やっと一息つけますね。
と思いがけず声をかけていただいた。
暖かい心遣いに感謝しながら、
きっと、ヨユーない!オーラが
まだまだ出ているんだろう、と
わが身を苦笑した。
と思いがけず声をかけていただいた。
暖かい心遣いに感謝しながら、
きっと、ヨユーない!オーラが
まだまだ出ているんだろう、と
わが身を苦笑した。
GYAOで『エマ』第一幕の一話と二話が公開されていると、お知らせいただきました。先日、偶然に初めて見かけた第二幕で、いっぺんにエマファンになりました。幼い頃に触れたお話の世界を感じさる懐かしさがあり、心の根美しい人々で構成されるこの世界観が、自分はやっぱり好きなのだと思いながら昨夜は一幕を見ていました。ここにあからさまではない悪が登場し心の綾が複雑になると、単純なわたしには余るものがあるのでしょう。一幕一話は10日まで公開ということでしたので、見逃さないように心配でしたが、ついつい、二話まで見てしまいました。次回の公開が待ち遠しい。
今、クロールに夢中になっている。
るるるんとくろーしながら、クロールが身になりつつある。
何かが自分の身になりつつある、って大好き。
クロール初期の段階で、自己流は危険と自己診断したので、ちょっとコーチに教えてもらったが、ちょっとは歯がゆくて性に合わないため、トータルイマージョン方式で個人教授を受けた。ここのプールは画期的だ。泳ぎこそ自分を客観視できない最たるものだと思うのだけど(泳ぎを数値化する場合は別だけど)、まさにこのことが、上達の大きな妨げになっていると思う。その点、このわずか(たぶん)5mほどの画期プールは数台の水中カメラ設置により、動画で自分の泳ぎをチェックできる。5mほどだけど、水流が起こるからエンドレスプールだし。
目標は楽ちん泳ぎだったが、自分の身体をどう使うと水中での推進力になるか、というのが、なんとなくおぼろげにわかりつつある状態。これが体得できたら、もっと楽ちんクロールになる予感。
るるるんとくろーしながら、クロールが身になりつつある。
何かが自分の身になりつつある、って大好き。
クロール初期の段階で、自己流は危険と自己診断したので、ちょっとコーチに教えてもらったが、ちょっとは歯がゆくて性に合わないため、トータルイマージョン方式で個人教授を受けた。ここのプールは画期的だ。泳ぎこそ自分を客観視できない最たるものだと思うのだけど(泳ぎを数値化する場合は別だけど)、まさにこのことが、上達の大きな妨げになっていると思う。その点、このわずか(たぶん)5mほどの画期プールは数台の水中カメラ設置により、動画で自分の泳ぎをチェックできる。5mほどだけど、水流が起こるからエンドレスプールだし。
目標は楽ちん泳ぎだったが、自分の身体をどう使うと水中での推進力になるか、というのが、なんとなくおぼろげにわかりつつある状態。これが体得できたら、もっと楽ちんクロールになる予感。
読売日響の4月号プログラム、『絵画とことばー感覚を表現することー』のなかで藁谷郁美さんは「抽象事象の表現は、自然に身につくものではなく、トレーニングと学習を通してはじめて習得が可能となります。」と書かれています。藁谷さんはドイツでの学生時代、美術館に展示されている絵画の前で「これを(言葉で)どう表現するか」という表現練習を徹底的に繰り返す西洋美術史演習の講義を受けられたそうです。その経験を通して、Web画面や複写での疑似体験ではなく、本物の作品に接すること、現場でスキルを習得することの大切さを説いていました。
わたしなどは、現場で感受している状態とそれを言葉で表現できることのあまりの隔たりにほとんどぜつぼうしていて、しながらも、う~むやっぱりトレーニングかぁ、とけっこう脳天気に思える怖いもの知らずというのか、まぁ前向きともいえる気配もないわけではない。でも、気配はあるが能がない。致し方ない。
それで、5月は19日(土曜日)芸術劇場、読売日本交響楽団ユーリ・テミルカーノフ指揮「ブラームスの4番」が煌いていました。
5月はこれっきり。都響の演奏会も2回ありましたが都合がつかず、こちらのブラームスの4番も聴きたかったし、シュトラウスも体感したく残念ではありましたが、両日ともそれぞれ代打で足を運んでくださる方があり救われた気持ちでした。
聴き逃してしまった5月の演奏会といえば、31日の下野竜也さん指揮のマーラー1番。1番は面白くて大好きでついつい繰り返し聴いてしまう曲なのに、1度もライブで聴いたことがない。会場へのアクセスの不便さを押してでも聴きたい、と思いチケット手配をネットで試みたけど、時すでに遅し。讀賣に電話で問い合わせそびれたまま、過ぎてしまっていました。ふと、聴きに行かれた方々のブログを拝見すると、想像以上の好評コメントに、ふたたび後悔の思いが湧いてきてしまいます。すべての演奏は、その時、その場所に居合わせた人たちだけの見えない宝物、というあたりまえのことをあらためて思います。聴きたいもの、観たいものは逃しちゃわない日々を送れるようになりたい。
わたしなどは、現場で感受している状態とそれを言葉で表現できることのあまりの隔たりにほとんどぜつぼうしていて、しながらも、う~むやっぱりトレーニングかぁ、とけっこう脳天気に思える怖いもの知らずというのか、まぁ前向きともいえる気配もないわけではない。でも、気配はあるが能がない。致し方ない。
それで、5月は19日(土曜日)芸術劇場、読売日本交響楽団ユーリ・テミルカーノフ指揮「ブラームスの4番」が煌いていました。
5月はこれっきり。都響の演奏会も2回ありましたが都合がつかず、こちらのブラームスの4番も聴きたかったし、シュトラウスも体感したく残念ではありましたが、両日ともそれぞれ代打で足を運んでくださる方があり救われた気持ちでした。
聴き逃してしまった5月の演奏会といえば、31日の下野竜也さん指揮のマーラー1番。1番は面白くて大好きでついつい繰り返し聴いてしまう曲なのに、1度もライブで聴いたことがない。会場へのアクセスの不便さを押してでも聴きたい、と思いチケット手配をネットで試みたけど、時すでに遅し。讀賣に電話で問い合わせそびれたまま、過ぎてしまっていました。ふと、聴きに行かれた方々のブログを拝見すると、想像以上の好評コメントに、ふたたび後悔の思いが湧いてきてしまいます。すべての演奏は、その時、その場所に居合わせた人たちだけの見えない宝物、というあたりまえのことをあらためて思います。聴きたいもの、観たいものは逃しちゃわない日々を送れるようになりたい。