3月11日午後2時46分、東日本大震災が発生してから、今日まで
寝る前などに、改めて、死とは何か、死別とは何かと考えていました。
このブログを立ち上げたとき、
私の最愛の彼女は、元気にこの世で生きていました。
まさか、突然、この世を去っていくなんて思っても
みませんでした。
ブログを始めるきっかけも、亡き彼女から色々と書いてみたら
ということで始めたものでした。
・・・
しかし、彼女が息を引き取る、その瞬間まで見て、明るくて可愛くて
あれこれ言い合ったこともあったけど、その彼女が本当に亡くなった
のか,あの優しい心を持った彼女が冷たくなって、遺体は葬儀ののち
火葬され遺骨となり、そのまだ暖かい骨壷を胸に抱えたとき、これで
本当に消えてしまったのか、そんなはずは無い、でももう目の前には
居ない、あの素敵だった性格・心・感情も無くなってしまったのか
と強くそう思いました。
もう涙が出ないほど泣き、病院でも大声で泣くのが止まらなかった
くらい、私自身の心の中が崩れ落ちたのをはっきりと覚えています。
・・・
今日の新聞記事で、検視などで確認した死者数は1万489人、それに
まだ行方が分からない方々も多くいると記されているのを見ました。
・・・
長患いで亡くなって行く方、それを看病しながら最愛の人を見送る
側は、やるせなく生き地獄のような辛い経験だと思います。
そして、突然の事故や災害で、ついさっきまで元気だった最愛の人が
全くもって信じられないことに突然亡くすことになった方のショック
や落胆も想像を絶する苦しみです。
・・・
助かって欲しいの願い、長い看病の末に見送る遺族の日々の辛さは
その当事者でないと分かりません。
何の心の準備も出来ていないまま、突然最愛の人を亡くした辛さは
その当事者でないと分かりません。
・・・
しかし、最愛の人を亡くしてしまったという事実は、
みなさん同じです。いつまでもずっと一緒に居たかった,もっと
話をしておきたかった,振り返ってみると、本当に幸せに暮らせて
いた・・・なのに、その人は居なくなってしまった。。。
最愛の人を亡くされた方の悲しみは皆さん同じです。
・・・
現実を受け入れるのには時間がかかる・・・私もそうでした。
私は、早く立ち直りましょうとは言いません。
立ち直れるわけがないじゃないですか。
そんな簡単に心の中を割り切れる人なんていませんよ。
でも、こちらは前を向いて歩んでいかないといけないというのも
現実の問題です。
・・・
では、どうすればよいのか?
私は、はじめは抜け殻のように、ただ生きているという感じ
でした。
過去のブログ見ていただくと1ヶ月くらい書込みが止まって
います。
葬儀や片付けなどが一通り済んで、気を張っていたものがとれて
一人部屋に戻ったあと、気力も、何もありませんでした。
そういった中で、ふと浮かんだのが、
亡き彼女が生前読んでいた本でした。
それは、江原啓之さんの「幸運を引き寄せる スピリチュアルブック」
です。
この書籍は、亡き彼女が寝ていたベッドの隅にポンと置かれていました。
私は、彼女を亡くすまでは、オーラの泉は見たことが
ありましたが、一冊もスピリチュアルな書籍は読んだ事も、
もちろん買ったこともありませんでした。
そんな私が、この江原啓之さんの書籍を読んだとき、
心の中に何かが、何かの思いが沸き起こったのです。
それが、「人は死んでも生きているんじゃないのか」
「見えないだけで、彼女とまだ繋がっているのでは」
「亡き彼女は、今も見えない世界で生きているのではないか」
という思いが衝撃のように心に走り、このブログに書いている
ようなスピリチュアルな話に耳を傾けるようになっていきました。
・・・
今では、「私だって、遅かれ早かれいつかは死ぬ存在だ」
「亡くなった最愛の彼女にも、この世を去ったのちには必ず逢える」
と思えるようになりました。
・・・
何かを信じたい
その気持ちは、苦境に陥ったときに、誰しもそういう心境になる
ことと思います。
私は、よく分からない宗教に頼るのはどうかと思っています。
無所属でよいと思っています。
(実家は、曹洞宗の檀家ですけど、それは日本独特の風習のもの)
何かを信じたい、縋りたいという気持ちで、その「何か」を
探すのでしたら、私は書籍が一番よいと思います。
霊視も何度か、そして何人かの人に見てもらいました。
「亡き彼女が本当に存在しているのか」や「今どうしているのか」
「どう思っているのか」など・・・
でも、私と彼女しか知りえないことをズバッと言い当てたり、確かに
居るんだという実感を持てたのは、1件だけでした。でもその
1件も、今思えば私の中ではまだまだ抽象的で具体性が欲しかった
です。
「よく○○の公園へ行って、そこから見える島をみたね」
「○○(←あだ名)って呼んでいたよね」
とか、そういうのが欲しいんです。
なかなかズバリといういわゆる霊媒師の方は、いないものです。
ですが、このブログで取り上げているスピリチュアルに関わる人物
は、共感を覚える方々で、また学問的にも考えていたりと
私に「人は死んでも生きている」という思いを、より明確に
してくれた方々でした。
そして、なぜ書籍が良いのかというと、
「う~ん、どうかな・・・」と思ったら、パタンと本を閉じれば
取り込まれることがないからです。
誰かの勧めで、何かの団体や集まりに参加して宗教的な話や
まじないのようなお経や講和を聞きますと、
「どうかな・・・」と思ってみても、人によっては、せっかく
私のことを考えてくれているのに・・・
という思いから、その集まりから抜け出せなくなることがある
からです。
信じるものは、自分で見つける
頼るべきものは、あっていい。でも、その頼るべきものは自分で
選ぶ
そこが大切だと思います。
・・・
私も以前に比べて、随分とスピリチュアルな話や書籍から遠ざかって
いますが、
「また読みたいな」
と思ったときには、また書籍を手にすることと思います。
・・・
自分の心の中では、あの世の仕組みから実際に死後の世界って
有り得るのか、故人は死後もちゃんと意識のようなものを持って
いるのかなど、知りたいこと、そして自分自身が納得できる説明が
これらブログで取り上げている書籍から得られたので、今は
スピリチュアルから離れているのかも知れないなぁと思っています。
そして、このブログに取り上げている書籍を読んで、私は
「人は死んでも生きている」「最愛の人とは、死後に必ず逢える」
と信じています。
そうでないと、なぜこの世に生まれてきて、そして死んで行くのか
それ自体ナゾですからね。
寝る前などに、改めて、死とは何か、死別とは何かと考えていました。
このブログを立ち上げたとき、
私の最愛の彼女は、元気にこの世で生きていました。
まさか、突然、この世を去っていくなんて思っても
みませんでした。
ブログを始めるきっかけも、亡き彼女から色々と書いてみたら
ということで始めたものでした。
・・・
しかし、彼女が息を引き取る、その瞬間まで見て、明るくて可愛くて
あれこれ言い合ったこともあったけど、その彼女が本当に亡くなった
のか,あの優しい心を持った彼女が冷たくなって、遺体は葬儀ののち
火葬され遺骨となり、そのまだ暖かい骨壷を胸に抱えたとき、これで
本当に消えてしまったのか、そんなはずは無い、でももう目の前には
居ない、あの素敵だった性格・心・感情も無くなってしまったのか
と強くそう思いました。
もう涙が出ないほど泣き、病院でも大声で泣くのが止まらなかった
くらい、私自身の心の中が崩れ落ちたのをはっきりと覚えています。
・・・
今日の新聞記事で、検視などで確認した死者数は1万489人、それに
まだ行方が分からない方々も多くいると記されているのを見ました。
・・・
長患いで亡くなって行く方、それを看病しながら最愛の人を見送る
側は、やるせなく生き地獄のような辛い経験だと思います。
そして、突然の事故や災害で、ついさっきまで元気だった最愛の人が
全くもって信じられないことに突然亡くすことになった方のショック
や落胆も想像を絶する苦しみです。
・・・
助かって欲しいの願い、長い看病の末に見送る遺族の日々の辛さは
その当事者でないと分かりません。
何の心の準備も出来ていないまま、突然最愛の人を亡くした辛さは
その当事者でないと分かりません。
・・・
しかし、最愛の人を亡くしてしまったという事実は、
みなさん同じです。いつまでもずっと一緒に居たかった,もっと
話をしておきたかった,振り返ってみると、本当に幸せに暮らせて
いた・・・なのに、その人は居なくなってしまった。。。
最愛の人を亡くされた方の悲しみは皆さん同じです。
・・・
現実を受け入れるのには時間がかかる・・・私もそうでした。
私は、早く立ち直りましょうとは言いません。
立ち直れるわけがないじゃないですか。
そんな簡単に心の中を割り切れる人なんていませんよ。
でも、こちらは前を向いて歩んでいかないといけないというのも
現実の問題です。
・・・
では、どうすればよいのか?
私は、はじめは抜け殻のように、ただ生きているという感じ
でした。
過去のブログ見ていただくと1ヶ月くらい書込みが止まって
います。
葬儀や片付けなどが一通り済んで、気を張っていたものがとれて
一人部屋に戻ったあと、気力も、何もありませんでした。
そういった中で、ふと浮かんだのが、
亡き彼女が生前読んでいた本でした。
それは、江原啓之さんの「幸運を引き寄せる スピリチュアルブック」
です。
この書籍は、亡き彼女が寝ていたベッドの隅にポンと置かれていました。
私は、彼女を亡くすまでは、オーラの泉は見たことが
ありましたが、一冊もスピリチュアルな書籍は読んだ事も、
もちろん買ったこともありませんでした。
そんな私が、この江原啓之さんの書籍を読んだとき、
心の中に何かが、何かの思いが沸き起こったのです。
それが、「人は死んでも生きているんじゃないのか」
「見えないだけで、彼女とまだ繋がっているのでは」
「亡き彼女は、今も見えない世界で生きているのではないか」
という思いが衝撃のように心に走り、このブログに書いている
ようなスピリチュアルな話に耳を傾けるようになっていきました。
・・・
今では、「私だって、遅かれ早かれいつかは死ぬ存在だ」
「亡くなった最愛の彼女にも、この世を去ったのちには必ず逢える」
と思えるようになりました。
・・・
何かを信じたい
その気持ちは、苦境に陥ったときに、誰しもそういう心境になる
ことと思います。
私は、よく分からない宗教に頼るのはどうかと思っています。
無所属でよいと思っています。
(実家は、曹洞宗の檀家ですけど、それは日本独特の風習のもの)
何かを信じたい、縋りたいという気持ちで、その「何か」を
探すのでしたら、私は書籍が一番よいと思います。
霊視も何度か、そして何人かの人に見てもらいました。
「亡き彼女が本当に存在しているのか」や「今どうしているのか」
「どう思っているのか」など・・・
でも、私と彼女しか知りえないことをズバッと言い当てたり、確かに
居るんだという実感を持てたのは、1件だけでした。でもその
1件も、今思えば私の中ではまだまだ抽象的で具体性が欲しかった
です。
「よく○○の公園へ行って、そこから見える島をみたね」
「○○(←あだ名)って呼んでいたよね」
とか、そういうのが欲しいんです。
なかなかズバリといういわゆる霊媒師の方は、いないものです。
ですが、このブログで取り上げているスピリチュアルに関わる人物
は、共感を覚える方々で、また学問的にも考えていたりと
私に「人は死んでも生きている」という思いを、より明確に
してくれた方々でした。
そして、なぜ書籍が良いのかというと、
「う~ん、どうかな・・・」と思ったら、パタンと本を閉じれば
取り込まれることがないからです。
誰かの勧めで、何かの団体や集まりに参加して宗教的な話や
まじないのようなお経や講和を聞きますと、
「どうかな・・・」と思ってみても、人によっては、せっかく
私のことを考えてくれているのに・・・
という思いから、その集まりから抜け出せなくなることがある
からです。
信じるものは、自分で見つける
頼るべきものは、あっていい。でも、その頼るべきものは自分で
選ぶ
そこが大切だと思います。
・・・
私も以前に比べて、随分とスピリチュアルな話や書籍から遠ざかって
いますが、
「また読みたいな」
と思ったときには、また書籍を手にすることと思います。
・・・
自分の心の中では、あの世の仕組みから実際に死後の世界って
有り得るのか、故人は死後もちゃんと意識のようなものを持って
いるのかなど、知りたいこと、そして自分自身が納得できる説明が
これらブログで取り上げている書籍から得られたので、今は
スピリチュアルから離れているのかも知れないなぁと思っています。
そして、このブログに取り上げている書籍を読んで、私は
「人は死んでも生きている」「最愛の人とは、死後に必ず逢える」
と信じています。
そうでないと、なぜこの世に生まれてきて、そして死んで行くのか
それ自体ナゾですからね。
お久しぶりです。
お元気そうで何よりです。
東日本大震災・・・かけれる言葉が見つかりません。
お亡くなりになられた方、大切な方を亡くされた方、被災された方に・・今どのような言葉をおかけしても何の癒しにもならないであろうことを自分が一番よく知っているから・・。
管理人さんがおっしゃる通り・・。
お亡くなりになられた方の亡くなり方がどうであれ、大切な人を失った人間にとっての哀しみ・寂しさには何の変わりもなく・・・どんなに時間がたってもそれが癒されることはない。
でも、長い時間をかけてそしていろんな想いを経験し乗り越えて「こんな事をしてちゃいけない。」と前を向いてこの人生を生き切る事を考える様になれるのだと・・・。
でもそれは決して時間が解決してくれた訳でもなく、大切な人への想いが薄れた訳でもない。
遺していく方も辛い・・遺された方も辛くても生き抜くしかないのです。
今、こうしている瞬間も愛する人は自分の横で自分を見守っていてくれる。
そしてこの人生を生き切った時、必ず愛する人とまた逢える・・・そう信じて。
私も書籍に助けられた一人です。
管理人さんと同じ道をたどって 最近ようやくここまで来た私です。
今も毎晩のように夫の夢をみます。
「成仏してないんじゃないの?」って言う人もいるかもしれません。
でも私は寝ている間に魂が里帰りして、毎晩夫と会っているのだと信じています。
被災者の皆様にいま私たちが出来ること・・
心寄りそうことだけなのではないでしょうか。
本当に想像を絶する大惨事ですね。。。
TV報道を聞く度にやるせない想いになります。
なぜこのような厳しい試練を乗り越えないといけないのか・・・ごく普通の生活や何気ない幸せの中で生きさせてくれないのか・・・と、神なる存在がいるとすればそう言いたくもなります。
・・・
でも、monさんもご理解されているように、私も「たとえ、目には見えなくても、亡くなった最愛の人はきっと見守ってくれている」とそう信じています。
不幸にも最愛の方を亡くされた皆さんには、「亡くなったあの人は・・・あの人のこころは生き続けている」と信じて、そして、またいつか自らが逝くべき時が来た際には、必ず逢えるんだと思って、生かされた命を、その命がある限りどういう姿であっても生き抜いて欲しいと願っています。
・・・
monさんは、毎日のようにご主人の夢を見ているのですかっ!
私は、長らく見ていません。。。
男性が最愛の女性を遺して去っていくというのは、本当に心配でたまらないことだと思います。自分自身で考えて見ますと、確かに彼女が亡くなったことは私も耐え難い試練なのは確かです。しかし、私が先にこの世を去っていたら、それはもう彼女のことが心配で心配でたまらないでしょう。
ですから、ご主人さんにとっては、monさんが亡くなったご主人さんを想う以上に心配しているように感じます。想いの差異は測れるものではないですけど。
monさん!monさんは、亡きご主人さんにもっともっと甘えたらいいんですよ★そのほうが、ご主人さんも嬉しく感じる(守り甲斐がある?)という面もあるのではないでしょうか。
成仏云々はないですよ。
ご主人さん自身、すでにご自身の状況は十分に分かっていて悟っているはずです。
そして、「よし!それなら、ずっと見守ってやる!」くらいの気持ちではないでしょうか。
monさんが寂しがったりしないように、スピリチュアルミーティングを睡眠中にしているのだと思います。
monさんの励みになるように。
・・・
あの世は時間の無い世界だと、多くの書籍にも共通してそう書いています。
ここは、どしどしご主人さんに気持ちを寄り添わせて気に掛けてもらいましょう♪
私は、亡き彼女にはそうしようと思っています。迷惑かも知れませんが、呼び止めたっていいじゃないって思っています。
そして、私が向こうの世界に逝った時、そこからまた一緒に歩んでいけばよいかなと考えています。
お互い、まずは寿命まで生き抜くことを目標に歩んでいきましょうね。
コメントありがとうございました。
私も、生前の亡き彼女が「ブログでもやったら」と言っていなかったら、そのときそのときの思いを残すことはなく、ただ過ぎ行くだけだったかと思います。
たまに、昔書いた記事を読んでみますと、「このときは、こんな思いでいたのか」と自らを振り返る気持ちになるときもあります。
「あれこれ、書籍を読んで、あの世とこの世との繋がり」や「あの世の仕組み」を知ろうとしていた頃のことも、ブログに残すことで、当時の想いが甦ってきます。
亡き彼女が目の前で息を引き取り、サーッと血の気が引いて肌が白くなる瞬間も目の当たりにしました。そのときに、彼女はこの世を去ったことを直感で感じました。
その瞬間は忘れもしません。
しかし、悲しみの中で、「本当に死んじゃったのか」「あれだけ、心の暖かかった彼女は、『無』になってしまったのか」「人の一生、そして生き死には、生と無の2つだけなにか」「いつか、全ての人に終わり(寿命)が来る、それで死んでしまったら何も無いのか」という思いから、あの世の存在を知りたいと思うようになりました。
確かに自らも死が訪れて、この世を去るときが必ず来ます。その死後に「無」しかなければ、「無」だったのか・・・と悩んだり、故人と会えないじゃないかと落胆したりする心(魂)さえ、「無」なわけですから「何も無い」「悩み苦しむことさえない」のですが、死後も、「??、死んだはずなのに死んでいない(魂)」という状態で周りを見渡せたなら、そこには飯田先生や江原さん、坂本さんや色々なスピリチュアルな書籍を出している方々の言うとおり、死後の世界、スピリチュアルな世界があることを実体験(死後ですが)するわけですので、そのときまで、そのような世界があることを楽しみにして生き抜こうと思っています。
死後に、魂や意識体として、自分の葬儀を見たりしたら、自分自身もびっくりすることでしょうね。
そして・・・
このような言い方はどうかとは思いますが、私は死の直前というのはとても怖く感じています。想像するだけで怖いです。相当にわめき散らして回りに迷惑を掛けるのではないかと思っています。小心者だからです。
亡き彼女も小心者だと私のことをそういっていました。しかし、考え方を変えれば、「死の壁を乗り越えたなら、先にあの世へ行っている亡き彼女がいる」と思うと、どこか「死」「死後の世界」に楽しみさえ感じるところが心の中に出てきています。
「再会」
それが成し遂げられるところは「あの世」なわけですから、その再会を楽しみにしつつ、この世を生きて行こう、お迎えが来るまで生き抜こうと思っています。
そのような気持ちになるのには、5年はかかったように思います。
さくらさまには、まだ早いお話だとは思いますが、失礼ではございますが、「娘さまとの再会」のときまでを強く生き抜かれ、そしていつかは娘さまとの再会を楽しみに出来る心が芽生えますようにお祈りいたします。
寂しくてガラケーながら色々と検索しているうちに見つけました。
僕も最愛の恋人を6月12日に亡くしました。なさぬ仲なので、一日数回こそこそと行って看病して、こそこそと帰る毎日を一ヶ月余り続けましたが、しかし亡くなった当日も通夜や葬儀にも行けませんでした。
返信が遅くなってすみません。
最愛の恋人を亡くされたのですか。。。辛く悲しい気持ち、よく分かります。
通夜や葬儀に立ち会えなくても、1日数回も看病して、顔を見せておられたのなら、きっと今も喜んでくれていることと思います。
確かに、夫婦という関係ではない場合、亡くなった最愛の人を偲ぶように思うことしか出来ない面が多々あります。
しかし、必ず最愛の方には思いが届いていますよ。
私も死後の世界については、見たことがないので半信半疑のところもありますが、ご近所さんから「亡くなった母親が出てきた」「葬儀場でみんなに会釈をしていた」「亡くなっているはずの人が出てきて、普通に語ってきた」「逆に、亡くなっているのは間違いない・・・怖いと思った」などと聞きますと、そのような話をしてくれるご近所さんはよく知った方なので、冗談や冷やかしで言っているのではないことは十分に分かっているだけあって、本当に死後も生き続けるのだろうなと思ったりします。
私は、最愛の彼女を亡くしてから、見えない世界のことをあれこれと調べるようになりました。
それは、本当に、あれだけ優しかった彼女が死とともに「無」になってしまうのか、生・死とはそんなものなのか・・・と思ったところから、どこかに居るのではないだろうか、居るとしたら、どこだろう・・・などと思うようになり、目には見えませんが手探りで探し始めました。
ですので、学者さんの書かれた書籍なども含め、信憑性のある、または真実味や実際にどう見えるのかを語ってくれる方々の話を探しては、ブログには記録として残してきました。
今では、「死後の世界はあるだろう」「もし死後にそんな世界があったなら・・・」と、どこかまた逢えることを楽しみにして、今を生き抜くことができるようになりました。
時間はかかると思います。
そう簡単には割りきれませんでしたから。
しかし、万一、死後が「無」であったなら、それはそれでガッカリする心(魂)もありませんので苦悩することはありません。ですが、思っていた通り、死後の世界があったなら、大いに喜べて、再会も出来ることと思います。
6/12に最愛の恋人を亡くされたばかりですので、すぐにはそのような気持ちにはなれないことでしょう。
そういうときは、最愛の恋人の足を引っ張るようで悪いですけど、思いっきり、「何で死んだの!」と問いかけても良いと、私は思っています。
それは、その先立った恋人にとっての試練でもあるのではないかと、私は考えているからです。
ですので、たまに通勤途中などで、「何で死んだんだよ・・・」「寂しいじゃないか・・・」と車中でつぶやくこともあります。
霊のようなものが見える人には見えるわけですので、、そのような見えない世界があったなら、きっとこちらの思いは、相手に伝わっているはず、そう思って、色々と語りかけるのもいいのではないでしょうか。
あまり友人、知人にこのような考えを真剣に話をすると引かれますけど、心の中で、また逢えると信じて生きたほうが、前を向いて歩んでいけますので、そのようにゆきさまがなれることを祈っております。
そして、最愛の恋人の方にも心よりお祈り申し上げます。
コメントありがとうございました。
一歩づつ歩んで行ってください。
その節は渾身のお返事をいただき、ありがとうございました。
最愛の人を亡くして僕も彼女はどこに行ったのかを考えるようになりました。
と同時に、その時に初めて真剣に生き物は死んだらどうなるんだろうって考えました。
そして今、生き物(どんな生き物でも)は死んだら宇宙の中に溶け込むのかなと思います。しかも、辺りの森羅万象の現象の中に溶け込んで、次の縁にふれるまで森羅万象の現象として生きているように思うのです。
どうなんでしょうかね?
宗教によって生死観はかなり違いますが、貴殿のように僕も宗教をよりどころにして、自分のための癒しや涙は流すまいと思えました。
でも死んだら全く終わりとは思えないのです。
ありがとうございました。
人事異動がありまして、なかなかブログに立ち寄れませんでした。。。
やはり最愛の人を亡くす、死別の悲しみをご経験されますと、「生と死」について考えてしまいますよね。
当初は「無になってしまうのか」「あの人の、とても素敵だった心・性格・感情、そして思いも消えてしまうのか」「肉体が亡くなったら、全てが終わりなのか」と考えたものでした。
「そんなはずは無い」
そこから、私のスピリチュアルへの探求がはじまったわけですが、私も最終的には、宇宙なり自然界なりに溶け込んでいくような感じなのかなとも思っています。
ただ、私の場合は、「幽霊が見える・見えない」「死後も考えたり、思ったりすることが出来る」「アストラル体」、そして「光」というのは、これが正しいという1点というよりも全てがそうだ(当たっている)と考えています。
呼び名は色々ですが、死後は、肉体と同じような姿の幽体を持ち、また死後それほど経っていない場合は、現世に残した思いを引きずりながらあの世で過ごす。
(たまに、「見える」という人に見つかる)
しかし、そのうち、肉体としては死に、現世とは違う世界(死後の世界・精神世界)で生きることになったことを受け入れる・理解できるようになると、この世で言う「悟り」ということになるのかなと思っています。
そして、そこから、では「現世に残した人のために、こちら(精神世界)でも何か出来ることをしよう」と思い、見守ったりするようになり、守護霊等の呼び名で呼ばれているものになったりするのではないかと考えています。
ですが、100年も経てば、みんなあの世にやってきます。もう現世で関わった人は、現世には居なくなり、あの世で再会することで、現世への未練も無くなっていく。そうなると、霊・魂で自分の思い(心や思考)は生き続けている、これが死後なのだと更に悟り、もう一段上に上がると言いますか、自分の形を象っている姿(現世での姿・容姿)にもこだわりも無くなり、次は幽体を脱ぎ、霊体(霊)になるのではないでしょうか。
そこからは、極論を言えば「無」とも言えますが、あれこれ思い続けていたことも一つ一つ悟りながら、こだわりのようなものや自分の思いや性格、偏った見方から来ているような考えも、次第に「もういいかな」と一つ一つ手放して行き、光のような存在になっていくのかなと思っています。
そこで、輪廻転生、またはもっと光の世界に進んで行く。これも呼び名は色々ですが、現世→死後→幽現界→幽界→霊界→神界という進化を進むのかなと、色々な書籍を読んできて、そう考えています。
そして、神界まで行くと「類魂」と言われている世界へと繋がり、色々な魂と融合して行き、最後は1つ、または宇宙、自然界というところへ繋がっていると見ています。
死後、そして死後に意識体として存在していたならば、
このような流れかなと思っています。
ですので、再会も含めて、これらのことを楽しみに、今は生かされている間は生き抜くことが先決なのかなと思っています。
コメントありがとうございました。
またお気軽にお立ち寄りください。
そして感じた事。知った事と学んだ事…。
人は亡くなると100日ほど意識の塊として残した人達に色んな世話をしてくれる事。
その後、その意識と想いは解き放たれて宇宙に溶け込む事。
宇宙といっても亡くなった辺りの自然の森羅万象の中に溶け込む事。
そこには無数の意識と想い(想念)が遍満している事。
その想いは生前を知っている者にしか感じられない事。
このブログが僕の『想い』の支えのテキストになりました。
ありがとうございました。
深夜&徹夜で決算業務に追われて、ブログを見に来ることが出来ていませんでした。。。
ゆきさまの書かれている通り、そのような流れで「あの世」を生きていく、進んで行くのだろうなぁと、私も思っています。
遺された私たちにとって、一番期待したい、そうであってほしいこと。それは、生前のような感情を持った、記憶も消えていない最愛の人に遭いたい!という点ではないかと思います。
人はいずれは死を迎えます。
これは、どんなに幸せなこの世を送ってきた人でも、同じく平等に訪れるものです。
「楽しかった・幸せな人生だった」と、強く実感している人は、この世を去るときには「とても残念だ」「いつまでも健康で生きたかった」という念も強いことと思います。
また、周囲の人とも楽しく過ごせてきたのであれば、尚更です。先立たれて遺される人にとっても、大変深い悲しみだと思います。
「人生いろいろあったな・・・」「生き抜くのって辛かったなぁ」「もう逝くときか・・・」と、たとえ寂しく去っていくこととなっても、この世への未練は薄い分、先だったあの人に遭えるかも知れないと楽しみを持って、死の壁を乗り越えて行くことが出来るということもあります。
やはり、人生って、最終的には終焉(死)を迎えるわけですから、そのときには「人生プラスマイナスゼロ」なのかも知れませんね。
私もあの人は幸せでいいなぁ・・・と思うことだってあります。彼がなぜ結婚して幸せに暮らせていて、自分はそうではないのか・・・そう思うことだってあります。
しかし、いつかは、どちらかが先に逝くのが死であり、幸せが大きかった分、その後の一人の生活はとても苦悩の生活だと思います。
私は、仕事は生きるために、やはりある程度は頑張らないといけないと思って取り組んでいます。
あとは、暇つぶしのようなものでしょうか。
そんな生活でも、とにかく生きていれば、そのうち最後を迎えて旅立つ日が来るわけですので、それまで何かしながら生きていればいいかなと思っています。
確かに、小さな楽しみや喜びは日々の生活の中でもあります(ようやく、そう感じられるようになってきました)
ですが、やはり一番の楽しみは、「亡き彼女に逢える(逢いたい)」ですね。
死後に、無になるのか、魂(意識体)として生きているのかは、逝ってみないと本当のところは分からないものですが、死後にも楽しみがあるかも知れない、そう思って生きるだけでも、今のこの世を少しでも楽しく過ごして行ける源となるのではないでしょうか。
お互い、頑張って生き抜いていきましょうね☆彡
コメントありがとうございました。
またお気軽にお立ちよりください。