江原啓之氏だけではありませんが、「故人に追いすがるのは良くない」と世間で
も、そう言われてますよね。
福島大学の飯田史彦教授は、亡くなったとき、故人を偲び思う感情や未来に向いた
涙であれば、泣いても構わないとおっしゃっておられます。
ただ、やはり私たち(私)は「悲しい」「寂しい」といった故人に追いすがる気持
ちを振り払うことが、なかなか出来ず、月日が経っています。
江原啓之氏は、
「故人の仏壇やお墓に向って『早く浄化してね』と泣きながらお願いする人が
よくいます。」
「けれど、泣きながらそう言ったところで、その願いは伝わりません。」
「相手には『浄化してね』という気持ちが届く前に、悲しみの念ばかりが伝わっ
てしまいます。」と述べています。
・・・
この様な成仏の祈り方をしてしまっていませんか?
私は・・・まさにそうです。
江原啓之氏は、著書「いのちがあぶない!」集英社でそのように指摘しています。
「故人は、浄化するどころか、この世に足をひっぱられてしまいます。」
「あなた自身がいつまでも泣いていながら、故人にばかり浄化を願うのは矛盾
しているのです。」
分かっているんですけど、なかなか変えられないんです・・・
彼女の書いた手紙、彼女の使っていたもの、彼女の読んでいた本、
彼女宛に届くファッションカタログ・・・
見るたびに涙が出ます。
落ち着いたところで、「ハクリキ」と書いた薄力粉を入れた袋が出てくると、
また涙・・・
何で死んでしまったのか、と思ってしまうんです。
・・・
-江原啓之氏からの「言葉」-
江原啓之氏は、
「私はよく言います。『まずあなた自身が成仏してください。そうでないと
供養なんてできませんよ。』と」
「死んでしまったからには、あきらめるしかないのです。」←厳しい言葉・・・です。
「『なぜ死んでしまったの?』『どうやって生きていったらいいの?』と聞いて
も答えは返りません。」
「未練を断つしかないのです。」
分かっているのですが、やはり厳しい言葉です。。。
「そして、いつか必ず再会できるのだという霊的真理を胸に、自分の人生を精
いっぱい生きていくべきなのです。」
と、江原啓之氏は語っています。
-いつか必ず再会できる。-
再会できる、いや出来ないというようなことが色々なホームページに書かれて
います。
色々な匿名の「あの世と対話ができる」「霊視できる」「あの世を見た」
というHPに。
「再会できる。」と「霊的世界、精神世界、あの世はあるが会えない。」
あなたはどちらの言葉を信じて生きていきますか?
再会できないと言う方の理由は、「あの世は無数の階層の世界」「心域が違うと
会えない」を上げています。
「あの世は存在するが会えない」と説く方も、最近では、正しいと思っています。
しかし、「まったくもって『正しい』」とは思っていません。
先立った彼女のいる「あの世」へ行く前に、この世で生きる私が悪行を積み重ね
て亡くなった際には、お互いが住む階層の高低が違いすぎて会えない、ないしは
会うにも、この世的にいうと「時間がかかる」と思います。
しかし、ごく普通に生き抜くだけで、私は「あの世で再会ができる」と確信して
います。
なぜ、確信しているのか。確信できるのか。
私のいう「普通」とはどの水準なのか。
それは、私の彼女が残した江原啓之氏の書籍と私が随分以前から導かれていた、
飯田史彦教授が書かれた書籍が「全ての基準」と信じているからです。
名前も住所も生き方も明かさない「霊媒師」なる者は、はっきり言って能力が
あろうが、どうであろうが「卑怯」です。
隠れて人助けをしようというのでしょうか。
そのような者の言葉を「神の言葉」のように信じなさいというのでしょうか。
「イカサマ」と思われても仕方がありません。
信じるものは救われると言われましても、何者かも分からない者の言葉を信じ
財産を捨てられる人など、よほどマインドコントロールされない限り、途中で
「んっ?おかしいな」と疑心暗鬼になるのは必定です。
-誠の方々-
たとえ有名人になった江原啓之氏でも、
また、国立大学の教官である飯田史彦教授でも、
坂本政道氏も、鈴木秀子教授も、
いくら有名でも、パッシングや批判はかなり多くあると思います。
しかし!自分を矢表に出し、「頭がおかしい」「危ない考えの人だ」
「なにか企んでいるのではないか」などの、冷たい世間の目にさらしつつも
それでも、私に「霊的真理」を伝えてくれた方々です。
会えないとか会うのが難しいという方は、
「お互いが内観して暮す階層が近ければ、会うことは可能である。」としています。
しかし、「会えない」可能性のほうが高いように言い、不安を煽るのは、霊的
真理を語るに相応しくない人物ではないのかと思っています。
それに、先だった人が会いに来る際、下の世界へ行くのは、その先だった人がせっ
かくあの世で霊性進化した霊格も下がるなどと語る者もいます。
「霊格が下がるので、会いに行かない」「会いにいけない」なんて、俗っぽい
心で、あの世の高次の世界に居られると思いますか?おかしな話です。
確かに、暗い世界へ助けに行くような「あの世での仕事」には、この世的にいう
リスクのようなものがあるように書いている書籍も見受けられます。
しかし、救いに行って、暗く波長の低い世界に囚われてしまった霊を、他の霊が
ほっておくと思いますか?
それこそ、この世の現世的な考えでのあの世の見方しか出来ていないと思います。
例えば、
亡き彼女は、人の心を傷つけることもほとんどなく、この世を去ったとしましよ
う。しかし、私は人を騙し、傷つけ、殺人までしたのちに、この世を去った場合、
これは私でも「会えないくらい、違う世界にいることになるだろうな」という
想像は容易につきます。
しかし、ほとんどの人は、ごく普通にこの世を生き、そして死んでいきます。
会えない、会うのが難しいという方は、
それでは「会えない領域に行ってしまう」ことになるのでしょうか?
仙人のような生活をするのが近道なのでしょうか?
仙人のように自給自足している人も、「都会は嫌だ。」「あんなことがあって
嫌気が差した」など、俗っぽい、それこそ「都会や人ごみに対して『不満』」
も少なからず心の奥底に持っていることでしょう。
私は、江原啓之氏や飯田史彦教授が語る
「生き抜くことに意味がある」という言葉が、
この世的に言うと、「±0」「上でもなく下でもなく」「高次の世界でもなく
暗い波長の低い世界でもなく」の基準であると考えています。
そして、この「高次の世界 ≧ ±0」である生き方をしたのちにこの世を去っ
たならば、きっと「必ず再会」できると思っています。
「人を苦しめた」「人を傷つけ続けた」「人を殺した」など
の者が行く世界との間には、確かに「乗り越えられない深淵」があるのは
色々な書籍の中でも共通して伝えられていることで、わかっています。
江原啓之氏「『必ず』再会できます。」
飯田史彦教授「『必ず』逢えます。」
私は、
この『必ず』までつけての言葉には、大変重要な意味があると思います。
なかなか『必ず』とか『絶対に』とは、言えません。
普通に愛や感動、経験をこの世で積んで
あの世に逝くことを指していると思っています。
「この世で、他人さんに迷惑を掛けず(迷惑を掛けても、悔やみ、反省し)、
様々な経験を積み、寿命まで生き抜く。」それで、それだけでも大したもん
なんですよ。
きっとそうです。
だから、絶対に死後、会いたかった先立った彼女とは「『必ず』逢える」んです。
も、そう言われてますよね。
福島大学の飯田史彦教授は、亡くなったとき、故人を偲び思う感情や未来に向いた
涙であれば、泣いても構わないとおっしゃっておられます。
ただ、やはり私たち(私)は「悲しい」「寂しい」といった故人に追いすがる気持
ちを振り払うことが、なかなか出来ず、月日が経っています。
江原啓之氏は、
「故人の仏壇やお墓に向って『早く浄化してね』と泣きながらお願いする人が
よくいます。」
「けれど、泣きながらそう言ったところで、その願いは伝わりません。」
「相手には『浄化してね』という気持ちが届く前に、悲しみの念ばかりが伝わっ
てしまいます。」と述べています。
・・・
この様な成仏の祈り方をしてしまっていませんか?
私は・・・まさにそうです。
江原啓之氏は、著書「いのちがあぶない!」集英社でそのように指摘しています。
「故人は、浄化するどころか、この世に足をひっぱられてしまいます。」
「あなた自身がいつまでも泣いていながら、故人にばかり浄化を願うのは矛盾
しているのです。」
分かっているんですけど、なかなか変えられないんです・・・
彼女の書いた手紙、彼女の使っていたもの、彼女の読んでいた本、
彼女宛に届くファッションカタログ・・・
見るたびに涙が出ます。
落ち着いたところで、「ハクリキ」と書いた薄力粉を入れた袋が出てくると、
また涙・・・
何で死んでしまったのか、と思ってしまうんです。
・・・
-江原啓之氏からの「言葉」-
江原啓之氏は、
「私はよく言います。『まずあなた自身が成仏してください。そうでないと
供養なんてできませんよ。』と」
「死んでしまったからには、あきらめるしかないのです。」←厳しい言葉・・・です。
「『なぜ死んでしまったの?』『どうやって生きていったらいいの?』と聞いて
も答えは返りません。」
「未練を断つしかないのです。」
分かっているのですが、やはり厳しい言葉です。。。
「そして、いつか必ず再会できるのだという霊的真理を胸に、自分の人生を精
いっぱい生きていくべきなのです。」
と、江原啓之氏は語っています。
-いつか必ず再会できる。-
再会できる、いや出来ないというようなことが色々なホームページに書かれて
います。
色々な匿名の「あの世と対話ができる」「霊視できる」「あの世を見た」
というHPに。
「再会できる。」と「霊的世界、精神世界、あの世はあるが会えない。」
あなたはどちらの言葉を信じて生きていきますか?
再会できないと言う方の理由は、「あの世は無数の階層の世界」「心域が違うと
会えない」を上げています。
「あの世は存在するが会えない」と説く方も、最近では、正しいと思っています。
しかし、「まったくもって『正しい』」とは思っていません。
先立った彼女のいる「あの世」へ行く前に、この世で生きる私が悪行を積み重ね
て亡くなった際には、お互いが住む階層の高低が違いすぎて会えない、ないしは
会うにも、この世的にいうと「時間がかかる」と思います。
しかし、ごく普通に生き抜くだけで、私は「あの世で再会ができる」と確信して
います。
なぜ、確信しているのか。確信できるのか。
私のいう「普通」とはどの水準なのか。
それは、私の彼女が残した江原啓之氏の書籍と私が随分以前から導かれていた、
飯田史彦教授が書かれた書籍が「全ての基準」と信じているからです。
名前も住所も生き方も明かさない「霊媒師」なる者は、はっきり言って能力が
あろうが、どうであろうが「卑怯」です。
隠れて人助けをしようというのでしょうか。
そのような者の言葉を「神の言葉」のように信じなさいというのでしょうか。
「イカサマ」と思われても仕方がありません。
信じるものは救われると言われましても、何者かも分からない者の言葉を信じ
財産を捨てられる人など、よほどマインドコントロールされない限り、途中で
「んっ?おかしいな」と疑心暗鬼になるのは必定です。
-誠の方々-
たとえ有名人になった江原啓之氏でも、
また、国立大学の教官である飯田史彦教授でも、
坂本政道氏も、鈴木秀子教授も、
いくら有名でも、パッシングや批判はかなり多くあると思います。
しかし!自分を矢表に出し、「頭がおかしい」「危ない考えの人だ」
「なにか企んでいるのではないか」などの、冷たい世間の目にさらしつつも
それでも、私に「霊的真理」を伝えてくれた方々です。
会えないとか会うのが難しいという方は、
「お互いが内観して暮す階層が近ければ、会うことは可能である。」としています。
しかし、「会えない」可能性のほうが高いように言い、不安を煽るのは、霊的
真理を語るに相応しくない人物ではないのかと思っています。
それに、先だった人が会いに来る際、下の世界へ行くのは、その先だった人がせっ
かくあの世で霊性進化した霊格も下がるなどと語る者もいます。
「霊格が下がるので、会いに行かない」「会いにいけない」なんて、俗っぽい
心で、あの世の高次の世界に居られると思いますか?おかしな話です。
確かに、暗い世界へ助けに行くような「あの世での仕事」には、この世的にいう
リスクのようなものがあるように書いている書籍も見受けられます。
しかし、救いに行って、暗く波長の低い世界に囚われてしまった霊を、他の霊が
ほっておくと思いますか?
それこそ、この世の現世的な考えでのあの世の見方しか出来ていないと思います。
例えば、
亡き彼女は、人の心を傷つけることもほとんどなく、この世を去ったとしましよ
う。しかし、私は人を騙し、傷つけ、殺人までしたのちに、この世を去った場合、
これは私でも「会えないくらい、違う世界にいることになるだろうな」という
想像は容易につきます。
しかし、ほとんどの人は、ごく普通にこの世を生き、そして死んでいきます。
会えない、会うのが難しいという方は、
それでは「会えない領域に行ってしまう」ことになるのでしょうか?
仙人のような生活をするのが近道なのでしょうか?
仙人のように自給自足している人も、「都会は嫌だ。」「あんなことがあって
嫌気が差した」など、俗っぽい、それこそ「都会や人ごみに対して『不満』」
も少なからず心の奥底に持っていることでしょう。
私は、江原啓之氏や飯田史彦教授が語る
「生き抜くことに意味がある」という言葉が、
この世的に言うと、「±0」「上でもなく下でもなく」「高次の世界でもなく
暗い波長の低い世界でもなく」の基準であると考えています。
そして、この「高次の世界 ≧ ±0」である生き方をしたのちにこの世を去っ
たならば、きっと「必ず再会」できると思っています。
「人を苦しめた」「人を傷つけ続けた」「人を殺した」など
の者が行く世界との間には、確かに「乗り越えられない深淵」があるのは
色々な書籍の中でも共通して伝えられていることで、わかっています。
江原啓之氏「『必ず』再会できます。」
飯田史彦教授「『必ず』逢えます。」
私は、
この『必ず』までつけての言葉には、大変重要な意味があると思います。
なかなか『必ず』とか『絶対に』とは、言えません。
普通に愛や感動、経験をこの世で積んで
あの世に逝くことを指していると思っています。
「この世で、他人さんに迷惑を掛けず(迷惑を掛けても、悔やみ、反省し)、
様々な経験を積み、寿命まで生き抜く。」それで、それだけでも大したもん
なんですよ。
きっとそうです。
だから、絶対に死後、会いたかった先立った彼女とは「『必ず』逢える」んです。
編み目の中をさまよいながら、ふとこのブログを見つけました。
全部読んだわけではないのでまだ分からないし、見当違いのコメントでしたら笑って無視して下さい。
愛する人を失われたそうですね。
心中お察しいたします。
私も14年前になりますが、当時付き合っていた彼女が事故で亡くなりました…。私の人生で一番辛い出来事でした。
もう生きていけないんじゃないか、死ぬしかないじゃないか、笑って過ごせる日など来ないんじゃないか、そう思う日々でした。
就職を控え、真剣に生きることだけを考えた時期でもありました。彼女は失いましたが、多くの方が私のことを支えてくれていることも知りました。
そんなことを経て今、14年経って今、私はまだ生きていることができています。世間に対し幾ばくかの恩返しもできているのではないか、と思っております。
あの後ちがう女性と結婚し、子供もでき、曲がりなりにも普通の家庭を築くこともできました。
何が言いたいか、と申しますと…。
頑張ってください。
辛いこともありましょう。泣きたいこともありましょう。辛くて辛くて生きていくことが辛いこともあるかも知れません。
でも…人は生きていく限り生き抜かなければならないんだと思います。
一文一文切なくなるほど胸を穿つ言葉です。
悲しみを知っている人は、人に優しくできる…。
心中お察しいたします。
QW様も、大変お辛い経験をされたのち、その辛さを乗りこえ、今は前向きに生きておられるその姿は、私も見習うべきと強く感じました。
・・・
まだまだ先立った彼女のことを想い出に変えるのは・・・正直、難しいです。いつまでも変わらないような・・・・と、今はそう思います。
今いる街やその周辺は、彼女と生前よく一緒に過ごした場所なので、仕事中に車で街中を走っているだけでも、「よく、ここのお店で食事をしたなぁ」「あのお店によく行ったなぁ。」と思い出しますと寂しくなります。
生前に、
「私が死んだらどうする?」
なんて話も彼女はたまにしていたものですから、余計に色々と考え込んでしまう時もあります。
・・・
しかし、私思いの優しかった彼女に、いつまでもあの世から心配ばかり掛けさせては駄目だと思ってはいます。
頭の中では、わかっているんですけど・・・ね。
QW様のおっしゃるとおり、どんなに辛くても、生を享けた限りはこの世を全うしなければならない,生き抜かなければならないと思っています。そうすることが、何よりも彼女が残したメッセージに答える姿だとも。
亡き彼女に、最期の最期まで助けられたように感じています。
そして、今も助けられているようにも感じています。
また、実家へ帰ったときに、古くからの友人が私のことを心配してくれたり、実家を出て色々な街で出会った仲良しの友人も、そして職場の同僚も、皆暖かい言葉を掛けてくれたとき、私も一人で生きているんじゃないんだなぁ,人生捨てたもんじゃないなぁと、つくづくそう思いました。
・・・
これからも・・・
彼女の思いに出来る限り答えられるよう、何よりもまず今世での課題を乗り越えて生き抜いていこうと思っています。
QW様、励ましのお言葉もいただきまして、本当に有難うございました。
普通の人の目には見えない世界。
そこでの再会を私も楽しみにしています。
より確かなものに感じ取れるような書籍を今後も読んでいきたいと思います。
またお気軽にお立ち寄りください。
実は私はメールだけのお付き合いをしていた男性がいました。
相手の方は海外での病気治療であった事、私も法的には連れ合いがいるのでお互いの気持ちをすれすれで押さえていたお付き合いをしていた大切な人でした。
身内の方から先日亡くなったとの知らせがあり毎日悲しい気持ちを抑えながらすごしておりました所この記事に立ち寄らせて頂きました。
私の場合は現代ならではの事で、何とも自分はおかしい人間なのかと毎日自問自答していました。
ただ今思うのは、いつか来世でお互いこだわりのない姿でまた会いたいと願ってる次第です。
来世での再会を信じて毎日を前に向いて生きていきたいです。
ありがとうございます。
心と心のお付き合いであっても、自分自身の心を開いてメールやり取りができるお相手だったのですね。
病気治療中のお相手の男性は、この世を去られたようですが、そのお相手の方もこちらの世を去る間際まで、きっと幸せを感じていらっしゃったことと思います。
ふと、ある瞬間から連絡が途絶える(やり取りが無くなる)、たとえ相手が療養中でいつかこのような日が訪れるのではないかと予感していても、実際に音信が途絶え、もうこの世にはその方の存在は無くなってしまったと感じ取った瞬間、「もう居ないのだ」と思うととてつもなく悲しく、辛く感じたのではないでしょうか。
それは、私は、この世での「愛」が消えてしまったと感じるところから来る悲しみだと思っています。
確かに、もう思いを寄せていたお相手の方は、この世では姿も、またメールを打つ肉体も無くなってしまったのは確かです。
しかし、私達は、この物質の世界に生まれてきて、そしていつかは必ず誰しも死を迎えるわけですが、死後、無になるかのように見えますが、決してそうではないと、私は思っています。
それは科学では解明できないことが多々あり、その中には「臨死体験」や「全く予期しなかったもの(霊)を見たり」「過去生を語る者がいて、実際に昔その人物が居た」など、超常現象やスピリチュアルな話がいくつもあります。
そう考え、またブログで紹介しました書籍などを読みますと「人は死んでも生きている(霊・意識体・魂)のではないか」と感じるわけです。
たぶん、ありすさまも、そのような感じがする,そういう予感がすると感じながら生きておられるのではないでしょうか。
肉体の有り(生)、無し(死)と同じく、見えない世界についても、自分自身も死後にははっきりと有り無しが分かるわけですが、万が一、死後が「無」であった場合、「あぁ、やっぱり逢えない」「死後の世界など何も無かったのだ」と嘆く霊・意識体・魂さえありませんので、苦悩したり悲しくてたまらない気持ちに陥ることさえありません。
しかし、死後、死んでも霊・意識体・魂となって生きていて、「やはり、このような世界(あの世)があったのだ」と感じ取った瞬間、そのお相手の方にも必ず逢えることと思います。
私は、彼女を亡くして今に至りますが、素敵な女性とも巡り合いました。しかし、ありすさんと同じく相手は結婚している身です。色々と相談を受けることもあります。しかし、私は全て「手許にあってはじめて結ばれる(結ばれたと言える)」「実際にそばに居なければいけない」「好きな相手と暮らしてこそ、それが成就するということ」とは思っていないのです。
どういうことかと言いますと、言葉で表現をするのは難しいのですが「しのぶ愛(偲ぶ愛)」とでもいうのでしょうか。
「好き(好きかも知れない)」と言われて、じゃぁ、相手の今ある家庭をぶっ壊して、そして、自分の手許に引き寄せるのか、それが一番二人にとって良いことでベストなのか、と考えますと、学生時代であれば友人と気に入った女性の奪い合いなど、恋愛事でトラブルなんてこともありますが、ある程度の年齢で、いわゆる「大人」となってからは、何でもかんでも気に入った,好きになった,一緒に居たいからといって、相手の家庭、そして自分にも家庭があった場合は自分自身も、全て壊して奪い取って突き進めばよいというものではないということも知り、悟るわけです。
相手がこちらに飛び込んできて、自分自身はフリーな身の上なら話は別ですよ。
しかし、相手には家庭があり、子供もいて平穏な生活を送っているのであれば、こちらにもっと引き寄せるのではなく、陰ながら気持ちの面を支えてあげたり、頼ってきた場合は話を聞いてあげたりと、フォローをしてあげることができることこそ、「真実の愛」ではないかと思うのです。
ですので、確かにメールでのやり取りのお相手で、その方が亡くなったことに対して、とても悲しく打ち拉がれることに対して「自分はおかしいのでは」と思うかもしれませんが、それは、私から見れば、一緒に居なくては駄目、そばに居ないと一緒・お互いが繋がっているとは言えないという現実でないと駄目という愛情欲とは違い、「偲ぶ愛」と似ているなぁと感じましたよ。
そういう「愛」があってもいいじゃないですか☆
話は長くなりましたが、
来世での再会もそうですが、ありすさんがこの世を生き抜いて寿命を迎えたときに、きっとあの世・見えない世界・精神世界でその男性と再会できますよ。
大丈夫です。そのために、再会するために今を一歩づつ生き抜いていきましょうね。
コメントありがとうございました。またお気軽にお立ち寄りください☆
ご丁寧な心温まる返信を有り難うございました。
名前も顔もほとんどプライベートもお互い知らない4年間でした。趣味ブログからのお付き合いで相手の方の才能溢れる作品に魅力を感じたのが惹かれるきっかけでした。
メールを交わすようになって後々チャットで話してみればどうもお互い驚く程環境の違う人生を送りながら?何故か思考や感覚が同じでとにかく二人で驚いたのを記憶しております。
彼は自己完結していて芸術的センスに溢れた頭の良い一匹狼の方で、社会的にも早くから成功しているようで、そろそろ自分の夢に向かってと考えていた時発病されたようです。
途中今一歩踏み込んだ関係をあちらは望んでくれたようでしが私は自分の立場以前に彼にふさわしい”器”ではないと思い好きでしたがためらってしまったという所でしょうか。
毎回移植中約半年は連絡がなくなり、私は毎日おろおろ心配するという月日でした。
今もって何故そんな彼の最期の人生に私がいたのか不思議です。
そもそも彼とは初めから性別も何もわからず内なる精神性からのお付き合いでしたので、私は彼に対して最期には現世にある 異性への愛 以上にもっと違う強い感情を相手に感じるようになって行ったと思います。
反面、現実的に自分はだまされているのかな?とか絶対こういう関係や感情はおかしい、自分だけの思い癖なんだ、気おつけないと精神異常なのかもしれないとも考えたりしてました。
この気持ちをどうやって前向きに昇華していけば良いのかともがく毎日です。
今となってはただ私は何を学ぶために彼と出会ったのか?とも思います。
ですが管理人さんが記述された精神世界でもう一度再会がかなうのなら、寿命つきる日まで私なりに生きて行く事が今私のしなければならない使命だと思っています。
本当に有り難うございました。
今は、悲しい思いでいっぱいだと思いますが、どのような出会い方にしましても、感性が響き合った、その亡くなられた男性へ感謝の念を送り続けることで、亡くなられた方へきっと思いが伝わることと思います。
歩んできた道、環境が全く違っていても、異性同士の愛というものよりも、お互いが感じ合え、そのお相手に対して尊敬や敬意の念を強く持った,持つに至ったところにアリスさんの中で愛よりも超越したもの(気持ち)が生まれたのだとコメントを読んでそう感じました。
「共感」と「尊敬」の念が、アリスさんが感じた「彼にふさわしい”器”ではないと思い好きでしたがためらってしまった」に繋がるのではないでしょうか。
ただ、現代社会を生きる上で、行動できることと押し止めなければいけないこともあります。
しかし、一つ言えるのは「同じ波長の人と出会う」ということです。そうでない人とも出会うこともt多々ありますが、そういう人とは、それほど深い関係やお付き合いまでは発展しないでしょう。やはり思考や感覚が同じ=同じ波長同士が出会ったために、直接は接していなくても、そのお相手の死を知り、これほどまでに深く悲しい気持ちになるのだと思います。
そして、出会いは「偶然ではない」ということです。
やはり、そのお相手の方と「出会い」「共感し合い」そして「別れ」を経験するということ自体、何かの見えないチカラ(絆)があったということです。
生きている間に、一度も出会わない人のほうが圧倒的に多いはずです。その中で、趣味ブログを通してでも出会い、そして、そこから二人の仲が色々と語り合えるところまで進むということは、やはり何かしらの「ご縁」があったということですね。
「袖触れ合うのも他生の縁」と言いますよね。☓多少,○他生ということは、その男性は亡くなる前にアリスさんにお会いすることになっていて、またアリスさんもこの世を生きる時間が短いそのお相手と出会い「何かを学ぶ」こととなっていたのだと思います。
ですので、あとは「今、この経験を、今後の人生でどう生かしていくのか」がアリスさんの課題だと思います。
「いつか必ずこの世を去る」わけですので、お相手との死別を通して、死生観を持ちながら、どう生きていくのか、寿命までどう生き抜くか、自分自身の死の間際に、生き抜いたぞと言える生き方を続けることで、彼と出会った想いも輝き続けることと思います。
そして、その彼と一番早く再会出来る方法は生かされている間は、生き抜くということですね。
お互い、一歩づつ歩んで行きましょう~♪
その節は本当に有難うございました。
改めて御礼申し上げます。
実は、先日故人のご家族から一周忌後に解凍するファイルに故人が作詞作曲した曲があり、”遺言により私にも”と添付されて来ました。
題名は”ありがとう”
願いがかなうならもう一度皆に逢いたい・・・皆の幸せを心から願う・・・そして皆にありがとう
という優しい詞とメロディーでした。
何度も何度も聴きながらただ涙を流してしまいました。
私はこの一年、故人を失った悲しみから残りの人生をどう”良く生きるべきか?”自問自答し、色々模索してました。
不思議な体験も色々しました。
でも頭では前に進まなくては、と思っていても、悲しく空しい気持ちがいつもいつも私の心の片隅にあり、どうしても気持ちが定まらない時間を過ごしてました。
それなのに彼は、この世を去る前から高い次元に魂があったと今更ながら思うと、自分がとても恥ずかしく情けなくなってしまいしました。
今後の自分がどお変われるのかわかりませんが、あきらめず頑張って生きようと思います。
またおじゃまさせて下さい。
9/1に異動(部署)となり、また前任者がすぐに辞めてしまったので、深夜まで仕事に追われる毎日でした。。。
もう1年経つのですね。。。
私は月日が経つのが、とても早く、いつも何かに追われながら過ごしています。
故人のご家族の方、そして何より先立った故人さまから素敵なプレゼントを頂きましたね。涙が止まらない気持ち、少なからず分かりますよ。。。
私も先日、急いで昼食を取ろうと思い、また会社で弁当を注文していなかったので、近くのコンビニへ行き、ふと1つのおにぎりを手にしました。
それは、手作り感のある大きなおにぎりでした。
実は、その大きなおにぎりは、あえて食べないようにしてきたものでした。
そのおにぎりを食べると、亡くなった彼女が私が急いでいるときに、ラップに巻いて渡してくれていたおにぎりに似ていたからです。
シャケ・かつお・昆布などが1つの大きなおにぎりに入ったものです。
急いでいて、手にとって買ってしまい、車の中で食べましたら・・・やはり涙が出てきました。。。
せかせかと忙しなく、また急いでいたのですが、そのおにぎりを食べたとき、時間が止まり、また当時に戻った感じがしました。
なかなか人って、心・感情のある生き物ですから、やはりそう簡単には割り切ったり、忘れたりはできないものですよね。。。
相手を想う、偲ぶ。私は、それは良いことだと思っています。また、先立った故人にとっても、これも一つの試練(この世から、悲しむ声(感情)が届く)だと受け止めてもらえることとも思いますし。
最愛の人との死別は悲しく辛いものです。
ですが、こちらも(ご自身)も、あちら(故人)も、お互いにとっての試練だと思い、生き抜いていきましょうね。
私がいつも思っていることは、自分の死後には、すぐに故人と逢いたい、逢えるようにしておこう、ということです。
そのためには、人を傷つけないようにして、また悪いことは極力しないとようにと、自分自身に言い聞かせています。
きっと、また再会できますよ。
とにかく近道は生き抜くこと、寿命まで生きることです。お互い、一歩づつですね。
コメントありがとうございました。またお気軽にお立ち寄りください。