験?)としましょうか。
・・・
話は、大きく逸れましたが、
「見知らぬ土地で」
「親戚も友人もおらず」
「気が滅入ってしまった」
という気持ちは、よく分かります。
亡くなった彼女が生前、私の母親と電話で、
「○○○さん(←私)は、実家へ帰ったほうがいい」
と言っていたそうです。
その話は、彼女が亡くなったのち、母親から
聞きました。
私のどこかに、ポツンと空いたものでも
何か感じていたのでしょうかね。
仕事上の付き合いで、取引業者の人と食事に
行くことはありました。
でも、休みの日は、いつも亡き彼女と一緒に過ごして
いて、彼女が友達と出かけると、住まいでごろごろして
過ごしていました。
ですから、彼女の存在はとっても大きかったんです。
彼女しか居なかったし、彼女さえ居てくれたら
幸せでしたから。
当初は、
彼女は名古屋名東区に居て、私が銀行員→再度大学院へ行き
大学院を出て、滋賀県の湖北の街に再就職したのは
彼女の住まいまで、高速を使ったら、1時間ちょっと
で行けるから、「ここで働くのはどうかと、誘われたし、
彼女のとこにも行きやすいし」だったからです。
金曜日の晩に、彼女のところへ行き、月曜日の朝、滋賀県に
帰るという生活を1年しました。
金曜日の晩から行きますと、色々なところへ遊びに行けて
とっても楽しく過ごしました。
その後、彼女は私の住む滋賀県の街にやってきました。
・・・
それほど一緒だった彼女が亡くなったとき、
もう実家へ帰ろう・・・と考えるようになりました。
厳密に言うと、実家よりも先に、
北海道の旭川へ行って暮らそうと考えました。
でも、亡き彼女のお父さんに車を借りて、一日、旭川市内
を走りましたが、彼女と住もうと決めていたけど、彼女も
居ない街、見知らぬ街、やはり寂しかったです。
結局のところ、私は色々な街に住んできましたが、
どこか「故郷には胸を張って帰る(帰れるように)」
という、何か古臭い、何かカッコをつけたところが
有って、なかなか地元に帰ろうとはしなかったことに
改めて気づきました。
それは、あの若かった頃と同じものをまだ、
心のどこかにぶら下げていたのだと思います。
そこで、約17年振りに実家へ帰ってきました。
・・・
「気が滅入る」
やはり、仕事と名誉、そしてよく分からない何か(周囲の目)
などで、世間一般に言われる「いいところ」「いい会社」
に行こうと流されると、機械的なモノは手に入れられても、
人(ヒト)としての心に響く何かを失ってしまうことが
多々あるということではないでしょうか。
まだ、火星に帰りたいというコメディのような面を出しながら
の心の訴えを表現したに留まった、この人物はまだマシな
行動なのかも知れません。
犯罪を犯したわけでなないですから。
でも、人は意外と脆く壊れやすいものだと思います。
人の心と言うものは。
自分は、いったい何をどうしたいのか
それが分からずに、生きていて、また生半可に頭が回る人は
思い悩んで葛藤して、でもこっちを取れば、あっちが無くなる
など求めたいものと、持っておきたいものとの優劣がつかない
でいるのではないでしょうかね。
私もそうでした。
でも、今は、今、このときが安定していて、そして飲み友達も
いて、色々と語れる地元の友人が居て、給料は安いですが、
地元ではそこそこの会社の正社員になれて、まぁ、今は、
これでいいかなと妥協しつつ、納得しつつ生きています。
中国でも、
「東京砂漠」のような心境でいる人もいるんだなぁと、
改めてそう感じましたし、確かに中国などは、特に田舎から
出てきて、夢や希望、そして周囲の期待も大きい分、
うまく就職出来ると、この記事のような気が滅入ることが
あっても、どうしたらよいのか分からないと言う人も
大勢いるだろうなぁと感じました。
でも、私が言えることは、
欲を出せば切がない。
何かを掴むと、何かが零れ落ちる。
だからこそ、自分自身の中で、しっかりと「自分は何がしたい
のか」を持たないといけない。
そのためには、金目のものは手に入るけど、もっと大切なもの
(心)を失う、じゃぁ、どっちが欲しいのか決めるのは、あなた
でないと決める人はいませんよ。ということです。
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