みたり*よんだり*きいたり*ぼぉっとしたり

映画のこと、本のこと、おもったこと。

メーネ・ヤルヴィ/日フィル/バーバー・グリーグ・ショスタコヴィチ

2006-06-30 03:13:29 | きく
2006.6.29(木)19:00開演
サントリーホール

バーバー:弦楽のためのアダージョ

グリーグ:4つの交響的舞曲

ショスタコーヴィチ:交響曲第5番《革命》

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最高に楽しい演奏会でした。
指揮のメーネ・ヤルヴィ氏の魅力なのかな。
あとは、自分のコンディションなのか、各楽器の音も、
それぞれが重なる様子もくっきりとそれも生き生き聴こえてきて、
音を追っているだけでも楽しくて、前半2曲は初めて聴くのに、瞬間惹き込まれたし、バーバーのアダージョのなんという静けさ、そして重なりの面白さ。
ショスタコーヴィッチは、もう、旋律が人の気持ちを揺さぶる、そう揺さぶられる旋律なんだ、と改めて気づかされたのです。
プレ=モーツァルトからアンコールまで、とにかく生きているという感じの音だったし、休符の時に次の音への期待が募るし、
聴くほどに音楽って”ほんまに楽しい”と思う演奏会でした。

ストランヴィンスキー「プルチネッラ」/都響

2006-06-30 03:09:19 | きく
2006.6.27(火)19:00開演
東京文化会館

ロッシーニ:歌劇「イタリアのトルコ人」序曲

レスピーギ:組曲「ロッシアーニ」

ストラヴィンスキー:バレエ音楽「プルチネッラ」

ジョアン・ファレッタ指揮
東京都交響楽団

休憩後、プルチネッラがストーリー性に富んでいて、小編成の魅力を楽しめました。

長い夜

2006-06-27 01:50:55 | きく
受話器からきこえてきた鳥の声でわれにかえった。

一瞬で過ぎ去ってしまう長い夜。

2006.6.23(金)19:00開演
サントリーホール

ブルックナー:交響曲第8番

読売交響楽団

天窓

2006-06-27 01:20:40 | きく
四谷のライブハウス〈天窓comfort〉でピアソラライブを楽しんできました。セカンドステージのヴァイオリンとピアノのデュオにもほれぼれ。
2006.6.25(日)
ライブ前の腹ごしらえ。
四谷アトレ1F TINUN THE Noodle Bar
トムヤムクン・ヌードルとゴーヤの炒め物美味しかった。

SAY YES

2006-06-25 00:52:50 | よむ
何度も言われたい”SAY YES”
(1991年CHAGE&ASKA、甘美な歌が流行りました。)
・・・
じゃなくって、
できるなら
一生聞かないで済みますように、
と願う
”SAY YES”

(あの)橋下弁護士著
『最後に思わずYESと言わせる最強の交渉術~かけひきで絶対に負けない実戦テクニック72~』(日本文芸社)

打々発止の交渉事は御免ですが、
いつ何時こういう場面に出会わないとも限らない。
自分では、最強!負けない!交渉術など使えないけど、
せめて
「あ~、この手で来てるのね」
と窮地に立たされた時に思えたら
しめたもの・・?

・・音色の記憶・・・・・都響/モーツァルト・・

2006-06-23 11:46:04 | きく
2006.6.22(木)19:00開演
サントリーホール

モーツァルト:セレナーデ第8番「ノットゥルノ」

チィコフスキー:組曲第4番「モッツァルティアーナ」

イベール:オマージュ・ア・モーツァルト

モーツァルト:交響曲第39番

ジョアン・ファレッタ 指揮
矢部達哉 ソロ・コンサートマスター

東京都交響楽団

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ただ心地良さを楽しめば良い、
冒頭のセレナーデの輪唱スタイルの面白さからそう思って、そのままゆったりと2曲目へ、ちょっと気持ちが散漫になった頃、突如、両頬をはさまれてグイとむけられるように、弦の音が流れこんできました。あ、この音は、と記憶を探り、あとでプログラムを確認すると、そう矢部達哉さんのソロ。その音の美しさを讃える記事を時折目にして聴いてみたいと願っていたところ、以前の都響の演奏会で初めて機会に恵まれ、その音色は鮮烈な印象を残していました。今、聴いている音色が記憶の音と結びつくほどに、印象深い美しさを残していたのですね。

ところで、わたしが音楽を好きになったのは、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番を聴いたときから。ハスキル、グルダ、内田光子と買い揃えて20番だけを繰り返し聴いていた。そしてでも、そこからちっとも広がっていない。たまたま演奏会で聴けて、心地良さを楽しめたらそれで良い、という感じが今のところちょうど良い。

物語

2006-06-14 08:53:58 | よむ
「所詮はラベリングです」
とDSMについて説明をしながら、言った人がいました。真正面から批判できない場所で、それでも一言出てしまったかのような言葉でした。
患者をわかろうとするプロセスを説明した上で、優劣の問題ではなくパラダイムの違いにより精神科分類学は自然科学たりえない、と熊木徹夫は『精神科医になる~患者を〈わかる〉ということ』(岩波新書)の中で述べています。客観性や再現性を追求し、殊更に科学を標榜しようとするこの分野への違和感が丁寧に解きほぐされていく一冊です。
著者が治療の根拠としているのは、薬を介して患者の〈生体との会話〉を行う中で治療者に生成されていく物語。

------------------------ 引用 ----------------------------

精神科医の専門性のおおもとは、「物語」の作成のすべにあるといってもよいであろう。だが、「物語」は、臨床において両刃の剣である。すなわち、治療に圧倒的な説得力を与えそれを成功に導くこともあれば、治療者の独断がまかり通って治療状況を破壊へ追いやることもありうる。

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当然のごとく物語が生まれるだけでは何の作用もないけれど、問題はそれの伝達と二者間の距離であると指摘をして行くなかで、治療者自身の状態を常に意識に上らせることと治療者が二者間の距離コントロールすることの重要性を著者は説いていきます。また、患者を安堵に導く比喩が物語の伝達に有効であるのを、(疾患により物語の取り扱いは異なることを前提として)不安神経症の具体例を挙げながら説明されています。

精神科医とタイトルがついていますが、
もっと日常的にも、あなたをわかりたい、というおもいをもっている人には、示唆に富む本だと思います。

「そしてそのほとんどが、「物語」の筋を追うように、やがては治療者の手をはなれてゆく。」



静寂への偏愛

2006-06-14 01:39:12 | ぼぉっとしたり
どこもかしこもやかましい街に暮らすようになって、知らず知らずのうちに順応しているみたいだけど、それでも、ラジオもテレビも喫茶店のBGMもコンサートの咳にもスーパー袋のスーパー音にも電車内でのあるいは居酒屋でのおしゃべりの意味わかんない声の大きさにも隣の子育て中のお母さんの怒鳴り声にも耐えがたきを耐えて暮らす日々なのは、昔から”ながら”作業が出来ない自分がどちらかというと、いえ、いわなくても不器用で融通が利かないからだと思っていました。でも、芥川也寸志の”静寂vs音楽"論は安らぎを与えてくれました。無響室に閉じ込められたような真の静寂は狂気を誘発することもあるけど、日常的な静寂は人の心に安らぎをあたえ、美しさを感じさせる。

「静寂は美しい」と。

音楽に惹かれるのも「静寂が美しい」からというのは、一見矛盾しているようであまりにも美しい説明です。先日のツィメルマンの音の消えゆくさまを聴かせる演奏の余韻が残っていたため、まさにピンポイントフレーズでした。


静寂

2006-06-14 01:11:58 | よむ
作曲家が自ら没にした旋律は静寂の美しさを越えることが出来なかったものである、と芥川也寸志は『音楽の基礎』(岩波新書)の中で述べています。

「休止はある場合、最強音にもまさる強烈な効果を発揮する。」(P2 6行)

エピキュリアンの横顔

2006-06-12 09:35:25 | ぼぉっとしたり
初めて悔しいおもいをした。
でも、きっとこれはいいことなんだ。
おれはやめないよ。つづけるよ。

負け知らずでゆくことの危うさを察知して、
悔しいおもいを糧にしていこうとする
ちみのこころ根が
どの分野においても
枯れないように。

楽しさを身上とするちみから
ふと垣間見えるちから

わたしは
枯らさないように。