マンション管理のお勉強日記+スピリチュアルなブログ:飯田史彦教授 江原啓之氏 坂本政道氏等の精神世界の書籍を読んで

先立った最愛の彼女といつか必ず逢いたい…彼女が枕元に置いて逝った江原啓之氏の書籍…Spiritualな世界の存在を信じて

栃木県那須烏山市 メグロの聖地へ行ってきました。

2023年12月17日 10時32分04秒 | □私の気ままな話
バイク好きの方なら、一度は訪れたいという那須烏山市にあります
山あげ会館前のメグロの看板と会館内に展示されているメグロを
見てきました。



戦中戦後、現在の栃木県那須烏山市の工場で生産されていた
伝説のオートバイ「メグロ」。

カワサキモータースが、そのメグロブランドを約半世紀ぶりに
復活させたことで注目を集めているそうです。





そのようなこともあって、かつて工場のあった那須烏山市では
市観光協会などが「メグロの聖地・那須烏山」をアピールして
います。



産経新聞2022.9.26
伝説のバイク「メグロ」のルーツ 栃木・那須烏山を〝聖地〟に

で大きく紹介されています。



ー抜粋ー

「伝説の名機」
メグロは大正13年に設立された「目黒製作所」の手掛けたオートバイ
のブランドで、かつては白バイとして警視庁に納入されるなど伝説の
名機とされる。

目黒製作所は大正13年に東京・品川区で創業。昭和3年に三輪車用の
変速機を初めて国産化した。それが軌道に乗ると、12年には初の
単気筒500ccオートバイ「メグロ号Z97型」を発売。走行性能に
優れ、故障が少ないとして人気を集めた。

看板は、このメグロブランドをカワサキモータースが復活させた第1弾
「MEGURO K3」のプロモーション用に制作したもの。市や
市観光協会が「メグロの聖地」プロジェクトへの協力を求め、無償で
提供を受けた。

山あげ会館内にも、目黒製作所烏山工場の歴史などを紹介した写真
パネルや当時工場で作業員が着ていたつなぎ、市民らが今も所有する
メグロのオートバイなどを展示するコーナーが設けられ、県内外から
多くのファンが訪れている。



「週末だけでなく、連日数十人のバイク愛好家らが訪れ、看板の前で
自分のオートバイと一緒に写真を撮ったり、展示しているメグロの
オートバイを眺めたりして楽しんでもらっている」といい、ファンの
間で認知が着実に広がっている。



wikipedia より
初めは「鈴木鉄工所」と称し、大日本帝国海軍軍人だった鈴木高次が
1925年に設立、村田延治が後に参加した。1926年から「目黒製作所」を
名乗るようになった。

株式会社となったのは1939年である。 1924年に東急目黒線不動前駅
近くで創業、太平洋戦争の被災を避けるため1944年に栃木県那須郡
烏山町(現・那須烏山市)に工場を移した。

初め、自動車修理とオートバイ(トライアンフ)の部品製作を行い、
1932年にエンジンの製作を開始、1937年、最初のメグロ号・Z97を発売し
好成績を残した(4ストローク、単気筒、OHV、500 cc)。

第二次世界大戦の激化とともにオートバイ事業は中断、航空機の部品を
製作するようになった。

戦後は再びオートバイ事業に戻り、最盛期の1959年には市場での人気を
得た「メグロ・S3」など250ccシリーズと、500cc「メグロ・Z7(500cc単気筒)
の好業績により年間15000台のオートバイを生産し、第2回の全日本オートバイ
耐久ロードレース(通称浅間火山レース)セニアクラスでメグロRZが1位、
2位、4位、5位を独占するなど活躍したが、メグロ・セニアT1(650ccバーチカルツイン)
などの大型車を得意としていたことから小型車ブームに乗ることができず、
ホンダ等の戦後派メーカーに押され業績が悪化した。

1960年に川崎航空機工業と提携したものの業績は上向かず、1963年には
傘下となって「カワサキメグロ製作所」と改名、1964年には事実上の経営破綻となり、
川崎航空機工業に吸収されこれで戦前からのオートバイメーカーは全て消滅
することとなった。

メグロの伝統はカワサキ車に受け継がれ、Kが後の名車「カワサキ 650W1」
(通称ダブワン)の原型となり、更に後年のカワサキ W650、W400、W800
にまで影響を及ぼしている。メグロが開発したロータリー・チェンジ式4速足動
ミッションは現在でも多くのビジネスバイクで採用されている。

・・・



ホンダやスズキというバイクメーカーよりも以前にバイクを作っていた会社が
あった。しかも性能もよく、日本のバイク作りの起点とも言える場所(工場)が
那須烏山市にあったということを知り感動しました。


鈴木高次さん、村田延治さんですが、
もともと二人は村田鉄工所という会社でエンジンなどを造っていたそうです。

その村田鉄工所は、勝海舟の孫である勝精(かつ くわし)さんの出資で設立
された会社なのだそうです。

辿って行くと勝海舟が出てくるのですね。

さらに驚いたことに・・・

勝精(かつ くわし)さんですが、調べてみますと旧姓は徳川でして、精さんは
勝海舟の嫡男の勝小鹿(早世しています)の娘である伊代子の婿として勝家に
入ったそうです。

この勝精さん、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜(一橋慶喜)の十男なのだそうです。
(爵位:伯爵)

明治24年2月14日に徳川慶喜は精の養子入りを承諾したそうです。
旧将軍家から養子をもらうなんて、勝海舟って当時相当凄い人物だったのですね。
(爵位を持っていて伯爵です)

勝海舟ですが、息子の勝小鹿が早世したため慶喜の子を孫娘の婿養子に迎えて
伯爵の家督を譲ろうと考えたという記録が残っているそうです。
徳川慶喜(一橋慶喜)の子(十男)であっても「伯爵」の爵位をもらうのは難しかった
のでしょうか?
五爵の「公・侯・伯・子・男(こう・こう・はく・し・だん)」ですよね。
分かりませんが・・・そもそも、爵位なんて引き継げるものなのでしょうかね。
「伯爵の家督を譲る」
この辺り、何だか俗っぽい考えが垣間見えて、勝海舟もそんなことを考えたり
していたんだ・・・と思いました。

・・・

勝精さんが村田鉄工所を屋敷内に設け1923年(大正12年)に1000ccの排気量を
持つ国産オートバイ「ヂャイアント号」を製作させたのだそうです。
ここで村田鉄工所が出てきます。

なお、この勝精さんがバイクに興味を持ったきっかけとなったのは当時発売された
ばかりのハーレーダビッドソンだったそうです。

・・・

徳川慶喜、勝海舟、ハーレーダビッドソン。そして、行き着いた先が「メグロ」
なんですね。調べてみますと、とても驚きの系譜と歴史でした。
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