
「息をすうのをやめて、体から離れました。」
「死」という現象は、死んでいく本人にとって、いったいどのような感覚として
実感されるものなのか。「死」の記憶について、死んだ本人の口から直接聞くなど
ということは、数十年前までは夢物語にすぎなかった。
しかし、飯田史彦教授は「現代科学では、医療分野で発達してきた『退行催眠』と
いう技法によって、以前の人生で死んだ時の記憶を蘇らせることが可能になって
います。」と述べています。
退行催眠とは・・・
深い催眠状態へと導くことにより、ふだんは思い出すことのできない潜在意識の
中に収めてあった記憶を蘇らせ、心の原因を明らかにして治療する方法。
そして、飯田史彦教授は、その思い出す記憶には、胎児の中に宿る前に、自分が肉
体を持たない「意識体」として覚醒していた(つまり、生まれる前にも意識体とし
て生きていた)という記憶が含まれていると述べられています。
「新版 生きがいの創造」PHPにも同様の証言を取り上げていますが、
単に、精神世界のことやスピリチュアルについて、また生まれ変わりなどを学ぶだ
けでなく、
「どのような考え方をもって生きることが、より価値のある生き方ができるのか」
という、自分自身のこれからの人生を考えていく上でのバイブルを求めておられる
方に、お薦めしたい書籍が、
飯田史彦教授 著「人生の価値」PHP文庫 です。
お安い(700円税込)ですし、ちょっとセカンドバッグに入れて、時間のあるときに
でも・・・という感じで持ち歩きも出来ますので。
飯田教授の意図(生まれ変わりの研究をした書籍ではない)するところから離れて
しまうでしょうけど、私は本書の中で数多く取り上げられているスピリチュアルな
話にどうしても、意識が向きますので、その中での一例を取り上げたいと思います。
<数多くの証言より>
退行催眠で、前世での死ぬ瞬間を思い出した被験者の言葉から・・・
飯田史彦教授は、
「命が、体から抜けていくのが感じられた」という証言
↓
「『私たちの本質=命』にとって、『体』(肉体)というものが、『一定の期
間、そこに宿って入れておく入れ物にすぎない』」という事実を示していると
述べられています。
そして、
「つまり、私の本質は『肉体』ではなく、そこに宿っている『自分という意識』
なのだということを、たいへん素直な感覚で証言している。」と言っておられま
す。
「ただ、息をするのをやめて、体から離れました。突然、身が軽くなりました。」
という証言
↓
「さて、死んでから体を離れると、当然のことながら、もう肉体的な体を持たない
ため、この証言にあるように、『身が軽くなって、自由』になり、肉体の方の痛み
も感じなくなっています。」
そして、飯田教授は、
「自分が『光』に包まれていることに気づいていきますが、ここでいう『光』
は、私たちが普段用いる『光』の概念とは同じ意味ではありません。」
「催眠を受けることによって、出会う『光』は・・・『ただそこに満ちている
光』であったり、『どこかの方向から射すのではなく、何もない暗闇に、突然
ぱっと現れる光』であったりするのです。」と、被験者の体験をもとに語って
おられます。
死後に現れる「光」というのは、私たちが、この物質世界の現象として知っている
『光』とは別もので、私たちの知っている言葉や概念では、なかなか表現できない
ため、そのうちでももっとも近いものとして、それを「光」と呼んでいますと
おっしゃっています。
もっと、詳細な「死ぬ瞬間」を証言から探し、飯田教授の言葉を借りますと・・・
証言から、
「私たちは、自分の肉体的な死を経験したあと、『意識体』として自分の体から
離れ、どこへでも自由に、しかも瞬時に移動できるようになります。」
(2006年に出版された「『ツインソウル』死に行く私が体験した奇跡」に
じかに飯田史彦教授が死にかけて体験した「移動⇒すべてに繋がっている」を
説明していますので、ご一読ください。)
たいていの場合は、「自分の死を看取ってくれる人々の姿を見て、自分の通夜や
葬式を、参列者と一緒に経験します。」
のだそうです。
その時には「『自分の遺体がある部屋の天井あたりから見下ろしている』という
証言が多く、天井のない場所で死んだ場合には、おおよそ三メートルくらい
上空に浮かんでいることが多いようです。」と言っておられます。
(ただし、これは被験者の感覚的表現なので、正確な数値だとは思えません。と
しています。)
ここで、飯田史彦教授は、次のような提言をされています。
「自分の通夜や葬式は、このようにしてほしい」という遺言を口頭でもメモでも
かまわないので、ぜひとも家族たちに言い残しておいてほしい。
そうです。
それは、なぜか・・・
「残した家族たちに、『愛する故人のために、その人が死んだあとも、して
あげられることがある』という、心理的な『救い』を与えることができるのです。」
「死がつらい理由のひとつは、『もう愛する人のために、何もしてあげられること
がない』という無力感です。したがって、故人が『自分の死後はこうしてほしい』
と指示をしておいてくれれば、その人の死後にも希望をかなえてあげることができ
るため、その行為が、残された家族の大きな喜びとなるのです。」と飯田史彦教授
はおっしゃっています。
なるほど、そういう見方や考え方がありましたか。
自分のためではなく、この世に残す家族のためですか。
「しばらく、あたりをさまよっていました。」
飯田史彦教授は、
「面白いことに、私たちは、自分の通夜や葬式を見下ろしながら、かなり冷静な
気持ちで観察することができるようです。」
「死の瞬間には、自分が肉体から離れて上空に浮かんでいることに気づくと同時
に、それにもかかわらず、『自意識として覚醒している』という感覚があること
に驚きます。」
「なぜなら『自分は死んだはずなのに、まだ生きている』という現象を体験するこ
とになるとは、死ぬ前には予想していなかったからです。」
なるほど・・・
まさに、他の書籍(体脱体験や霊視、霊を通しての語りなど)とこれら被験者の
証言とは同様であり、「真実は1つ」だなと思いますよね。
しかし、やがては、
「な~んだ、死ぬということは、体から離れて生きるということにすぎないんだ
な」と、死という現象が「通過点」であることに気づいていくのだそうです。
飯田史彦教授は、さらに素晴らしい証言の報告をしてくれています。
<先立っていた、友人たちのところへ>
私たちは、本来の「意識体」の姿に戻ったあと・・・
「トランスパーソナルな状態になるからこそ、さまざまな体験を味わいます。」
証言より、
「人生を終えたあとには『すでに先立っていた人々の意識体とコミュニケーショ
ンをとり、その人生での人間関係の秘密を理解して互いに許し合う」という、
一種の儀式のような過程が待っているようです。」とおっしゃっておられます。
「このような証言は実に多いので、人生で出会う人々は、親友も宿敵もみな、
深い理由にもとづき必然性があって出会っているのだということがわかります。」
その仕組みについては・・・
本書「人生の価値」を是非ともご一読ください。
とにかく、「証言」と、それに対しての「先生のコメント」がふんだんに記されて
います。400頁近くありますから。
<人生を終えてから>
人生を終えてから体を離れ、まる裸の状態、つまり「意識体」の姿に戻った私たち
の多くは・・・
「家族や知人のもとへ瞬時に移動し、可能ならばコミュニケーションをとろうと
します。」と飯田史彦教授はおっしゃっています。
「物質世界に残していく愛する人々のそばにいて、何らかの形でメッセージを
送ったり、守ってあげようとするようです。」
そこで、エリザベス・キューブラ・ロス博士の説明を取り上げています。
エリザベス・キューブラ・ロス博士が聞いた催眠状態で記憶を思い出した人々の
証言から・・・
死を自覚したあと、娘を生前に充分に愛してやらなかった自分の過ちに気づき、
『今からでも飛んでいって謝ろう』と思っていること取り上げて、
「人生を終えてから初めて『愛』の大切さに気づく人が多く、充分に愛してあげ
られなかった人に対する罪悪感から、罪ほろぼしの意味も込めて、その人の
人生を見守ろうとすることが少なくない」ようですと、飯田史彦教授は語っておら
れます。
なかには・・・
「あいつを置いて行くのはつらい」と一転して冷静さを失ったりする場合もある
と言っています。
そのときの故人の心境というのは、
「私たちは、自分の死そのものについては『仕方のないこと』『当然のこと』
『予定通りのこと』として冷静に受け止めます。しかし、自分の死が、残して
いく家族に与える悲しみや苦しみについては、必ずしも平然と受け流すことは
できないようです。」と述べておられます。
・・・
だから、あまりにも故人を想い泣き続けるのは、よくない・・・のですね。
精神世界に帰った意識体は、感情そのままとなるので、こちらが故人を悲しま
せたりしないようにしないといけない・・・ということに繋がるのでしょう。
他にも数多くの証言があります。
ご一読をお薦めします。見えない世界がきっと見えてきますよ。
「死」という現象は、死んでいく本人にとって、いったいどのような感覚として
実感されるものなのか。「死」の記憶について、死んだ本人の口から直接聞くなど
ということは、数十年前までは夢物語にすぎなかった。
しかし、飯田史彦教授は「現代科学では、医療分野で発達してきた『退行催眠』と
いう技法によって、以前の人生で死んだ時の記憶を蘇らせることが可能になって
います。」と述べています。
退行催眠とは・・・
深い催眠状態へと導くことにより、ふだんは思い出すことのできない潜在意識の
中に収めてあった記憶を蘇らせ、心の原因を明らかにして治療する方法。
そして、飯田史彦教授は、その思い出す記憶には、胎児の中に宿る前に、自分が肉
体を持たない「意識体」として覚醒していた(つまり、生まれる前にも意識体とし
て生きていた)という記憶が含まれていると述べられています。
「新版 生きがいの創造」PHPにも同様の証言を取り上げていますが、
単に、精神世界のことやスピリチュアルについて、また生まれ変わりなどを学ぶだ
けでなく、
「どのような考え方をもって生きることが、より価値のある生き方ができるのか」
という、自分自身のこれからの人生を考えていく上でのバイブルを求めておられる
方に、お薦めしたい書籍が、
飯田史彦教授 著「人生の価値」PHP文庫 です。
お安い(700円税込)ですし、ちょっとセカンドバッグに入れて、時間のあるときに
でも・・・という感じで持ち歩きも出来ますので。
飯田教授の意図(生まれ変わりの研究をした書籍ではない)するところから離れて
しまうでしょうけど、私は本書の中で数多く取り上げられているスピリチュアルな
話にどうしても、意識が向きますので、その中での一例を取り上げたいと思います。
<数多くの証言より>
退行催眠で、前世での死ぬ瞬間を思い出した被験者の言葉から・・・
飯田史彦教授は、
「命が、体から抜けていくのが感じられた」という証言
↓
「『私たちの本質=命』にとって、『体』(肉体)というものが、『一定の期
間、そこに宿って入れておく入れ物にすぎない』」という事実を示していると
述べられています。
そして、
「つまり、私の本質は『肉体』ではなく、そこに宿っている『自分という意識』
なのだということを、たいへん素直な感覚で証言している。」と言っておられま
す。
「ただ、息をするのをやめて、体から離れました。突然、身が軽くなりました。」
という証言
↓
「さて、死んでから体を離れると、当然のことながら、もう肉体的な体を持たない
ため、この証言にあるように、『身が軽くなって、自由』になり、肉体の方の痛み
も感じなくなっています。」
そして、飯田教授は、
「自分が『光』に包まれていることに気づいていきますが、ここでいう『光』
は、私たちが普段用いる『光』の概念とは同じ意味ではありません。」
「催眠を受けることによって、出会う『光』は・・・『ただそこに満ちている
光』であったり、『どこかの方向から射すのではなく、何もない暗闇に、突然
ぱっと現れる光』であったりするのです。」と、被験者の体験をもとに語って
おられます。
死後に現れる「光」というのは、私たちが、この物質世界の現象として知っている
『光』とは別もので、私たちの知っている言葉や概念では、なかなか表現できない
ため、そのうちでももっとも近いものとして、それを「光」と呼んでいますと
おっしゃっています。
もっと、詳細な「死ぬ瞬間」を証言から探し、飯田教授の言葉を借りますと・・・
証言から、
「私たちは、自分の肉体的な死を経験したあと、『意識体』として自分の体から
離れ、どこへでも自由に、しかも瞬時に移動できるようになります。」
(2006年に出版された「『ツインソウル』死に行く私が体験した奇跡」に
じかに飯田史彦教授が死にかけて体験した「移動⇒すべてに繋がっている」を
説明していますので、ご一読ください。)
たいていの場合は、「自分の死を看取ってくれる人々の姿を見て、自分の通夜や
葬式を、参列者と一緒に経験します。」
のだそうです。
その時には「『自分の遺体がある部屋の天井あたりから見下ろしている』という
証言が多く、天井のない場所で死んだ場合には、おおよそ三メートルくらい
上空に浮かんでいることが多いようです。」と言っておられます。
(ただし、これは被験者の感覚的表現なので、正確な数値だとは思えません。と
しています。)
ここで、飯田史彦教授は、次のような提言をされています。
「自分の通夜や葬式は、このようにしてほしい」という遺言を口頭でもメモでも
かまわないので、ぜひとも家族たちに言い残しておいてほしい。
そうです。
それは、なぜか・・・
「残した家族たちに、『愛する故人のために、その人が死んだあとも、して
あげられることがある』という、心理的な『救い』を与えることができるのです。」
「死がつらい理由のひとつは、『もう愛する人のために、何もしてあげられること
がない』という無力感です。したがって、故人が『自分の死後はこうしてほしい』
と指示をしておいてくれれば、その人の死後にも希望をかなえてあげることができ
るため、その行為が、残された家族の大きな喜びとなるのです。」と飯田史彦教授
はおっしゃっています。
なるほど、そういう見方や考え方がありましたか。
自分のためではなく、この世に残す家族のためですか。
「しばらく、あたりをさまよっていました。」
飯田史彦教授は、
「面白いことに、私たちは、自分の通夜や葬式を見下ろしながら、かなり冷静な
気持ちで観察することができるようです。」
「死の瞬間には、自分が肉体から離れて上空に浮かんでいることに気づくと同時
に、それにもかかわらず、『自意識として覚醒している』という感覚があること
に驚きます。」
「なぜなら『自分は死んだはずなのに、まだ生きている』という現象を体験するこ
とになるとは、死ぬ前には予想していなかったからです。」
なるほど・・・
まさに、他の書籍(体脱体験や霊視、霊を通しての語りなど)とこれら被験者の
証言とは同様であり、「真実は1つ」だなと思いますよね。
しかし、やがては、
「な~んだ、死ぬということは、体から離れて生きるということにすぎないんだ
な」と、死という現象が「通過点」であることに気づいていくのだそうです。
飯田史彦教授は、さらに素晴らしい証言の報告をしてくれています。
<先立っていた、友人たちのところへ>
私たちは、本来の「意識体」の姿に戻ったあと・・・
「トランスパーソナルな状態になるからこそ、さまざまな体験を味わいます。」
証言より、
「人生を終えたあとには『すでに先立っていた人々の意識体とコミュニケーショ
ンをとり、その人生での人間関係の秘密を理解して互いに許し合う」という、
一種の儀式のような過程が待っているようです。」とおっしゃっておられます。
「このような証言は実に多いので、人生で出会う人々は、親友も宿敵もみな、
深い理由にもとづき必然性があって出会っているのだということがわかります。」
その仕組みについては・・・
本書「人生の価値」を是非ともご一読ください。
とにかく、「証言」と、それに対しての「先生のコメント」がふんだんに記されて
います。400頁近くありますから。
<人生を終えてから>
人生を終えてから体を離れ、まる裸の状態、つまり「意識体」の姿に戻った私たち
の多くは・・・
「家族や知人のもとへ瞬時に移動し、可能ならばコミュニケーションをとろうと
します。」と飯田史彦教授はおっしゃっています。
「物質世界に残していく愛する人々のそばにいて、何らかの形でメッセージを
送ったり、守ってあげようとするようです。」
そこで、エリザベス・キューブラ・ロス博士の説明を取り上げています。
エリザベス・キューブラ・ロス博士が聞いた催眠状態で記憶を思い出した人々の
証言から・・・
死を自覚したあと、娘を生前に充分に愛してやらなかった自分の過ちに気づき、
『今からでも飛んでいって謝ろう』と思っていること取り上げて、
「人生を終えてから初めて『愛』の大切さに気づく人が多く、充分に愛してあげ
られなかった人に対する罪悪感から、罪ほろぼしの意味も込めて、その人の
人生を見守ろうとすることが少なくない」ようですと、飯田史彦教授は語っておら
れます。
なかには・・・
「あいつを置いて行くのはつらい」と一転して冷静さを失ったりする場合もある
と言っています。
そのときの故人の心境というのは、
「私たちは、自分の死そのものについては『仕方のないこと』『当然のこと』
『予定通りのこと』として冷静に受け止めます。しかし、自分の死が、残して
いく家族に与える悲しみや苦しみについては、必ずしも平然と受け流すことは
できないようです。」と述べておられます。
・・・
だから、あまりにも故人を想い泣き続けるのは、よくない・・・のですね。
精神世界に帰った意識体は、感情そのままとなるので、こちらが故人を悲しま
せたりしないようにしないといけない・・・ということに繋がるのでしょう。
他にも数多くの証言があります。
ご一読をお薦めします。見えない世界がきっと見えてきますよ。
月末月初、仕事(経理と勤労業務)に追われていました。ご返信が遅くなってすみません。
最愛のご主人様を病気で亡くされたとのこと、心からお悔やみ申し上げます。
生前には色々なこと(離婚しようかとも考えた)があったとしても、ふと、今まで一緒にいた人がいなくなるととても寂しく感じるものですよね。
ですが、最後まで寄り添って看取ってあげたことで、お二人、お互いにとってとても大切な時間を一緒に過ごせてよかったのではないでしょうか。
結婚は何度か可能ですが、死別、最愛の人を見送ることは1度しかありませんから。
不思議なことってありますよね。特に亡くなられてから、それほど月日が経っていないときに「えっ?」と思うことがよく起きます。
多くの方の不思議な体験を見聞きしてもそうですが、突然普段のときのように呼ばれたり、電話もそうですが、電気が点いたりと説明がつかないことが起こるように思います。
私は霊感は無いので視えたりはしませんが、気配とか突然何かが起こったりというのは、彼女の死後よくありました。
長らく同じ植え込みの場所にいたトンボを見たあと不思議な夢を見たようですが、その夢の中でずっと
横にいて(当然主人と思っていて)、初めて(改めて?今まで当然傍にいるのはご主人と思って一緒に片付けしたり駅まで送っていったりしてて)顔を見たら知らない顔だったというのは、何とも?不思議ですね。
私は、死後には見えない世界があると思って、今この生かされている間はを生き抜くようにと意識して生活しています。
また、正直、死ぬのは怖いです。苦しいのも嫌です。ですので「よく亡き彼女は生死の境の壁を越えていったなぁ」と思うことがあります。
いつか必ず皆、向こうの世界に行く時が来ます。
ですが、先に逝って待っていてくれている人がいる、最愛の人にまた逢えると思うと、自分が死を迎えるときに少しは心安らぐように思います。
どこか楽しみが待っているかのように。
ですので、こちらの世界に居る間は、死生観を持って現実社会を生きながら、そしてたまには故人を偲びながら生き抜くのが良いように思います。
コメントありがとうございました。またお気軽にお立ち寄りください。
1,その後府市日な夢を見たのです→不思議な夢を見たのです
2,一旦変えるから→一旦帰るから です。
それは、亡くなって家に連れて来て寝かせてあったんですが、家の外回りの片づけをしてる時、いつもと変わらない大きな声で家の中から名前を呼ばれて、思わずは~い!って言った途端(あれ?)ってなったのです。又火葬を終えて帰って来てバタバタしてる時、家の電話が2回鳴り切れました。使わないので誰にも言ってない電話です。
又、家の軒先に真っ黒の細いトンボが3週間の間植え込みでジッとしていました。その後府市日な夢を見たのです。主人が単身赴任で遠くに行ってると言う事で(淋しくてたまらないから一緒に住みたい)と言うので、二人で片づけをしていましたが、私の衣類が多くて片付かないので、一旦変えるから片付け済んだら来なさいと言われて駅まで送っていきました。それまではずっと横にいたのですがその時初めて顔を見たのですが知らない顔の人だったので、夢の意味がさっぱり分からないでいます。単なる夢にしてはとてもリアルな印象でした。今年もトンボが来て長々いましたが、別のトンボです。
まさに娘さまですね。読んでいまして、とても感動しました。
確かに娘さまのお亡くなりになられたお姿を見る母親のお気持ちは、想像を絶するものだとお察しいたします。とても、言葉になどは出来ないものだと思います。
ただ、やはり娘さまの心(魂)は生き続け、そして死後も生きていることを知り、さくらさまに謝り続けている娘さまは、きっと成仏されることと思います。しかし、今は、ピアノのそばに居てもらってください。娘さまも、しばらくはそうして居たいのだと思いますし。
しかし、素晴らしい娘さまです。
死後に、心(魂)は生きていることに気づき、そして、自身を苦しめた人を責めない、大げさにしないというところは、今までのご教育の賜物だと思いました。
故人の存在を確認する(確認できる)
これは、こちらの世界で生きている遺された遺族にとって、とても大きな心の助けになることと思います。
私の亡き彼女も、当初は「放っておいて」と見て頂いた方に言い返すくらい傍に居てくれました。
すでにお母さまに謝っている時点で、もうこの世とあの世との仕組み、繋がりを知り、また心(魂)は生き続けることを悟った娘さまは、心の中では成仏されています。あとは、お母さまとご家族と離れて行くのに未練があり、辛いのでしょうね。それは、それで、また娘さまの修業の一つだと、私は思います。
ただ、そのうちに、「いつかは、お母さんも、そして家族みんな、私の居る世界に来る」ということで納得できるときが来ますから、そうなると、またあちらの世界で歩み出されることと思います。
むこうの世界は、時間の感覚がありませんからね。
さくらさまがおっしゃるとおりです。こちらが前へ向いて行くことこそ、娘さまの心を落ち着かせる、悟らせること、ご供養になることと思います。
しかし、気丈に振舞えるときとそうでないときとがありますよね。。。そこは、今そばに居る娘さまにそのままのお気持ちで話しかけることがよいかと思います。それも、娘さまの試練だと思うからです。娘さまを産んだお母さまの気持ち、先立たれ遺された母の気持ち、これは娘さまには辛いことと思いますが、娘さまも受け止めるべき試練だと思います。
「ちょっとお母さんの気持ちも聞いて」と話しかけることも大切と、私は思います。
あと、是非娘さまにして差し上げてほしいことがあります。それは、「あの世の仕組みを話しかける」ことです。死後、見えない存在でも心(魂)は生きていることに気づいた娘さま。しかし、今いる世界は、いわゆる、幽現界(この世に見えない状態で居る)ような感じですので、その先には、色々なあの世の階層のようなものがあるようだということを、「導く」という意味も含めて話してあげてはいかがでしょうか。
呼び名は色々ですが、死後に身体を離れたあと、幽体を持っている間では、このような世界(幽界)があり、そのうち、霊界へ行き、その先には光の世界(神界)のようになっているようだとも教えてあげることも、娘さまを導き守ることの一つかと思います。
私は、亡き彼女には「たぶん・・・」「違うところもあるだろうけど・・・」と言いつつ、スピリチュアルな書籍を読んで知ったことは、どんどん、こうかも知れないよ、こうなっているかもと寝る前にベッドの中から語りかけていました。それが、そのとき、私が亡き彼女自身に唯一できることだと感じたからです。
私が変わっているかも知れませんね。
しかし、生前も自分が欲しいものを買い喜ぶよりも、亡き彼女が欲しいものを買ってあげて、その喜んでいる姿を見ることが、私の喜びでした。
出かけるときも、彼女が行きたいというところへ行き、そこで楽しそうにしている姿を見ると、こちらもそれで楽しかったです。
ですから、こちらから故人に対して出来ることは、そのうちに故人も自然と知るのでしょうけど、あの世の仕組みを教えてあげることかなぁと思うのです。
・・・
さくらさまも、お辛い思いをされましたが、
「娘から 上から ほらあれが私のお母さんって 自慢してもらえる生き方をしていこう」というお気持ちを持てたことは、本当に素晴らしいことだと思います。生きている側が故人を想うことによって悟る、まさにこれぞ悟りの境地だと感じました。
娘さまは、お母さんを遺してこの世を去った分、必ず間違いなく、さくらさまが娘さまを思ったときには、どれだけこちらの月日が経っていても、真っ先に駆けつけることと思います。親子の絆は深いものですから。
普段の日常は、生きている者の営みによって動いています。故人へのお手本になるように生き抜いていきましょうね。
お互いに生き抜き、お迎えがきたときには、最愛の故人に胸を張って逢いましょう。
コメントありがとうございました。またお気軽にお立ち寄りください。
私もさくらさま(の娘さま)から、学ばせて頂いたように思います。
それは、色々なスピリチュアルな書籍を読んでいましたら、必ず「自殺はいけない」「自ら命を絶つ=また辛いやり直しの生まれ変わりがある」等のことを書いていますので、そこから自殺については、自殺をされた方や自殺をしようとしている方の気持ちを考えるよりも先に自殺する自体、自殺を考えること自体、自殺をしたことに対して、厳しい目で見ていた面がありました。
確かに、自らの命を絶つという行為は、いけないことだと思います。しかし、では「なぜ、その方は(さくらさまの娘様は)、自ら命を絶ってしまったのか」「そこまで追い詰めたものは何だったのか」、「自ら死を選ばざるを得なかった娘さまだけが責められることなのか」と深く感じました。
看護師を目指されていた娘さまが、なぜ死を選んだのか。何事も無く学生生活を送れていれば、死ぬはずがない。娘さまが、死を選んだわけを、しっかりと理解してあげなくてはいけないと思います。
原因となった指導教員個人を責める云々というお気持ちは、どうしても消せるものではないと思います。私は、娘さまの成仏のために、指導教員を許せるかと、自分自身がさくらさまのお立場になったとき・・・やはり、許せません。
しかし、何が原因で、どういう想いで娘さまが命を絶ってしまったのかをさくらさまが知ることで、そして、娘さまの自殺直前の思いを分かってあげることで、娘さまは成仏されることと思います。
「お母さん、分かってくれてありがとう、もういいよ」と。
恨む相手(指導教員)を許す心は、正直、私もさくらさまのお立場だったなら、心底からはできません。しかし、最愛の娘さまの想いを理解してあげることは、出来ることと思います。
「死んじゃ、お母さんも寂しいよ」「死なないで欲しかった」でも「あなたの想いは、お母さんも分かったよ」との思いが、娘さまの成仏を手助けすることと感じます。
飯田先生も多忙でしょうから、なかなかご連絡がつかないことと思います。
ただ、色々な書籍にも書いてありますが、はやり「故人を想う」「念(気持ち)を送る」ということで、最愛の娘さまには十分に母の想いというものが伝わっていることと思います。不思議な現象(何かの存在を感じる)も、やはり、故人が近くに来ているからだと思いますし。
私は、亡き彼女は、もうあの世の仕組みというものを分かり、あちらの世界で彼女なりに過ごしていると思っています。それは、死後2年くらい経った頃でしょうか、近くから気配のようなものは無くなりましたので。遺された者が「悟る」ことで、また故人も「悟る」ものだと思います。完全には、私自身も悟れていませんが、スピリチュアルな書籍を読み、あの世の仕組みを知ったことで、あとは自らの寿命にて逝くべき時が来た際に、「自らあの世を経験(魂で体験)する」こと、「あぁ、こういう世界の繋がり(この世とあの世、表と裏)だったのか」を知り、そこで完全に悟るものだろうなぁと思っています。
さくらさまは、娘さまのためにもお辛いでしょうけど生き抜き、そして一番最短の道にて、最愛の娘さまに再会しましょうね。
コメントありがとうございました。
またお気軽にお立ち寄りください。
そこまで娘さまを追い詰めた教員の仕打ちというのはとても許容できる範囲ではない、さくらさまご自身を責めることではない、ましてや娘さまが思っていた面もある「退学したら、お父さんから冷たい扱いを受ける・・・」という思いをもっていた娘さまや、そう思わせた父親にもどこかいけないところが・・・という話ではないように強く感じました。
今まで、大切に、大切に、育ててこられた娘様の死は、私のような者では到底、お言葉をお返しすることは。。。できず、申し訳ございません。
娘様の辛く悲しい思いは、ご本人以外、分かることができるものではないと思います。
さくらさま、娘さまが自ら命を絶ったこと、そしてその原因が大学の先生にあることを踏まえて、飯田史彦先生をお頼りされたほうがよろしいかと存じます。
飯田先生自身、福島大学の教授をされていた方ですし。多忙な方とは思いますが、さkyらさま(お母さま)の、この投稿文を読みまして、自らの死によって、娘さまご自身も死後とても迷われているように感じました。
・・・
飯田先生の生きがいの創造Ⅱを読み、(大変失礼ではありますが)自殺された方の死後の思いや、そして死後も生きていることを、とても分かり易く、そして「そうなのだ」と強く感じました。
娘さま、娘さまの心(魂)は、必ず、目には見えなくても、存在しており、そしてさくらさまの元に居ると思いますので、さくらさまが精神的に病んでしまわれる前に、一度、飯田先生にご相談されることが懸命かと存じます。
娘さまの安らかなる旅立ちを心からお祈りいたします。