書道展を観るため銀座へ。何年ぶりだろうか。
外国人のギャラリーも多く書家自らの作品を語る解説は英訳され、書家の日本語解説と通訳の英語バージョン両方を聴ける幸運な場面に居合わせることが出来た。出掛けに母が「やめてほしい」と憮然としていたアオザイを着ていったため、会場では外国人関係者と間違えられてしまい母の憮然に根拠を与えてしまったが。
大人になってからよちよち手習いしたことのある書道だけど、わたしは書の見方もとんとわからない。それでもこういう時、自分なりの基準を持って楽しめるのは、筆を持って半紙を山のように費やしても費やしても到底満足するものなど出来なかった経験があるおかげだ。
それにしても書家と外国人ギャラリーの質疑応答は興味深かった。
文字一字一字が持つ意味、それが熟語となった時の字の比重、白と黒の静と動のバランス、等々
深く知ってなきゃそれは出てこないなぁという質問をするギャラリーにはエキゾチックなものへの知的好奇心が端緒となって、次第に厚みを増してきた知性が感じられる。
外国人のギャラリーも多く書家自らの作品を語る解説は英訳され、書家の日本語解説と通訳の英語バージョン両方を聴ける幸運な場面に居合わせることが出来た。出掛けに母が「やめてほしい」と憮然としていたアオザイを着ていったため、会場では外国人関係者と間違えられてしまい母の憮然に根拠を与えてしまったが。
大人になってからよちよち手習いしたことのある書道だけど、わたしは書の見方もとんとわからない。それでもこういう時、自分なりの基準を持って楽しめるのは、筆を持って半紙を山のように費やしても費やしても到底満足するものなど出来なかった経験があるおかげだ。
それにしても書家と外国人ギャラリーの質疑応答は興味深かった。
文字一字一字が持つ意味、それが熟語となった時の字の比重、白と黒の静と動のバランス、等々
深く知ってなきゃそれは出てこないなぁという質問をするギャラリーにはエキゾチックなものへの知的好奇心が端緒となって、次第に厚みを増してきた知性が感じられる。