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映画のこと、本のこと、おもったこと。

観世会定期能

2008-07-14 01:56:02 | よむ
2008年 7月 6日 (日曜日) 11時00分
観世能楽堂

能「自然居士」
 観世 清和

狂言「伯母ヶ酒」
 山本 則俊
 
能「半蔀」
 坂井 音重

能「鉄輪」早鼓之伝
 梅若 万三郎


ぎりぎりに入場してしまったので配布物にちゃんと目を通していなくて、「自然居士の謡」が入っている詞章が配られているのに気がつきませんでした。世阿弥がカットしたとされる冒頭の「自然居士の謡」が演じられているその重大さに気づいたのは、この場面も半ば過ぎ、ちっとも記憶に無い科白が続いているので持参した謡曲のコピーに一所懸命目を走らせても見当たらなくて焦っていたところでした。残念、もっときちんと心構えて聴きたかったな。「自然居士の謡」は現在では希少なので余計その価値が増すのでしょうか、でも、そればかりではなくこの場面それ自体に、この能の導入部として、全体への伏線として、自然居士という人間のキャラクターを際立たせるためとその役割は大きいと感じたのですが、どうしてカットされてしまったのでしょうね。

ところで、能をみているわたしには見えているものより見えていないものの方が余程多いであろうことをというよりも、おそらくはほとんみえていないであろうことをつくづくと感じるのですが、最近、小林秀雄のエッセイ(山本学朗読・朗読CDシリーズ「心の本棚」)を聞き歩きしている中、『美を求める心』で作者が「先ず、何を措いても、見ることです。聞くことです。」と言い、見るという経験、聞くという経験がいかに「感じる」ということを深めていくものなのかについて言葉を尽くしていることに、少し支えてもらっている気がしています。

小林秀雄という人は「知」の人だ、という強い思い込みがあったのですが、徹底して「感」の人だったのですね。知と感なんて分けるのも陳腐なんだけど、能について語っている『當麻』という文章を読んでも、能作品についての知識を披露するような箇所は見事に一箇所も無い。ただただ(といってももちろん知ありきでなければ書けないところだらけですが)能舞台を観た自分に何が起こったのか、どんな想念が湧いたのかを語っていて、そして鋭い洞察に至る。それは、独自過ぎるくらい独自な文章です。

映画 『今日という日が最後なら』

2008-07-06 01:20:57 | みる
1983年生まれの柳明菜監督、1986年生まれの柳裕美さん出演の『今日という日が最後なら』を観てきました。映画にはところどころ細部についてのあれっ?!感(微妙な違和感のようなもの)はあったんです。ただそんなことはちっちゃいことだと思わせる作品全体の力は清々しくて凛々しくて、そして、強かった。八丈島の映像風景が見たくて行ったのに、ヒロ演じる本多章一(この映画を観るまで知らなかった)に目を奪われっぱなしでした。いや~かっこいい。

シネマート六本木で7/11まで上映のようです。

まんじゅう

2008-07-05 22:49:44 | たべる
どういうわっけかまんじゅうに首っ丈になっている。先日、神楽坂でおまんじゅうを食べて以来、特に和菓子好きでもなく、あんこ好きでもないのに、あのおまんじゅうが恋しくって仕方がない。それは今まで食べたどんなお饅頭の味とも違っていた。その味は無理やりこの世の言葉でいうとすれば、全くもってあいかわらず変な話かもしれないけれど、自由、の味がした。
それでそのおまんじゅうを5個ほど食べてから、わたしにも自由の味が作れるかもしれない、と不遜なことと知りつつ、なんでもかんでも「自分でー!」を連発する幼児期への退行現象か?のように、やってみたい、と思った。
あたり一面粉雪が舞ったように小麦粉を振り撒くと、まぁ、ふき取るのが大変。
おそるおそる粉に水を入れていると、何だかいつまでたってもダマダマなので、つい、じゃばっと入れすぎてしまう。すると今度は、永遠にからめとられるスライムから逃れられない。しょうがないから粉たして、するとやはり硬いやろ、またしょうがないから水足して、なんてことしてたら、とても、不味いまんじゅうが出来上がりました。みごとに不味い。知識と経験が欠しくって、段取り悪くって、いかんせん大雑把。これで自由の味を目指そうとははは・・・