みたり*よんだり*きいたり*ぼぉっとしたり

映画のこと、本のこと、おもったこと。

迷子の言い訳

2007-10-22 11:49:21 | 散歩する
週末は秋葉原界隈をうろうろしたり、
むずむずと泳ぎたくなって、初めてのプールに行ってみたり、
R357周辺を迷ってみたり、
時間を気にしなくてよければ
迷うのって楽しい、新しい道を走ることができるから、
わくわくする。

今までの走行距離 933km

イオランタ・チャイコフスキー読売日本交響楽団

2007-10-14 13:35:34 | きく
長い間、肉声に馴染めないでいたが、そろそろじわじわと肉声恋しさが芽生えつつある。

イオランタはそんな状態のひとつのステップになってくれた感じ。

おかげでバッハのミサ曲を流し続けている。

イオランタの字幕を追いながら、視覚と聴覚、音と物語は拮抗し得ないなぁ、とうすぼんやりと思っていたが、音楽にも言語にも精通している人でもオペラは敬遠ということがあると藁谷郁美さんは書いておられたし、バッハ・ミサ曲CDの解説にも、普遍性という点で言語の問題、宗派の問題についてややこしいことであろうにわかりやすく書いてくれていた。

言語の壁、文化背景の壁、時代の壁、宗派の壁、やらやら壁はいっぱいあるけど、
壁を打ち壊してとか突き破ってとかではなくて、壁があることに気づかないほどまっすぐに届いてくる美しい音がある。

10月13日 14:00 芸術劇場
ゲンナジー・ロジェストベンスキー指揮

吉田修一とアニー・エルノー

2007-10-10 01:20:02 | よむ
小池真理子の対談集を読んでいて、
興味を持った二人。
吉田修一は写真に写っていた姿かたちが良かった。
アニー・エルノーはお話が非常に面白かった。

吉田修一の『悪人』を読みたかったけどその前に『女たちは二度遊ぶ』を読み、
続けて、アニーエルノー『シンプルな情熱』を読んだ。

アニー・エルノーは対談でもそうだったけど発言のひとつひとつに爆弾並みの破壊力があるのにいっさい力みが感じられず、なんともスマートにさらりとした印象。それは『シンプルな情熱』の印象にそのまま通じる。”PASSION SIMPLE”・・PASSIONに囚われた人間がどうなるか、あまりに個人的な告白の文体をとりながら、(おそらく誰もが少なくともわたしは)共感というレベルを超えて我が身に覚えがありすぎて客観的に読めなくなるところに恐るべし作家の客観性がある。

「その人を待つ時間」を味わいきることだけを選択する生活、脆弱なわたしはそんな苦しくて怖い状態には持ちこたえられるわけがなくて、針がそちらに傾きそうになると慌てて気持ちを逸らすことばかりに専念する。
みっともなくて馬鹿げていてどうしようもなくて不毛なことだらけにうつつを抜かしきれるって、なんて強くて豊かなんだろうと思いはするけれど。ど。ど。ど。ど。

『シンプルな情熱』アニー・エルノー 堀茂樹訳 早川書房

『女たちは二度遊ぶ』は短編集。
腹を空かせて俺を待つ女に自分の存在価値を見出して、そしてこれでもかとそれを確認したがるから大事なものを大事にできなかった俺を描いた『どしゃぶりの女』が良かった。ちょっと”説明”が多すぎる気がしたけど。




できないかもしれない、できるかもしれない。

2007-10-08 00:41:38 | 散歩する
お天気も良いし、早起きできたし、今朝はどこへ行こうかなと目的地を決めないまま出かけたが、わざと輪行袋は持たなかった。あそこを目指せば往復で100km超、行ってみたいけど、でも、行ったら帰ってこなきゃならない。無理よね、でも、行ってみちゃおっかな、と自転車乗ってからも女心と秋の空状態だった。
自転車に乗られる御仁にとってはごく当たり前の距離なのだと思うけど、100kmライドというのは、わたしにとっては一つの憧れだ。自転車に乗った当初は、途方もない長距離に思えてもちろん乗れるわけがないし、しんどい思いをして乗りたいとも思わなかったが、100kmというきりのいい数字は、出来るわけがないという思いから徐々にもしかしたら出来るかもしれないという欲望装置となっていた。

ストレスの少ないサイクリングロードだったせいもあり、なんとか100km超走ってきた。往きはまだ良いけど、復路は体力なくてよろよろするし、向かい風でまぁ、きつかった。

のどかな田舎道だったので、食事をするところもなかなかなくて、昔懐かしいドライブイン!で昼食。
これを食べたんだけど、嬉しかったな。

走る緊張感やらエネルギー放出感から解放されて、食べるという満たされていく安らぎ感。

今までの走行距離 840km

・・・でも、膝に痛みがでてしまった。
   自転車漕いでいるぶんには筋肉痛にもなったことがなかったから、かなり気   になる。お風呂入って一眠りして起きたら激痛に変わっちゃっているし。アイシングしなきゃいけなかったらしい・・・。お風呂で温まる方が良いのだと思ってた。

新宿末広亭

2007-10-05 12:45:12 | きく
久しぶりに落語。
ついこの前だと思っていたのに、
前回、寄席に行ったのは去年の11月、浅草演芸ホール。こぶ平時代のお話を聞いた時に鳥肌がたった記憶が今だ鮮烈な襲名後の正蔵さんのお話と聞くたびに何となく色気があって鮮やかで見事と思える小朝さんの出演を目当てに出かけたのだ。ところが、この日の舞台は進行にひどく緊迫感があり落語に疎いわたしは事情がよく飲み込めないでいたが、実は林家こん平さんの舞台挨拶があり何というかその会場全体を「人情」というようなものが濃い空気になって満たしていたような稀な場面に遭遇することができたのだった。

それで、久しぶりの末広亭。
ここは小沢昭一さんのお話が聞きたくて、ヒールからスニーカーに履き替えて駆けつけて以来。
なんだか、ぼぉ~っとしながら笑いたかった。
桂歌春さん(だったと思うたしか・・・)の自殺作家ネタのお話は印象的だったな。

「ある人の中のある言葉の意味の了解は、その人が生れ落ちてからその言葉に接してきたタッチポイントの総体で決まっている。」(茂木健一郎著『脳と仮想』新潮文庫P.196 L11)

三島由紀夫自決の報道に接したのはその事件性を理解できるには程遠い年頃だったが、その時の親の反応の大きさに尋常ではないものを感じたのだった。かろうじてそういう下地を持って後年三島由紀夫という固有名詞が私の中に定着した。
この日の末広亭は、お客さんの年齢の幅が広がり若い層が増えていて、会場内はなやかな笑い声が響く。
噺家の発した例えば三島由紀夫という名前を私はほぼその固有名詞として受け取っているのかしら・・?固有名詞はいとも簡単に各人の中で普通名詞に変換されうる。
ある共通の前提がなければ、話して聞いて笑うということすら成立しないんだ・・・。