一原有徳、意味と目的を嫌う。
にこまるクッキーの美味しさは、それはそれはほんのりとした甘さでぺろり、あっという間です。 現在、会津美里町に暮らす方からのお葉書付きをわたしはいただきました。なかなかお返事が書けなくて、何度も何度も書き直してしまいましたが今日やっと投函できました。届きますように。
『ポル・ポト伝』(デービット・P・チャンドラー著)を、今、読んでいる。
「行く人は必読」なんて紹介されているけど、私の場合は読んでいたら無理だった。
知らなかったから飛び込めた。
人生のモットーは”恐いもの知らずでいたい”
秋に転職をして、この春、転居した。
ようやく一段落。
◇映画
GOEMON-大好きです!KIRIYA WORLD!Wonderful!
◇DVD
・ナショナルトレジャー
・es
・十七歳のカルテ(途中まで)
・プラダを着た悪魔
・十二人の優しい日本人
・SEX and THE CITY
・街の灯・・・・・ぽっ、と胸に灯りがともるような映画。
・アニーホール
◇本
・ある女-アニー・エルノー
・ぼくんち-西原理恵子
・悪人-吉田修一-読書中
◇美術
三瀬夏之介 - シナプスの小人- 新宿高島屋美術画廊
◇音楽
・2009年6月 8日(月) 19:00 サントリーホール-読響
・さかいゆう
・相対性理論
◇テレビ
プロフェッショナル仕事の流儀『中村征夫』
◇体調
朝起きてみると突然、脚に痛みが来てそのままロキソニン漬けになり、その副作用が脚痛よりきついことに驚いたりもしたけど、概ね、良好。
ようやく一段落。
◇映画
GOEMON-大好きです!KIRIYA WORLD!Wonderful!
◇DVD
・ナショナルトレジャー
・es
・十七歳のカルテ(途中まで)
・プラダを着た悪魔
・十二人の優しい日本人
・SEX and THE CITY
・街の灯・・・・・ぽっ、と胸に灯りがともるような映画。
・アニーホール
◇本
・ある女-アニー・エルノー
・ぼくんち-西原理恵子
・悪人-吉田修一-読書中
◇美術
三瀬夏之介 - シナプスの小人- 新宿高島屋美術画廊
◇音楽
・2009年6月 8日(月) 19:00 サントリーホール-読響
・さかいゆう
・相対性理論
◇テレビ
プロフェッショナル仕事の流儀『中村征夫』
◇体調
朝起きてみると突然、脚に痛みが来てそのままロキソニン漬けになり、その副作用が脚痛よりきついことに驚いたりもしたけど、概ね、良好。
2008年 7月 6日 (日曜日) 11時00分
観世能楽堂
能「自然居士」
観世 清和
狂言「伯母ヶ酒」
山本 則俊
能「半蔀」
坂井 音重
能「鉄輪」早鼓之伝
梅若 万三郎
ぎりぎりに入場してしまったので配布物にちゃんと目を通していなくて、「自然居士の謡」が入っている詞章が配られているのに気がつきませんでした。世阿弥がカットしたとされる冒頭の「自然居士の謡」が演じられているその重大さに気づいたのは、この場面も半ば過ぎ、ちっとも記憶に無い科白が続いているので持参した謡曲のコピーに一所懸命目を走らせても見当たらなくて焦っていたところでした。残念、もっときちんと心構えて聴きたかったな。「自然居士の謡」は現在では希少なので余計その価値が増すのでしょうか、でも、そればかりではなくこの場面それ自体に、この能の導入部として、全体への伏線として、自然居士という人間のキャラクターを際立たせるためとその役割は大きいと感じたのですが、どうしてカットされてしまったのでしょうね。
ところで、能をみているわたしには見えているものより見えていないものの方が余程多いであろうことをというよりも、おそらくはほとんみえていないであろうことをつくづくと感じるのですが、最近、小林秀雄のエッセイ(山本学朗読・朗読CDシリーズ「心の本棚」)を聞き歩きしている中、『美を求める心』で作者が「先ず、何を措いても、見ることです。聞くことです。」と言い、見るという経験、聞くという経験がいかに「感じる」ということを深めていくものなのかについて言葉を尽くしていることに、少し支えてもらっている気がしています。
小林秀雄という人は「知」の人だ、という強い思い込みがあったのですが、徹底して「感」の人だったのですね。知と感なんて分けるのも陳腐なんだけど、能について語っている『當麻』という文章を読んでも、能作品についての知識を披露するような箇所は見事に一箇所も無い。ただただ(といってももちろん知ありきでなければ書けないところだらけですが)能舞台を観た自分に何が起こったのか、どんな想念が湧いたのかを語っていて、そして鋭い洞察に至る。それは、独自過ぎるくらい独自な文章です。
観世能楽堂
能「自然居士」
観世 清和
狂言「伯母ヶ酒」
山本 則俊
能「半蔀」
坂井 音重
能「鉄輪」早鼓之伝
梅若 万三郎
ぎりぎりに入場してしまったので配布物にちゃんと目を通していなくて、「自然居士の謡」が入っている詞章が配られているのに気がつきませんでした。世阿弥がカットしたとされる冒頭の「自然居士の謡」が演じられているその重大さに気づいたのは、この場面も半ば過ぎ、ちっとも記憶に無い科白が続いているので持参した謡曲のコピーに一所懸命目を走らせても見当たらなくて焦っていたところでした。残念、もっときちんと心構えて聴きたかったな。「自然居士の謡」は現在では希少なので余計その価値が増すのでしょうか、でも、そればかりではなくこの場面それ自体に、この能の導入部として、全体への伏線として、自然居士という人間のキャラクターを際立たせるためとその役割は大きいと感じたのですが、どうしてカットされてしまったのでしょうね。
ところで、能をみているわたしには見えているものより見えていないものの方が余程多いであろうことをというよりも、おそらくはほとんみえていないであろうことをつくづくと感じるのですが、最近、小林秀雄のエッセイ(山本学朗読・朗読CDシリーズ「心の本棚」)を聞き歩きしている中、『美を求める心』で作者が「先ず、何を措いても、見ることです。聞くことです。」と言い、見るという経験、聞くという経験がいかに「感じる」ということを深めていくものなのかについて言葉を尽くしていることに、少し支えてもらっている気がしています。
小林秀雄という人は「知」の人だ、という強い思い込みがあったのですが、徹底して「感」の人だったのですね。知と感なんて分けるのも陳腐なんだけど、能について語っている『當麻』という文章を読んでも、能作品についての知識を披露するような箇所は見事に一箇所も無い。ただただ(といってももちろん知ありきでなければ書けないところだらけですが)能舞台を観た自分に何が起こったのか、どんな想念が湧いたのかを語っていて、そして鋭い洞察に至る。それは、独自過ぎるくらい独自な文章です。
文芸春秋(2007年11月号)にぱらぱらと目を通していたら、「裁判員法には違憲と考えられる点がそれほど多々あるのだ。」という文章が目に入った。『裁判員制度のウソ、ムリ、拙速』(大久保太郎著)という記事だったが、目からウロコ的な感じで、かなり印象的だった。裁判員制度については広く言われているわりに、わたしなどは理解が浅いというか、無いというか、どこか自分の身に降りかかっては来ない気がしている暢気さだったが、それにしても素人がそのような場にとことこ出掛けてって顔出すのみならず、口まで出して大丈夫なん?という素朴過ぎの疑問やら、仕事やら休んで行かなあかん、てえらいこっちゃなぁ、とか、関心はあっても傍観者でいられることと、自分の意思に関わらずかなりの拘束力で当事者とならざる得ないことの間には、おそらく自分が自分自身に想定している精神力のその想定ラインを脆くも崩される可能性もあるんちゃう、とかいろんな不思議がありつつ、でも、やっぱり日々日常に裁判員制度について深く考えるなんてことはないし、そんな機会もなかった。「憲法に触れる可能性もある」といわれると、改めて、そういう見方もあるのか、と思いもするけど、法律そのものが違憲とされるか否かを裁判所が判断できるのかどうかよくわからない。そもそも、この裁判員制度の広報用DVDが最高裁から発行されていて、電通が製作している。『ぼくらの裁判員物語~裁判員制度広報用アニメーション~』というタイトルで図書館にあったので、こちらも見てみた。『これ一冊で裁判員制度がわかる』(読売新聞社会部裁判員制度取材班著・中央公論新社)も併せて読んでみたら、制度の概要自体はわかりやすかった。でも、この本の98ページ「法律の知識がないのに、的確な判断が出来るか?」と設問され、それに対して、「法律の知識は、裁判員に必要ありません。求められているのは、普通の生活を送っているあなたの「良識」や「常識」です。~以下略~」と答えられている箇所を読んでも、「普通」「常識」等のとても曖昧なラインで必要とされているというのでは、対処療法的な能書き的な感じで根本的な疑問や不安は解消されないのではないでしょうか。新聞の投書欄に目を通すと、社会状況や裁判そのものに興味が高まったり、理解が出来たりするから積極的に参加したい、等の意見も見られるので、みんな尻込みしてるばかりじゃないんだな、とわかるけど、ただ、裁判と自己研鑽はまた次元の違うことだと、わたしなどは思います。育児をしている人が裁判員になった場合には、託児の方法を、介護をしている人は介護施設の手配を原則自分でして、参加しなければならないそうです。大企業では休暇制度も対応し始めているそうですが、多くの企業はそれどころではないでしょう。裁判員制度に参加するための社会環境も現時点では参加する人にとって負担の重いものであることも疑問であり、不安であると思います。
「tristesse(かなしさ)を味わう為に涙を流す必要がある人々には、モオツァルトのtristesseは縁がない様である。それは、凡そ次のような音を立てる、アレグロで。(ト短調クインテット、K.516)」
(『モオツァルト』小林秀雄)
こんなふうに誘われたら、
その音をききたいと切望せずにすむことはむずかしい。
「成る程、モオツァルとには、心の底を吐露する様な友は一人もなかったのは確かだろうが、若し、心の底などというものが、そもそもモオツァルとにはなかったとしたら、どういう事になるか。」
「自分を一っぺんも疑ったり侮蔑した利したことのない人に、どうして人生を疑ったり侮蔑したりする事が出来ただろうか。・・・略・・・この十八世紀人の単純な心の深さに比べれば、現代人の心の複雑さは殆ど底が知れているとも言えようか。」
歩きながら聞く小林秀雄は、話し相手の反応や理解を待つよりもどこか一人話し進めてゆくその話し方から誇り高く気難しい印象と、早口でかん高い声から、意外に身近な感じを持った。
まず相手の歩調ありき、よりも自らの歩調を堅持しているかのように聞こえる話し方をする人のその文章を読むと、そこには、洞察のある内なる声が何重にも響いていることに驚かされる。
小林秀雄の『モオツァルト』を読んでいると、
やはり吉田秀和の『モーツァルト』を読み返したくなった。
それは、『戴冠ミサ』の紹介に始まる。
第一楽章<キリエ>を聴いた時のあの奇妙な違和感を、
まさか次のような喩えをもっていいのけてしまうなんて。
この柔らかくてしなやかな一撃。
「その合唱は「キ」と強く叫んで、「リエ」と突然声をひそめる。このベートーヴェンより、もっとベートーヴェン的なスビト・ピアノは、祈りを感じさせない。
それはむしろ、そとでさんざん遊びほおけた末、泣かされてきた子が、家の敷居をまたぐなり「おかあ」と強く叫んで、急に流れ出してきた涙といっしょにあとの「さん」という音を飲みこんでしまったかのようだ。」
「モーツァルトは、すべてをあるがままに信じる。自分の中に天才があることを、美しい声をもったアロイジアが嘘つきの裏切り者であることを-パリのサロンの凍てつくような冷たさを、ザルツブルク大司教のヒエロニムス・コロレドの尖った鼻の先に宿っている小さな悪意を何一つ見逃さないで、心に刻みつかせておきながら-信じる。何を、どう信じるかの問題ではないのだ。そんなことは、もうきまったことであり、すべてはあるがままにある。」
今までは、読んでいる中に次々と紹介される曲をききたくとも手元にCDがなければ聞けなくて、結局、肝心なところに手が届かない思いをしていたけど、ナクソス活用のおかげでききながら読みを出来るようになって、これは大きくうれしい。
●『モオツァルト 無常という事』小林秀雄(新潮文庫)
●『モーツァルト』吉田秀和(講談社学術文庫)
(『モオツァルト』小林秀雄)
こんなふうに誘われたら、
その音をききたいと切望せずにすむことはむずかしい。
「成る程、モオツァルとには、心の底を吐露する様な友は一人もなかったのは確かだろうが、若し、心の底などというものが、そもそもモオツァルとにはなかったとしたら、どういう事になるか。」
「自分を一っぺんも疑ったり侮蔑した利したことのない人に、どうして人生を疑ったり侮蔑したりする事が出来ただろうか。・・・略・・・この十八世紀人の単純な心の深さに比べれば、現代人の心の複雑さは殆ど底が知れているとも言えようか。」
歩きながら聞く小林秀雄は、話し相手の反応や理解を待つよりもどこか一人話し進めてゆくその話し方から誇り高く気難しい印象と、早口でかん高い声から、意外に身近な感じを持った。
まず相手の歩調ありき、よりも自らの歩調を堅持しているかのように聞こえる話し方をする人のその文章を読むと、そこには、洞察のある内なる声が何重にも響いていることに驚かされる。
小林秀雄の『モオツァルト』を読んでいると、
やはり吉田秀和の『モーツァルト』を読み返したくなった。
それは、『戴冠ミサ』の紹介に始まる。
第一楽章<キリエ>を聴いた時のあの奇妙な違和感を、
まさか次のような喩えをもっていいのけてしまうなんて。
この柔らかくてしなやかな一撃。
「その合唱は「キ」と強く叫んで、「リエ」と突然声をひそめる。このベートーヴェンより、もっとベートーヴェン的なスビト・ピアノは、祈りを感じさせない。
それはむしろ、そとでさんざん遊びほおけた末、泣かされてきた子が、家の敷居をまたぐなり「おかあ」と強く叫んで、急に流れ出してきた涙といっしょにあとの「さん」という音を飲みこんでしまったかのようだ。」
「モーツァルトは、すべてをあるがままに信じる。自分の中に天才があることを、美しい声をもったアロイジアが嘘つきの裏切り者であることを-パリのサロンの凍てつくような冷たさを、ザルツブルク大司教のヒエロニムス・コロレドの尖った鼻の先に宿っている小さな悪意を何一つ見逃さないで、心に刻みつかせておきながら-信じる。何を、どう信じるかの問題ではないのだ。そんなことは、もうきまったことであり、すべてはあるがままにある。」
今までは、読んでいる中に次々と紹介される曲をききたくとも手元にCDがなければ聞けなくて、結局、肝心なところに手が届かない思いをしていたけど、ナクソス活用のおかげでききながら読みを出来るようになって、これは大きくうれしい。
●『モオツァルト 無常という事』小林秀雄(新潮文庫)
●『モーツァルト』吉田秀和(講談社学術文庫)
先日行った能楽堂の売店の販売員さんに、次のように質問した。
「あのぉ、よくわからないのですが、台詞というのでしょうか、その、あの台詞のようなものが素人にもわかるように書かれている本はないのでしょうか。」
販売員さんはシリーズ化されている謡曲のCDを紹介してくれたが、それは高価だったし曲も限定されていた。
あの舞台をみたら、そのあの台詞らしきものを読んでみたいと思わずにはいられない。読まないことには理解が覚束ない。
台詞らしきものは詞章というらしいが、まずその詞章を読むことをはっきりきちんと言ってくれているのが、
『すぐわかる 能の見どころ』(村上湛著・東京美術)
この本は、手軽な入門書の体を装っているけど、
「舞台を見る前に、必ず詞章を熟読しましょう。」
に始まり、
「「頭を白紙にして無心に見る」という言葉は、多くの場合マヤカシでしかありません。」
また、
「ただ一つ、理想を付け加えるならば、水準以上に優れたシテの舞台を選ぶことです。世評と内実は必ずしも一致しませんが、劣ったシテのいい加減な舞台には、半文銭の価値すらありません。」と、
舞台をみると実感し、その通り、と思う当然のことながら、実行するには妥協しがちなところをアドバイスしてくれます。入門時に押さえておけて良かったと思う本。
ところで、東京美術にはシリーズで「すぐわかる」と「もっと知りたい」があるんだけど、内容といい、シリーズ名といい「もっと知りたい」の方が、センス良いな、「すぐわかる」っていかにもお手軽な感じがして好ましくないんですけど、と思っていたが、今回『すぐわかる能の見どころ』によって考え改めました。「すぐわかる」はスマートに核心に届きやすい、という意味があったのだと発見です。
まぁ、それはどうでもいいけど、この冒頭の疑問、詞章読みたきゃ、何、読めばいいの?である。
これも『すぐわかる能の見どころ』に数冊紹介されている。
数冊のなかでも、重いし、巻数多いし、古いし、入手面倒そうだし、
だけど、
やはり『謡曲大観』(佐成謙太郎・明治書院)
が目当ての能にアクセスし理解しようとするには
結局は、手っ取り早かった。曲の網羅力が圧倒的だし全曲訳付だもの。
ただ、気軽に所有できる価格ではありません。いつもながら図書館にお世話になり、館外持ち出し禁止本だったため別巻の総目録もコピーしておいた。便利。
さて、現代に生きるわたしからしてみれば、
能舞台の造り、能役者の動き、装束、面、あの台詞、シテ、ワキ、間狂言等の配役、等々、能そのものが不思議なことだらけ。
その不思議さを明晰に言葉にしてくれて、さらに新しい視点を教えてくれるのが、
『脳の中の能舞台』(多田富雄・新潮社)
「コンピューターは、別々のファイルの情報を移しかえながら、同時に処理することができる機械である。Aのファイルの情報を、全く次元の違うBのファイルへ自由に移して処理できるのだ。違う次元の問題を扱うファイルに情報を移動させることを、「ワープする」という。能舞台では、こういうワープが日常的に行われている。」
ファイル間で情報を移動させることもワープというのだとわたしは知らなかったけど、能の構造を捉えるのに、これほどわかりやすい説明はなかなか無いと思う。著者は本業、免疫学という分野の学者なのだそうです。本職著作について松岡正剛さんの『千夜千冊』で『免疫の意味論』が紹介されている。
「あのぉ、よくわからないのですが、台詞というのでしょうか、その、あの台詞のようなものが素人にもわかるように書かれている本はないのでしょうか。」
販売員さんはシリーズ化されている謡曲のCDを紹介してくれたが、それは高価だったし曲も限定されていた。
あの舞台をみたら、そのあの台詞らしきものを読んでみたいと思わずにはいられない。読まないことには理解が覚束ない。
台詞らしきものは詞章というらしいが、まずその詞章を読むことをはっきりきちんと言ってくれているのが、
『すぐわかる 能の見どころ』(村上湛著・東京美術)
この本は、手軽な入門書の体を装っているけど、
「舞台を見る前に、必ず詞章を熟読しましょう。」
に始まり、
「「頭を白紙にして無心に見る」という言葉は、多くの場合マヤカシでしかありません。」
また、
「ただ一つ、理想を付け加えるならば、水準以上に優れたシテの舞台を選ぶことです。世評と内実は必ずしも一致しませんが、劣ったシテのいい加減な舞台には、半文銭の価値すらありません。」と、
舞台をみると実感し、その通り、と思う当然のことながら、実行するには妥協しがちなところをアドバイスしてくれます。入門時に押さえておけて良かったと思う本。
ところで、東京美術にはシリーズで「すぐわかる」と「もっと知りたい」があるんだけど、内容といい、シリーズ名といい「もっと知りたい」の方が、センス良いな、「すぐわかる」っていかにもお手軽な感じがして好ましくないんですけど、と思っていたが、今回『すぐわかる能の見どころ』によって考え改めました。「すぐわかる」はスマートに核心に届きやすい、という意味があったのだと発見です。
まぁ、それはどうでもいいけど、この冒頭の疑問、詞章読みたきゃ、何、読めばいいの?である。
これも『すぐわかる能の見どころ』に数冊紹介されている。
数冊のなかでも、重いし、巻数多いし、古いし、入手面倒そうだし、
だけど、
やはり『謡曲大観』(佐成謙太郎・明治書院)
が目当ての能にアクセスし理解しようとするには
結局は、手っ取り早かった。曲の網羅力が圧倒的だし全曲訳付だもの。
ただ、気軽に所有できる価格ではありません。いつもながら図書館にお世話になり、館外持ち出し禁止本だったため別巻の総目録もコピーしておいた。便利。
さて、現代に生きるわたしからしてみれば、
能舞台の造り、能役者の動き、装束、面、あの台詞、シテ、ワキ、間狂言等の配役、等々、能そのものが不思議なことだらけ。
その不思議さを明晰に言葉にしてくれて、さらに新しい視点を教えてくれるのが、
『脳の中の能舞台』(多田富雄・新潮社)
「コンピューターは、別々のファイルの情報を移しかえながら、同時に処理することができる機械である。Aのファイルの情報を、全く次元の違うBのファイルへ自由に移して処理できるのだ。違う次元の問題を扱うファイルに情報を移動させることを、「ワープする」という。能舞台では、こういうワープが日常的に行われている。」
ファイル間で情報を移動させることもワープというのだとわたしは知らなかったけど、能の構造を捉えるのに、これほどわかりやすい説明はなかなか無いと思う。著者は本業、免疫学という分野の学者なのだそうです。本職著作について松岡正剛さんの『千夜千冊』で『免疫の意味論』が紹介されている。