マンション管理のお勉強日記+スピリチュアルなブログ:飯田史彦教授 江原啓之氏 坂本政道氏等の精神世界の書籍を読んで

先立った最愛の彼女といつか必ず逢いたい…彼女が枕元に置いて逝った江原啓之氏の書籍…Spiritualな世界の存在を信じて

筑波大学 村上和雄名誉教授 -死んだらどうなるか-

2007年01月13日 00時13分41秒 | ★書籍で探訪|他、大学教授や医師等の見解
村上和雄名誉教授は、遺伝子の研究者ですので、まずは生命の連続性について、親
の遺伝子が子供に伝わり、子供の遺伝子が孫に伝わるというかたちで生命は連続し
ていくと言われています。

しかし、村上和雄名誉教授は、
「しかし、連続していると確認できるのは遺伝子であって生命そのものではありま
せん。」とも述べています。

どういうことでしょうか?

村上和雄名誉教授は、
「遺伝子は生命でしょうか。」
「遺伝子は生命の設計図ですが、設計図はあくまで設計図で『そのもの』ではあり
ません。」
「したがって遺伝子も生命そのものではありません。」とおっしゃっています。

そこで・・・
では生命はどこにあるのか。

ヒトの遺伝子情報を全部解読されても(現在ではされましたが)、「それでも生命
の本質を明かすのは、たぶん無理ではないかと思います。」と言っています。

・・・

そこで、村上和雄名誉教授は
「『生命とは何か』について私は次のように考えています。」として・・・

「『死んだら生まれ変わる』という人たちがいます。何に生まれ変わるのか。一般
に考えられている生まれ変わりとは、自分の魂みたいなものがあって、それが体に
宿ってこの世界に現れる。この魂の連続性を生まれ変わりと称しているのです。」

「だが魂がどんなものであるかは定義できていません。」

「ただ魂は連続していて、死んで肉体が滅びても魂はなくならない。死ねばその肉
体を離れるが、また別の肉体を借りてこの世に現れる。大ざっぱにいうとこういう
ことになります。」とまず、一般に魂と呼ばれているものについて説明したのち、

村上和雄名誉教授は、
「これらのことは遺伝子レベルでは説明できません。」
「遺伝子は物質であり、魂を物質レベルで説明することは、いまのところ無理なの
です。」

「とはいえ、説明できないことが『ないこと』にはならない。」
「私も魂は『あるのではないか』と思っています。」と語っておられます。



-筑波大学 村上和雄名誉教授の考える『魂』とは-

「ただし、私の考える魂は、いまの自分が意識している心ではありません。」
「一般に意識できるのは心であり魂ではないと思うのです。」
「つまり魂とは無意識の世界と関係するのではないか。魂はあるけれども、自分
でも通常は意識できないもののように思えるのです。」という考えを述べています。

・・・
村上和雄名誉教授は、[意識=今の私たちが生きていて色々経験し、そこで抱く感
動する『心』]であり、これは、たましいとは別物と見ているようです。


では、どう見ているのでしょうか。。。

「心はうれしくなったり、悲しくなったり、怒ったりします。しかし死んだら心は
なくなるのです。心とは意識の世界であり、肉体と不可分です。肉体と不可分なも
のは、死んだらなくなっても不思議ではありません。」とおっしゃっています。

・・・
ちょっと、期待した言葉とは・・・違った・・・かな
と思いましたら、
「ところが、ここに無意識というものがある。」

「これは自分でもはっきり意識できない世界ですが、この世界が魂と繋がっている
のではないか。」

「魂は無意識とつながっていてそこからサムシング・グレートの世界へ通じている。」

「昔から神仏の世界が理性や意識の範囲だけではわかりにくいのは、このためでは
なかったかと思われます。」と、

魂=無意識=偉大なる何者か(サムシング・グレート)
このような繋がりと考えておられるようですね。


そこで、村上和雄名誉教授は
「遺伝子は物質としての人間の連続性を伝えていくが、魂というものはそれとは
別次元で考えなければならないもののようです。」
と魂の存在を肯定的に見ている考えを述べています。

「ということは、遺伝子が全部読み取られたとしても、魂のことは分からない。」

「魂がわからないということは、生命の本質もわからないことだと思います。」

と、物質レベルで物事を捉えている遺伝子の研究では、魂の存在は分からないとお
っしゃっておられます。

-新しい発想の発見-
私は、村上和雄名誉教授の「生命の暗号」を読んで、「なるほど、そういう見方も
あるよね」と思ったのが、

村上和雄名誉教授の
「いままでは心と魂をごっちゃにして議論することが多かったために分かりにくか
った。」「心と魂を分けて考えれば、生と死の問題がかなりよくみえてくるように
なります。」という言葉です。

心と魂を分けて・・・ですか。。。

・・・
本書を読んで、私なりに考えてみたことですが、

「心は意識であり、意識は心からくるものであり、これは魂ではない。」
「魂は無意識の世界と繋がって存在している(かもしれない)」
という考えは、心からくる意識(逆も)とは、「ああでありたい」「こうでありた
い」「うれしい」「かなしい」という思いや感情を本書では指しておりますが、
人間としてこの現世に生きているところから来る「何か物事に影響されて起こる
気持ち」のことが、どうも本書の「心」にあたるのではないかと思います。

魂の存在は、たしかに今を生きている私たちには実感はありません。
(たまに胸の辺りが光るとかあれば、分かりやすいでしょうけどね)

本書を読み終えたとき、
ふと、もしかしたら、魂は過去世の記録簿だけなのかも知れないとも、思いました。

しかし、では福島大学の飯田史彦教授や聖心女子大学の鈴木秀子教授らのように
実際に死にかけて、上から下に寝ている(倒れている)自分の姿を見たり、あの
世をかいま見た際に、光との会話が出来たりしたことは、どう解釈するのかなとも
思いました。
その他、京都大学のカール・ベッカー教授の研究で紹介されている臨死体験者の
証言なども、どう考えるのかとも。

そこで、これではないかなと私が思いましたのは、
例えば、
「先立った故人が、この世に残した家族のことを心配する。」
これは、この世での「心」とは違い、また本書でいう「意識」とも違うと思います。

その気持ちは、「考えられた気持ち」ではなく、亡き故人の素直な思いからくる感
情であり、この世を生きる私たちの肉体と繋がった本書で用いられている「心」が
抱く感情とは、まったく別物ではないかと感じた次第です。


この思いは、まさにこの世的にいう「無意識」のうちに○○なことをしてしまった
などと同じで、何もない、この世的な俗っぽい「守ってあげたら、喜ぶのではないか」
などという見返りもない、真に思う気持ちからきていると思うのです。
ですから、この「先立った故人が、この世に残した家族のことを心配する。」とい
う心は「無意識の心」と言えるのではないでしょうか。

ですから、死後も、この世的にいうところの「心(考えられた気持ちも、自然に感
じた思いも全て含んだ広義の意識)」のうち、死後、「素直に思った気持ち」に関
しては無意識に通じ、死後も存続するものではないかと思いました。

そう考えると、「この世に遺した者を思い、幽霊として姿を現した霊の『心』」
「あの世に行っても、ずっと怨みに思っている怨念の『心』」もあの世に存在する
と考えられますし、そうだからこそ坂本政道氏のように「囚われの世界があった」
や故:宜保愛子氏のような霊媒師に「相談者の後ろに、故人が現れているのが見え
る」、江原啓之氏のように相談者の話していないことまで相談者の守護霊を通して
知ることができるといった、不思議な事象も有り得ると解釈することができるので
はないかと思うのです。


この世で生きている間に感じる心(俗っぽい気持ちや現世の社会の仕組みから思う
ようになった感情や欲望、嫉妬、憎悪等)=意識は確かに、死後肉体とともに無く
なることでしょう。

しかし、駆け引き無しに素直に感じる気持ち「『心』=死後に故人がこの世に残し
た何かに執着し思う心」は、無くならない。


だから、福島大学教授の飯田史彦教授が「ツインソウル」の書籍で述べているよう
に、幽体離脱している状態でアイドルの入浴シーンを見に行こうなんて思わない、
弟が今何しているのかその行動について知りたいとは思わない、ただ「妻は」
「弟は」という、ただそれだけの思いだけであり、物質的なこの世的な行動には感
心がないとおっしゃっているとおりなんでしょうね。


本書の「心」と「意識」、そして「無意識」の用語のうち、
心を「この世での心」と「あの世での心」とに、さらに分け、また本ブログで取り
上げている先生方の行った調査結果を踏まえると、また違った観点から説明もでき
るよう思いました。意識も同様に、この世での意識とあの世へ行った者があの世か
ら思い感じる意識も分けてみることも大切なように思います。


表現の仕方が難しいですが、
「死後のあの世での心は、無意識のうちにある意識」とでもいうのでしょうか。


「『心』とは」「『意識』とは」
定義を、もっと考えてみたいですね。

追加2006.1.13
よく成仏の話で出てくる「この世への未練・執着」に関して、また死後、成仏出来
ないということも有り得ることを踏まえていませんでしたので、考えてみました。

「執着や未練は、この世に生きる者の心と同じではないか。」
「恨みや欲といった心はどうか」

執着や未練、恨みや欲望は確かにこの世にいる私たちの『心』の中に少なからずあ
ると思います。

しかし、あの世へ行ったときにまで持つ執着や未練、恨みや欲望などの思いは、そ
の「この世的な『心』」と同じなのでしょうか。


私としては、素直な気持ちからの「執着」「未練」「恨み」「欲望」
とでも言いましょうか。。。
これも「あの世での無意識のうちにある意識(思い)」だと思うのです。


例えば、京都大学カール・ベッカー教授の書籍「死の体験」法蔵館で紹介されてい
ますが、

生前、妻をよろしく頼むと友人に託して亡くなった
        ↓
その友人は、しばらくの間は、遺言通り故人の妻の面倒を見た
        ↓
故人の息子が大きくなったので、故人の妻を預けた
        ↓
それから数年後、故人が「なぜ、お願いしたことを守って
くれなかったのか」と、悲しげに友人の前に現れた
        ↓
友人は、驚いて故人の妻の消息を調べたら、故人の息子に家を追い
出されかけていた。

という、話が「死の体験」に載っています。

このような話は、死後もこの世的な俗世的な心からなる意識(思い)であるように
思われますが、そうではなく、この上記のような出来事での幽霊の出現(あの世で
の故人の思いが現れる)は、「あの世で故人が思った『素直な気持ち』」すなわち
「無意識のうちにそう思った気持ちから」ではないでしょうか。


ですから、「妻を心配してあげよう」という思いからではなく、
「(あの世から見ていて)妻が心配に思った」という素直な気持ち
いわゆる「故人の無意識のうちにある意識」からくる思いだと思うのです。


う~ん、何だか無意識が有意識のようで、無ではないような・・・
考えを述べるのって難しいですね。

もう少し、分かり安く・・・と、考えまして、

「親は無条件で自分の子供を愛する」

私が思うには、この気持ちが、あの世にいる故人がこの世に残した家族に向けてい
る気持ちではないか、ということです。

「当然のこととして・・・」
「『どうしてあげようか』と考えついたことから来るものではない」
と言いましょうか。

ようするに、
「意識して、愛するのではなく、無意識のうちに愛を注ぐ」

それがあの世という場所にいる故人が「人生の回顧」や「過去世記憶の復活」
「この世とあの世の繋がりと仕組みを知った者の悟り」から生まれるもののように
思います。


そして、いわゆる未成仏というのは、これら「人生の回顧」などを通して知る以前
に、あるいは知ったのちにも、〇〇が気になるといったようにある意味素直な気持
ちでの未練や執着によって、せっかくのあの世の配慮でも気づく(悟る)ことが出
来ず、江原啓之氏の言われるような幽現界を「幽霊」としてうろつくことになった
りするのではないでしょうか。


そのような「素直な気持ちからくる心=無意識のうちにそう思う心」が、魂の本質
であるように思います。
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