(末の松山 写真:宮城観光キャンペーン推進協議会公式サイトより)
あれから、2年も経ったのですね。
会社のTVで、「うわぁ」と社員一同が報道の映像に
釘付けになっていたのを思い出します。
2013年(平成25年)3月8日時点で、震災による死者・
行方不明者は18,549人、建築物の全壊・半壊は合わせ
て39万8,460戸、ピーク時の避難者は40万人以上、
停電世帯は800万戸以上、断水世帯は180万戸以上。
復興庁によると、2013年2月7日時点の避難者等の数は
31万5,196人となっている。
そうです。
・・・
最愛の人を亡くされた方々の悲しみや悔しさ、寂しさ、
無念さは、計り知れないものと思います。
天災なのか、人災なのか。。。
一部には、原発など人災の面が強い災害もありますが、
保障云々よりも「元に、元の生活に戻して欲しい」
その一点だと、被災者の方々の思いを報道で聞いて強く
感じました。
・・・
今日、BSで「浪分神社」と「末の松山」の話を知り
ました。
百人一首の「末の松山浪こさじとは」宮城県多賀
城市八幡の沙丘にある「末の松山」だそうですね。
契りきな かたみに袖をしぼりつつ
末(すゑ)の松山 波越さじとは
清原元輔(42番) 『後拾遺集』恋四・770
そして、松尾芭蕉は、「おくのほそ道」の行脚の途中
ここに立ち寄り、無常を感じたことを書き表している
そうです。
また、津波がこの末の松山を越えそうで越えなかった
状況を示すものでもあるということを知り、いつの
時代のこと???と思い調べましたら、
貞観地震(じょうがんじしん)は、平安時代前期の
貞観11年5月26日に、日本の陸奥国東方沖(日本海溝
付近)の海底を震源域として発生したと推定されて
いる巨大地震である。地震の規模は少なくともマグニ
チュード8.3以上であったとされる。地震に伴って発生
した津波による被害も甚大であった。
という時代でした。
浪分神社には、過去に東北地方太平洋側で発生した
地震に伴う大津波を伝える伝承が残されているそうです。
現在の鎮座地は、慶長16年(1611年)の慶長三陸地震に
伴い発生した大津波のときに当地を襲った津波が二つに
分かれ、その後、水が引いた場所だと伝わっているそう
です。
神社が創建された後、あるとき東北地方で大津波があり、
何度も大波が押し寄せ、当地でも多くの溺死者が発生
したと伝わり、そのとき、海の神が白馬に乗って降臨し、
襲い来る大津波を南北二つに分断して鎮めたと逸話が
あります。
この白馬伝説は天保6年の宮城県沖地震以降に語られる
ようになったそうで、これらの津波に関する伝承は、
稲荷神社を「津波除け」の神社としての神徳を高める
ことにつながり、「浪分大明神」という名で呼ばれる
ようになったとのことです。
浪分神社鳥居写真:ウィキメディア・コモンズより
・・・
この東北地域には、石碑など、色々な形で色濃く
「大地震と大津波」に関する先人達の強い想いが残
っているところだと改めて、そう感じました。
私の住む地域も、大地震が来るという話があります。
過去に保険会社の地震保険の地域別保険料を見たとき、
宮城県や岩手県・福島県よりも、私の住む街のほう
が地震保険料が高かったのを覚えています。
しかし、東北地方のように、多くの地震や津波に
関する史跡などはありません。
多少意識して探してみましたが、全く見当たりません。
見て分かるような「神社」「末の松山」「石碑」のよう
なものは、どこにもありません。
大地震はあっても、大津波までは無かったからでしょうか。
しかし、東北地方の先人達が、後世の子孫のために多く
の史実を大切に残されている点を見ますと、よほどの
悲惨さ、想像出来ないほどの惨事、そして同じ苦しみを
後世の者にして欲しくないという強い願いから、見て
分かる形で遺してきたのだと感じました。
不況が続く日本経済の中でも、便利な世の中になった
現代。しかし、果たして、科学のチカラや人工建造物
で、この自然に立ち向かっていけるのかと考えますと、
東日本大震災のような自然の摂理、周期で起る天災で
さえ避けられなかったわけですから、やはり先人達の
残された言葉に、各個人がお伽話や伝説のように軽視
せずに耳を傾けるべきではないかと思いました。
あれから、2年も経ったのですね。
会社のTVで、「うわぁ」と社員一同が報道の映像に
釘付けになっていたのを思い出します。
2013年(平成25年)3月8日時点で、震災による死者・
行方不明者は18,549人、建築物の全壊・半壊は合わせ
て39万8,460戸、ピーク時の避難者は40万人以上、
停電世帯は800万戸以上、断水世帯は180万戸以上。
復興庁によると、2013年2月7日時点の避難者等の数は
31万5,196人となっている。
そうです。
・・・
最愛の人を亡くされた方々の悲しみや悔しさ、寂しさ、
無念さは、計り知れないものと思います。
天災なのか、人災なのか。。。
一部には、原発など人災の面が強い災害もありますが、
保障云々よりも「元に、元の生活に戻して欲しい」
その一点だと、被災者の方々の思いを報道で聞いて強く
感じました。
・・・
今日、BSで「浪分神社」と「末の松山」の話を知り
ました。
百人一首の「末の松山浪こさじとは」宮城県多賀
城市八幡の沙丘にある「末の松山」だそうですね。
契りきな かたみに袖をしぼりつつ
末(すゑ)の松山 波越さじとは
清原元輔(42番) 『後拾遺集』恋四・770
そして、松尾芭蕉は、「おくのほそ道」の行脚の途中
ここに立ち寄り、無常を感じたことを書き表している
そうです。
また、津波がこの末の松山を越えそうで越えなかった
状況を示すものでもあるということを知り、いつの
時代のこと???と思い調べましたら、
貞観地震(じょうがんじしん)は、平安時代前期の
貞観11年5月26日に、日本の陸奥国東方沖(日本海溝
付近)の海底を震源域として発生したと推定されて
いる巨大地震である。地震の規模は少なくともマグニ
チュード8.3以上であったとされる。地震に伴って発生
した津波による被害も甚大であった。
という時代でした。
浪分神社には、過去に東北地方太平洋側で発生した
地震に伴う大津波を伝える伝承が残されているそうです。
現在の鎮座地は、慶長16年(1611年)の慶長三陸地震に
伴い発生した大津波のときに当地を襲った津波が二つに
分かれ、その後、水が引いた場所だと伝わっているそう
です。
神社が創建された後、あるとき東北地方で大津波があり、
何度も大波が押し寄せ、当地でも多くの溺死者が発生
したと伝わり、そのとき、海の神が白馬に乗って降臨し、
襲い来る大津波を南北二つに分断して鎮めたと逸話が
あります。
この白馬伝説は天保6年の宮城県沖地震以降に語られる
ようになったそうで、これらの津波に関する伝承は、
稲荷神社を「津波除け」の神社としての神徳を高める
ことにつながり、「浪分大明神」という名で呼ばれる
ようになったとのことです。
浪分神社鳥居写真:ウィキメディア・コモンズより
・・・
この東北地域には、石碑など、色々な形で色濃く
「大地震と大津波」に関する先人達の強い想いが残
っているところだと改めて、そう感じました。
私の住む地域も、大地震が来るという話があります。
過去に保険会社の地震保険の地域別保険料を見たとき、
宮城県や岩手県・福島県よりも、私の住む街のほう
が地震保険料が高かったのを覚えています。
しかし、東北地方のように、多くの地震や津波に
関する史跡などはありません。
多少意識して探してみましたが、全く見当たりません。
見て分かるような「神社」「末の松山」「石碑」のよう
なものは、どこにもありません。
大地震はあっても、大津波までは無かったからでしょうか。
しかし、東北地方の先人達が、後世の子孫のために多く
の史実を大切に残されている点を見ますと、よほどの
悲惨さ、想像出来ないほどの惨事、そして同じ苦しみを
後世の者にして欲しくないという強い願いから、見て
分かる形で遺してきたのだと感じました。
不況が続く日本経済の中でも、便利な世の中になった
現代。しかし、果たして、科学のチカラや人工建造物
で、この自然に立ち向かっていけるのかと考えますと、
東日本大震災のような自然の摂理、周期で起る天災で
さえ避けられなかったわけですから、やはり先人達の
残された言葉に、各個人がお伽話や伝説のように軽視
せずに耳を傾けるべきではないかと思いました。
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