やはり、故:宜保愛子氏が「生まれ変わりの秘密」講談社の書籍で語る、
死後は、「無味乾燥な赤土の上をトボトボと歩く」という言葉がどうしても、
気になりましたので、まとめておきたいと思います。
「霊たちは、無味乾燥な赤土の上を、ひたすら歩いていくのみなのです。」
・・・
これは辛いです。
本当に、ただそれだけなのか・・・
そこで、A・ファーニス著「死後世界地図」と照らし合わせて、再度考えてみました。
ブログ内で、「希望の家」というところではないか、と書きましたが、よく読み
ますと、
地表の霊界→→→希望の家→→→「たそがれの国」
(江原氏のいう幽現界)(ここから、江原氏のいう幽界)
「たそがれの国」がもっとも当てはまることが分かりました。
霊人:フランチェッツォ氏は、A・ファーニス(霊媒)氏に、次のように伝えて
います。
「私がいるこの場所には花が存在しないのです。」
「草の葉さえ、あるいは干からびた潅木さえも存在しません。」
「利己主義が支配する乾いた不毛の土壌には、何の花も咲くことはないし、
萌えいずる緑の葉もないのです。」
草木もない、不毛の土壌。。。
・・・
どうでしょう。この世界(霊域・心域)こそが、
故:宜保愛子氏が見た「無味乾燥な赤土の上をトボトボと歩く」世界ではないで
しょうか。
「死後世界地図」には、さまざまな階層の世界(現世的にいうと上↑下↓、高低
の世界)があると記されています。
故:宜保愛子氏は、その「一霊域(領域)」「一心域」を見られてそのように
語っていたのだと思われます。
・・・
また、地表の霊界よりも、一ランク低い世界にも、このような世界が紹介されて
います。
霊人:フランチェッツォ氏は、「希望の同胞団」の一員として、初めて訪れた場所
についてこのように伝えてきています。
「初めて訪れたのは『灰色の石の谷』と呼ばれる場所でした。」
「ぼんやりとした寒い灰色の丘が周囲を囲み、たそがれ気味の空がその上をおおっ
ているそこは、やはり草一本生えておらず、枯れた潅木さえもありませんでした。」
「色めいたものもまったく目につきません。」
「ただ、寂しい灰色の石があるのみです。」
・・・
このように、どうも「灰色の石の谷」~「たそがれの国」の間の霊域は、不毛の
地のようですね。
死後は、「無味乾燥な赤土の上をトボトボと歩く」という言葉がどうしても、
気になりましたので、まとめておきたいと思います。
「霊たちは、無味乾燥な赤土の上を、ひたすら歩いていくのみなのです。」
・・・
これは辛いです。
本当に、ただそれだけなのか・・・
そこで、A・ファーニス著「死後世界地図」と照らし合わせて、再度考えてみました。
ブログ内で、「希望の家」というところではないか、と書きましたが、よく読み
ますと、
地表の霊界→→→希望の家→→→「たそがれの国」
(江原氏のいう幽現界)(ここから、江原氏のいう幽界)
「たそがれの国」がもっとも当てはまることが分かりました。
霊人:フランチェッツォ氏は、A・ファーニス(霊媒)氏に、次のように伝えて
います。
「私がいるこの場所には花が存在しないのです。」
「草の葉さえ、あるいは干からびた潅木さえも存在しません。」
「利己主義が支配する乾いた不毛の土壌には、何の花も咲くことはないし、
萌えいずる緑の葉もないのです。」
草木もない、不毛の土壌。。。
・・・
どうでしょう。この世界(霊域・心域)こそが、
故:宜保愛子氏が見た「無味乾燥な赤土の上をトボトボと歩く」世界ではないで
しょうか。
「死後世界地図」には、さまざまな階層の世界(現世的にいうと上↑下↓、高低
の世界)があると記されています。
故:宜保愛子氏は、その「一霊域(領域)」「一心域」を見られてそのように
語っていたのだと思われます。
・・・
また、地表の霊界よりも、一ランク低い世界にも、このような世界が紹介されて
います。
霊人:フランチェッツォ氏は、「希望の同胞団」の一員として、初めて訪れた場所
についてこのように伝えてきています。
「初めて訪れたのは『灰色の石の谷』と呼ばれる場所でした。」
「ぼんやりとした寒い灰色の丘が周囲を囲み、たそがれ気味の空がその上をおおっ
ているそこは、やはり草一本生えておらず、枯れた潅木さえもありませんでした。」
「色めいたものもまったく目につきません。」
「ただ、寂しい灰色の石があるのみです。」
・・・
このように、どうも「灰色の石の谷」~「たそがれの国」の間の霊域は、不毛の
地のようですね。
現世一度限りの縁だったのだろうか?
しかしそれなら因果論など当てはまらなくなる
今も絆は繋がっていると信じたい
こちらの事を見てくれているし、覚えてくれているはずだと
でもそれは成仏する前の話?成仏したら忘れてしまうのか?
夢に出てこなくなったのはこちらの事を忘れてしまったのか?
自分には何の能力もないので湧き上がる疑問に信じる為の確かな答えを求め調べ、しかし誰に詰問出来る訳でもなく、自分なりに解釈するしかないのですが・・・
「こういう事ならば、あれはどういう事だ」「それならこういう場合はどうなる」など、迷宮入りして頭がおかしくなりそうです
主様はもう年数が経たれた現在、諸々ご自分なりの落としどころというか納得はいかれたのでしょうか?
確かに、スピリチュアルな書籍を読んでいますと、あの世には無数の階層が在りそうだなと思ってきます。
ですが、階層が多いと会えないか否かを考えますと、死後のことですので肉体は持っておらず、意識体(霊体や魂など)の存在なので、念と言いますか、会おう、会いたいと思えば、会えるのではないかと、私は思っています。
私なりの落としどころですが、まずは「死後の世界はある」「死後、きっと再会できるはず」と思うようにして生きています。
ですが、実際のところ、本当に死んでみないと分からないことだとも思っている面もあります。
ですので、懐疑的と言いますか、書籍で読んだような世界があれば、それは死後すぐに分かることなので、「なるほど。やっぱり、死後の世界はあったんだ」と思うことで、すでに満足することと思います。そして、会いたかった人に会えるようにあの手この手のように、色々とチャレンジしてみることと思います。
しかし、死後は、本当に「無」の世界で、この世で幽霊が出た!幽霊を見た!と言っているものの実態は、生きている人間の幻覚であった場合も、考えたことがあります。
死の直前、あの世で、先立った個人と会える!という望みを持って、死に向かったところ、死後、何もなかったらどうなんだろうと。
しかし、この答えは、すぐに出ました。「なんだ、、、無じゃないか」「死んでも会えないのか!」「嘘を信じさせられて生きて来てしまった」などと、思う思考や肉体で言うところの脳・頭脳も「無」となっていますので、何も悔やんだり、落ち込んだり、悲観したりさえも出来ないわけですので、恨む心さえありません。
ですので、死後の世界があると思っていて、無かった場合、それはそれで「無」になって終わりなので、良しかなと思うようになりました。
そして、それでは、今この世に肉体をもって生きているときに、死後について考えるのであれば、死後にも魂などの意識体は残り、肉体は持っていないが、自分は生きているという、見えない世界、死後の世界を考えるほうが、今、この時を生き抜くにはよいという結論に至りました。
色々なスピリチュアルな書籍を読みながら、死んだら「無」になる、あの世など無いとは思わず、「もし、死後にあの世が存在していたなら、『やっぱりあったじゃない!』」と喜べるほうに、物事を考えるようにしたことで、とにかく今は生かされている間、生き抜こうという考えになった次第です。
実際には、死んでみないと分からないですからね。
そして、死後、すぐに会いたい人に会えないのであれば、死後にも意識がある時点で、もう無限に生きていけるわけですので、会いたい人(魂)に会えるように頑張るのではないかなと思います。
そんな考え方ですね。
おっしゃる通りです、幾ら何を考えようと結局は分からない話ですものね
時として、「存在している」と考える事は現実逃避しているだけで本当は存在していない場合、生きている間中ずっと私は現実逃避し続ける事になり・・・そんな事ではいけないのではと思う時もあるのですが、感情と考えは違うものです
「今、この時を生き抜くにはよい」というお言葉に、なるほどと思いました
大切な家族が亡くなってから初めて「あの世」を考える様になりましたが、不思議な出来事も多々あり、きっと存在すると思っています
しかし、こういった事は理解ある人以外には話すものではありませんね
「そういう事を考える時期だ」としたり顔で諭されたり、「現実を見ろ」と尻を叩いてる風に言われたり・・・
非常に腹立たしく、もう人付き合いするのが嫌になっています
一つお伺いしたい事があるのですが、何の記事だったか「霊能者」?の方に見て頂いたことがあるという記事を目にしました
差支えなければ、その方を教えて頂けないでしょうか
その方でなくても構いません、そういった人を教えて頂けませんか
実際見て頂くかは分かりませんが、いつでも見て頂ける人がいると思うだけで楽なのです
こちら公に載せる訳にいかなければ、メールを非公開にてお知らせさせて頂くので教えて頂けないでしょうか
突然のコメント及び無茶なお願いをどうかお許し下さい
これからの人生、幸多くありますよう、心よりお祈り申し上げます
有難う御座いました
決算業務で、先日まで深夜まで仕事が続いていました。
私が見て頂いた方は、それ以来会っていないのですが、当時もかなりの高齢で存命しているかどうか・・・
存命されていても、私も紹介の紹介でして・・・大元は、議員さん(議員さんも、また他の議員さん等を通して)というのもあり・・・
申し訳ございません。
当時、私も「見てもらいたい」「亡くなった彼女の存在が分かる何かを感じ取りたい」という気持ちで会いましたが、その後は、色々なところから不思議な話を聞いたり、またスピリチュアルな書籍を読んで、真実は死後にハッキリする、どうもあの世(精神世界)は在りそうだと思うようになったところから、霊視してもらうことから離れていきました。
他にも色々と紹介を受けて見てもらった先もあります。その中には、この人は「怪しいな」と思う人もいましたし。
探求心と言いますか、当時、知りたい、明確に感じる何かを得たいと思う気持ちが強かったのですが、どこまで探し求めるのかという点においても、考えた時期があり、そしていわゆる霊視が出来るという方に会うことも無くなり、今に至っています。
そして、どうも見えない世界(精神世界)というのも在りそうだと感じ取れるところまでで良いかなと今は、そう思っています。
故人を偲ぶ、故人に想いを馳せるということは、大切なことだと今も思っています。
あとは、自分は、これからどう生きるのか、生き抜くのかですね。死後、精神世界があったときには、そんな世界があるくらいでしたら、きっと最愛の人と再会出来るはずです。
そう思って、現実の世界を生きることが、今は大事かなと考えています。
やなちゃさまのお気持ちや故人を感じ取りたい気持ちもよく分かります。私もそうでしたから。
そういう気持ちも、またそのように思う時を過ごすことも大切だと思います。
お互い幸多くありますように、ですね。
コメントありがとうございました。