私も思ったことをあれこれ記事に書いていますが、
自分自身を見つめ直してみますと、生と死とは
生・・・生きる、生きるためにはおカネが必要
死・・・死後は、何も持っていけない、死んだら
無かもしれないし、有ってもただ心(意識)だけ
この表裏一体の仕組みが、常に日常生活に存在
しているなぁと感じたのと同時に、私自身、
給料が安いだの、今月は残業代が楽しみだとか、何とか
賞与も出たやマンション購入で副業と思ったり
行動したりしていて、死とは反対の動きをして
いるなぁと思いました。
そうなんですよね。
普段は当たり前のように、ごく普通に「生きている」
わけですので、生活に関わること、要は「おカネ」
で動いているわけです。
おカネがあれば、生活に必要な物や贅沢品も
手に入るわけですし、物が無いとどうにもならない
側面(家が無いと寝床が無い・服が無いと寒い・
食べ物が無いと死んでしまう)という状況も必ず
あります。
しかし、私は経理職兼総務職ですので、社員や
その家族、取引先の方の死というものによく遭遇
します。
葬儀にもよく行きます。常に礼服は用意しています。
そのときには、「死」というものを考えさせられます。
おカネが全てでは無いのだと。
最近では、故人の写真やDVDを大型スクリーンに
映像と音楽で流したりもします。
そのような映像を観ますと、「個々人ひとりひとり
に歴史あり」だなぁと、つくづくそう感じます。
生い立ちや苦労話、そして子や孫にも恵まれて・・・
というパターンが多いですし、元勤務先の方やOB
など、数百人も弔問に訪れる故人もあれば、
ひっそりとした葬儀もあります。
しかし、生きている間は、みなさん、あれこれと
思案して生きてきたんだなぁという点では皆共通
してそのような場面を持っています。
私も、いつかこの世を去るとき「彼女さんを亡くして
ずっと独りで・・・」などと言われるのでしょうかね。
しかし、生きているうちの生き方というのは、
自分自身で選べます。努力するしないも自分次第。
そして、なぜ生きるのか、生きているのかは人それぞれ
に自分の中に定義づけしている場合もあれば、
ただ生きているから・・・それだけ、という人も
いるでしょう。
しかし、生きているうちは、食って生活しないと
生きていけない。そうなると、やはり「生」はおカネ
抜きでは語れません。
生は、おカネ、そして、物。やはり物質世界ですね。
そこに、今はいるわけです。
死はどうでしょう。
死は、何も無くなる、見えなくなる、もしかしたら
心(魂・意識体)として永遠に留まるのかも・・・
葬儀は、目に見える儀式ですが、どの宗派の僧侶も
また、神式ならば特に神なる存在がありますので、
「死んで、心も何もかも無くなる」などは一切
言っていません。
科学で、死後も生き続けるなどと立証されていない
のにも関わらず、神仏どちらも、死後の世界に向けて
故人をよろしくお願いしますのような念を唱えて
いますよね。
ここで、全く正反対の話に摩り替わるわけですが、
これをおかしいとか、言う人も見かけません。
「死んだら、何も残らんよ」と、日常会話で言う
人も、親や子供、親族が亡くなったら、葬儀に参列
しています。
そして、その後、「葬儀代が高かった」「葬儀で
値引きの話は出来ない、いい商売だ」だの、また
普通の生活に戻ると、おカネの話が出てきます。
生が表で、死が裏。
これが表裏一体で常に生活しているという姿の分かり
やすい一面ですね。
・・・
しかし、死は、やはり皆さん、普段は生きているわけ
ですから、あまり考えないようにしていると言いますか
考えていないものです。
でも、いつか皆さん死んでいくものです。
早い遅いは別として、いつか必ず死を迎えます。
そのときに、また会いたい、死後に逢えるかなぁ
と思いを馳せるわけですが、この気持ちを生きて普通に
暮らしている日常においても、頭の片隅に置いておく
ことが出来たならば、もっと有意義な生き方も出来る
ことと感じました。
そうしましたら、おカネの使い方もまた多少は違って
くることと思います。
・・・
とは、言いましても、私も普通の生きている人間の
ひとりですので、余裕が持てるくらいのおカネも欲しい
ですし、あればあるほど良いなぁと思っています。
これは、やはり矛盾というものではなく、自然なこと
であり、矛盾×、表裏一体○ という考え方が正しい
のだと思います。
・・・
このように考えますと、新興宗教の中には、「財産
は全て捨てなさい(教団に寄付)」「私欲は持っては
いけない」「おカネ、おカネと思う心は間違い」と
いうのは、それこそ間違いだと思いますよね。
自分自身を見つめ直してみますと、生と死とは
生・・・生きる、生きるためにはおカネが必要
死・・・死後は、何も持っていけない、死んだら
無かもしれないし、有ってもただ心(意識)だけ
この表裏一体の仕組みが、常に日常生活に存在
しているなぁと感じたのと同時に、私自身、
給料が安いだの、今月は残業代が楽しみだとか、何とか
賞与も出たやマンション購入で副業と思ったり
行動したりしていて、死とは反対の動きをして
いるなぁと思いました。
そうなんですよね。
普段は当たり前のように、ごく普通に「生きている」
わけですので、生活に関わること、要は「おカネ」
で動いているわけです。
おカネがあれば、生活に必要な物や贅沢品も
手に入るわけですし、物が無いとどうにもならない
側面(家が無いと寝床が無い・服が無いと寒い・
食べ物が無いと死んでしまう)という状況も必ず
あります。
しかし、私は経理職兼総務職ですので、社員や
その家族、取引先の方の死というものによく遭遇
します。
葬儀にもよく行きます。常に礼服は用意しています。
そのときには、「死」というものを考えさせられます。
おカネが全てでは無いのだと。
最近では、故人の写真やDVDを大型スクリーンに
映像と音楽で流したりもします。
そのような映像を観ますと、「個々人ひとりひとり
に歴史あり」だなぁと、つくづくそう感じます。
生い立ちや苦労話、そして子や孫にも恵まれて・・・
というパターンが多いですし、元勤務先の方やOB
など、数百人も弔問に訪れる故人もあれば、
ひっそりとした葬儀もあります。
しかし、生きている間は、みなさん、あれこれと
思案して生きてきたんだなぁという点では皆共通
してそのような場面を持っています。
私も、いつかこの世を去るとき「彼女さんを亡くして
ずっと独りで・・・」などと言われるのでしょうかね。
しかし、生きているうちの生き方というのは、
自分自身で選べます。努力するしないも自分次第。
そして、なぜ生きるのか、生きているのかは人それぞれ
に自分の中に定義づけしている場合もあれば、
ただ生きているから・・・それだけ、という人も
いるでしょう。
しかし、生きているうちは、食って生活しないと
生きていけない。そうなると、やはり「生」はおカネ
抜きでは語れません。
生は、おカネ、そして、物。やはり物質世界ですね。
そこに、今はいるわけです。
死はどうでしょう。
死は、何も無くなる、見えなくなる、もしかしたら
心(魂・意識体)として永遠に留まるのかも・・・
葬儀は、目に見える儀式ですが、どの宗派の僧侶も
また、神式ならば特に神なる存在がありますので、
「死んで、心も何もかも無くなる」などは一切
言っていません。
科学で、死後も生き続けるなどと立証されていない
のにも関わらず、神仏どちらも、死後の世界に向けて
故人をよろしくお願いしますのような念を唱えて
いますよね。
ここで、全く正反対の話に摩り替わるわけですが、
これをおかしいとか、言う人も見かけません。
「死んだら、何も残らんよ」と、日常会話で言う
人も、親や子供、親族が亡くなったら、葬儀に参列
しています。
そして、その後、「葬儀代が高かった」「葬儀で
値引きの話は出来ない、いい商売だ」だの、また
普通の生活に戻ると、おカネの話が出てきます。
生が表で、死が裏。
これが表裏一体で常に生活しているという姿の分かり
やすい一面ですね。
・・・
しかし、死は、やはり皆さん、普段は生きているわけ
ですから、あまり考えないようにしていると言いますか
考えていないものです。
でも、いつか皆さん死んでいくものです。
早い遅いは別として、いつか必ず死を迎えます。
そのときに、また会いたい、死後に逢えるかなぁ
と思いを馳せるわけですが、この気持ちを生きて普通に
暮らしている日常においても、頭の片隅に置いておく
ことが出来たならば、もっと有意義な生き方も出来る
ことと感じました。
そうしましたら、おカネの使い方もまた多少は違って
くることと思います。
・・・
とは、言いましても、私も普通の生きている人間の
ひとりですので、余裕が持てるくらいのおカネも欲しい
ですし、あればあるほど良いなぁと思っています。
これは、やはり矛盾というものではなく、自然なこと
であり、矛盾×、表裏一体○ という考え方が正しい
のだと思います。
・・・
このように考えますと、新興宗教の中には、「財産
は全て捨てなさい(教団に寄付)」「私欲は持っては
いけない」「おカネ、おカネと思う心は間違い」と
いうのは、それこそ間違いだと思いますよね。
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