文芸春秋(2007年11月号)にぱらぱらと目を通していたら、「裁判員法には違憲と考えられる点がそれほど多々あるのだ。」という文章が目に入った。『裁判員制度のウソ、ムリ、拙速』(大久保太郎著)という記事だったが、目からウロコ的な感じで、かなり印象的だった。裁判員制度については広く言われているわりに、わたしなどは理解が浅いというか、無いというか、どこか自分の身に降りかかっては来ない気がしている暢気さだったが、それにしても素人がそのような場にとことこ出掛けてって顔出すのみならず、口まで出して大丈夫なん?という素朴過ぎの疑問やら、仕事やら休んで行かなあかん、てえらいこっちゃなぁ、とか、関心はあっても傍観者でいられることと、自分の意思に関わらずかなりの拘束力で当事者とならざる得ないことの間には、おそらく自分が自分自身に想定している精神力のその想定ラインを脆くも崩される可能性もあるんちゃう、とかいろんな不思議がありつつ、でも、やっぱり日々日常に裁判員制度について深く考えるなんてことはないし、そんな機会もなかった。「憲法に触れる可能性もある」といわれると、改めて、そういう見方もあるのか、と思いもするけど、法律そのものが違憲とされるか否かを裁判所が判断できるのかどうかよくわからない。そもそも、この裁判員制度の広報用DVDが最高裁から発行されていて、電通が製作している。『ぼくらの裁判員物語~裁判員制度広報用アニメーション~』というタイトルで図書館にあったので、こちらも見てみた。『これ一冊で裁判員制度がわかる』(読売新聞社会部裁判員制度取材班著・中央公論新社)も併せて読んでみたら、制度の概要自体はわかりやすかった。でも、この本の98ページ「法律の知識がないのに、的確な判断が出来るか?」と設問され、それに対して、「法律の知識は、裁判員に必要ありません。求められているのは、普通の生活を送っているあなたの「良識」や「常識」です。~以下略~」と答えられている箇所を読んでも、「普通」「常識」等のとても曖昧なラインで必要とされているというのでは、対処療法的な能書き的な感じで根本的な疑問や不安は解消されないのではないでしょうか。新聞の投書欄に目を通すと、社会状況や裁判そのものに興味が高まったり、理解が出来たりするから積極的に参加したい、等の意見も見られるので、みんな尻込みしてるばかりじゃないんだな、とわかるけど、ただ、裁判と自己研鑽はまた次元の違うことだと、わたしなどは思います。育児をしている人が裁判員になった場合には、託児の方法を、介護をしている人は介護施設の手配を原則自分でして、参加しなければならないそうです。大企業では休暇制度も対応し始めているそうですが、多くの企業はそれどころではないでしょう。裁判員制度に参加するための社会環境も現時点では参加する人にとって負担の重いものであることも疑問であり、不安であると思います。
「tristesse(かなしさ)を味わう為に涙を流す必要がある人々には、モオツァルトのtristesseは縁がない様である。それは、凡そ次のような音を立てる、アレグロで。(ト短調クインテット、K.516)」
(『モオツァルト』小林秀雄)
こんなふうに誘われたら、
その音をききたいと切望せずにすむことはむずかしい。
「成る程、モオツァルとには、心の底を吐露する様な友は一人もなかったのは確かだろうが、若し、心の底などというものが、そもそもモオツァルとにはなかったとしたら、どういう事になるか。」
「自分を一っぺんも疑ったり侮蔑した利したことのない人に、どうして人生を疑ったり侮蔑したりする事が出来ただろうか。・・・略・・・この十八世紀人の単純な心の深さに比べれば、現代人の心の複雑さは殆ど底が知れているとも言えようか。」
歩きながら聞く小林秀雄は、話し相手の反応や理解を待つよりもどこか一人話し進めてゆくその話し方から誇り高く気難しい印象と、早口でかん高い声から、意外に身近な感じを持った。
まず相手の歩調ありき、よりも自らの歩調を堅持しているかのように聞こえる話し方をする人のその文章を読むと、そこには、洞察のある内なる声が何重にも響いていることに驚かされる。
小林秀雄の『モオツァルト』を読んでいると、
やはり吉田秀和の『モーツァルト』を読み返したくなった。
それは、『戴冠ミサ』の紹介に始まる。
第一楽章<キリエ>を聴いた時のあの奇妙な違和感を、
まさか次のような喩えをもっていいのけてしまうなんて。
この柔らかくてしなやかな一撃。
「その合唱は「キ」と強く叫んで、「リエ」と突然声をひそめる。このベートーヴェンより、もっとベートーヴェン的なスビト・ピアノは、祈りを感じさせない。
それはむしろ、そとでさんざん遊びほおけた末、泣かされてきた子が、家の敷居をまたぐなり「おかあ」と強く叫んで、急に流れ出してきた涙といっしょにあとの「さん」という音を飲みこんでしまったかのようだ。」
「モーツァルトは、すべてをあるがままに信じる。自分の中に天才があることを、美しい声をもったアロイジアが嘘つきの裏切り者であることを-パリのサロンの凍てつくような冷たさを、ザルツブルク大司教のヒエロニムス・コロレドの尖った鼻の先に宿っている小さな悪意を何一つ見逃さないで、心に刻みつかせておきながら-信じる。何を、どう信じるかの問題ではないのだ。そんなことは、もうきまったことであり、すべてはあるがままにある。」
今までは、読んでいる中に次々と紹介される曲をききたくとも手元にCDがなければ聞けなくて、結局、肝心なところに手が届かない思いをしていたけど、ナクソス活用のおかげでききながら読みを出来るようになって、これは大きくうれしい。
●『モオツァルト 無常という事』小林秀雄(新潮文庫)
●『モーツァルト』吉田秀和(講談社学術文庫)
(『モオツァルト』小林秀雄)
こんなふうに誘われたら、
その音をききたいと切望せずにすむことはむずかしい。
「成る程、モオツァルとには、心の底を吐露する様な友は一人もなかったのは確かだろうが、若し、心の底などというものが、そもそもモオツァルとにはなかったとしたら、どういう事になるか。」
「自分を一っぺんも疑ったり侮蔑した利したことのない人に、どうして人生を疑ったり侮蔑したりする事が出来ただろうか。・・・略・・・この十八世紀人の単純な心の深さに比べれば、現代人の心の複雑さは殆ど底が知れているとも言えようか。」
歩きながら聞く小林秀雄は、話し相手の反応や理解を待つよりもどこか一人話し進めてゆくその話し方から誇り高く気難しい印象と、早口でかん高い声から、意外に身近な感じを持った。
まず相手の歩調ありき、よりも自らの歩調を堅持しているかのように聞こえる話し方をする人のその文章を読むと、そこには、洞察のある内なる声が何重にも響いていることに驚かされる。
小林秀雄の『モオツァルト』を読んでいると、
やはり吉田秀和の『モーツァルト』を読み返したくなった。
それは、『戴冠ミサ』の紹介に始まる。
第一楽章<キリエ>を聴いた時のあの奇妙な違和感を、
まさか次のような喩えをもっていいのけてしまうなんて。
この柔らかくてしなやかな一撃。
「その合唱は「キ」と強く叫んで、「リエ」と突然声をひそめる。このベートーヴェンより、もっとベートーヴェン的なスビト・ピアノは、祈りを感じさせない。
それはむしろ、そとでさんざん遊びほおけた末、泣かされてきた子が、家の敷居をまたぐなり「おかあ」と強く叫んで、急に流れ出してきた涙といっしょにあとの「さん」という音を飲みこんでしまったかのようだ。」
「モーツァルトは、すべてをあるがままに信じる。自分の中に天才があることを、美しい声をもったアロイジアが嘘つきの裏切り者であることを-パリのサロンの凍てつくような冷たさを、ザルツブルク大司教のヒエロニムス・コロレドの尖った鼻の先に宿っている小さな悪意を何一つ見逃さないで、心に刻みつかせておきながら-信じる。何を、どう信じるかの問題ではないのだ。そんなことは、もうきまったことであり、すべてはあるがままにある。」
今までは、読んでいる中に次々と紹介される曲をききたくとも手元にCDがなければ聞けなくて、結局、肝心なところに手が届かない思いをしていたけど、ナクソス活用のおかげでききながら読みを出来るようになって、これは大きくうれしい。
●『モオツァルト 無常という事』小林秀雄(新潮文庫)
●『モーツァルト』吉田秀和(講談社学術文庫)
NHKソフトウェアというところが製作している『昭和の巨星 肉声の記録』と題してシリーズ化されているCDがある。これの小林秀雄の対談が聞きたくて、いつもは自転車で行く道を歩くことにした。肉声の威力を改めて感じる。だって、活字だとしんどいけど、歩きながらお話聞けるんだったら敷居を少し低くしてもらえる感じがするでしょ。お話きいているうちに、”それ!おもしろそうじゃない!”なんて思って本屋さんに寄り道して、今では書店の棚に少なくなってしまった小林秀雄の文庫本を探し出して購入したりしてしまう。本屋といえば、最近も近所に小規模本屋さんが出来、さっそくのぞいてみたがさっぱり魅力がない。わたしはたいていの場合一度で用が足りる都会の大型書店が好きだ。今時の町の本屋さんはまず用が足りたためしはないしまぁそれはわたしの好みと書店の品揃えが合わないだけだからいいとしても、何よりもちっともわくわくしない。ほしい本は在庫なかったけど、あら、こんな面白そうな本もあるの?!という発見なり出会いがないじゃない。そんな中、最寄り駅すぐの本屋さんは別格だ。わたしは密かにそこの店主をリスペクトしている。この場合密かにだろうが公にだろうが別に全く何の違いもないけど、今日もその本屋さんに誑し込まれてしまった。小林秀雄の文庫本を見つけ出し、先日から読みたいなと思いつつ、見当たらなかった『自動車絶望工場』(鎌田慧・講談社文庫)を注文し、さっさとお店を出ればいいのに、ついつい、ついつい魔が差してしまう。わくわくさせられてしまうのだ、この本屋さんは。あれもこれもどれもこれもが面白そうな本に見えてきてしまうように陳列されているのだ。歩くんだからかばんは軽い方が良いが、すでに数冊の本が入っている上に、さらに5冊ほどの本で膨れ上がったかばんを持ってさらなる道のりを歩かなければならなかった。借りるスピードに、購入するスピードに、読みたいと思うスピードに、読むスピードが追いつく日は、たぶん、来ない。
そんな亀読みでも、近頃、読んだ数冊はどれもメモに残す価値あり。
『ワキから見る能世界』(安田登・生活人新書)
わたしのための観能案内書決定版といえる一冊。
『著作権という魔物』(岩戸佐智夫・アスキー新書)
著作権、わからないから読んでみた。で、著作権、やっぱり何だかわからない。
そんなんでいいのか?と自分にいいたい。しょうがないからついでに著作権にもいいたい気持ちになる。
『なぜ僕は「悪魔」と呼ばれた少年を助けようとしたのか』
(今枝仁・扶桑社)
そんな亀読みでも、近頃、読んだ数冊はどれもメモに残す価値あり。
『ワキから見る能世界』(安田登・生活人新書)
わたしのための観能案内書決定版といえる一冊。
『著作権という魔物』(岩戸佐智夫・アスキー新書)
著作権、わからないから読んでみた。で、著作権、やっぱり何だかわからない。
そんなんでいいのか?と自分にいいたい。しょうがないからついでに著作権にもいいたい気持ちになる。
『なぜ僕は「悪魔」と呼ばれた少年を助けようとしたのか』
(今枝仁・扶桑社)
2008年6月5日(木)19:00開演
サントリーホール
チャイコフスキー
幻想曲テンペスト
幻想序曲ロミオとジュリエット
交響曲第4番
アレクサンドル・ラザレフ指揮
読売日本交響楽団
やばい、今日の演目ちっとも事前に聞いてない、となったのが演奏会当日朝。
今からCD入手は無理なので、迷ったけどナクソスに会員登録して、さわりだけ、という感じで聞いてから出かけた。
前半幻想2曲の間は、指揮者の動きが終始視界を大きく占めるのが気になっていたけど、後半はそれを覆ってしまうほどの演奏だったと思います。交響曲4番、楽しかったな!ほぼ初聴きでその曲を好きになれるって、曲の力と演奏の力がうまい具合に結ばれて伝わってきた感じなのでうれしい。
サントリーホール
チャイコフスキー
幻想曲テンペスト
幻想序曲ロミオとジュリエット
交響曲第4番
アレクサンドル・ラザレフ指揮
読売日本交響楽団
やばい、今日の演目ちっとも事前に聞いてない、となったのが演奏会当日朝。
今からCD入手は無理なので、迷ったけどナクソスに会員登録して、さわりだけ、という感じで聞いてから出かけた。
前半幻想2曲の間は、指揮者の動きが終始視界を大きく占めるのが気になっていたけど、後半はそれを覆ってしまうほどの演奏だったと思います。交響曲4番、楽しかったな!ほぼ初聴きでその曲を好きになれるって、曲の力と演奏の力がうまい具合に結ばれて伝わってきた感じなのでうれしい。
2008年6月1日(日)11:00開演
観世能楽堂
邯鄲
シテ観世欽之丞 ワキ宝生閑
水無月祓
シテ山階彌右衛門 ワキ大日方寛
鵜飼
シテ武田尚浩 ワキ野口能弘
水無月祓と鵜飼の合間、観世清和舞う仕舞の「芭蕉」は強く印象に残った。
わずかに腕を上げるその所作一つで異界をみせてしまう、ありえないことが起こってしまう、そんな感じ。仕舞は面も装束も着けない、つまり異界へ導く装置がないということ。だから、わたしのような昨日今日ちょこっと能をみに来ましたというようなど素人には通常、仕舞は退屈な時間となる。なるはずが、この芭蕉ではならなかった。会場内のざわざわとした(まぁ、どうしたものか上演中もあちこちから耳障りな音が絶えない!)空気が徐々に、しいん、と鎮まりかえってくる。散漫だった人々が舞台一点に集中していく。体操やフィギュアスケートやバレエのように身体の運動性そのものが芸術的な価値を持つのとは全く違う。動き自体が人間業を超えていると感じさせるものではない。訓練を積まない人間にも難なく出来るであろう動作から、日常を超えたものが引き出されてしまう。おそらく、能が強くわたしを惹きつけるのは、この秘められ過ぎた身体性だ、と思った。何かある、と強烈に感じるのに、何が隠されてるんだか秘められているんだか、さっぱりわからない、というそういうところ。
「能にとって、所作の通り道が型であろうとなかろうと、それにかかわる発動の出所が、所作の純度を決定するのです。」(『能楽への招待』梅若猶彦著・岩波新書)
発動の出所というのは、内面、意志ということのようです。
観世能楽堂
邯鄲
シテ観世欽之丞 ワキ宝生閑
水無月祓
シテ山階彌右衛門 ワキ大日方寛
鵜飼
シテ武田尚浩 ワキ野口能弘
水無月祓と鵜飼の合間、観世清和舞う仕舞の「芭蕉」は強く印象に残った。
わずかに腕を上げるその所作一つで異界をみせてしまう、ありえないことが起こってしまう、そんな感じ。仕舞は面も装束も着けない、つまり異界へ導く装置がないということ。だから、わたしのような昨日今日ちょこっと能をみに来ましたというようなど素人には通常、仕舞は退屈な時間となる。なるはずが、この芭蕉ではならなかった。会場内のざわざわとした(まぁ、どうしたものか上演中もあちこちから耳障りな音が絶えない!)空気が徐々に、しいん、と鎮まりかえってくる。散漫だった人々が舞台一点に集中していく。体操やフィギュアスケートやバレエのように身体の運動性そのものが芸術的な価値を持つのとは全く違う。動き自体が人間業を超えていると感じさせるものではない。訓練を積まない人間にも難なく出来るであろう動作から、日常を超えたものが引き出されてしまう。おそらく、能が強くわたしを惹きつけるのは、この秘められ過ぎた身体性だ、と思った。何かある、と強烈に感じるのに、何が隠されてるんだか秘められているんだか、さっぱりわからない、というそういうところ。
「能にとって、所作の通り道が型であろうとなかろうと、それにかかわる発動の出所が、所作の純度を決定するのです。」(『能楽への招待』梅若猶彦著・岩波新書)
発動の出所というのは、内面、意志ということのようです。
演奏会で観客が演奏中にプログラムを取り出してページをめくる音、これは付近の席にいる者にとっては、かなり耳障りです。何しろ紙一枚ですから、まさか衣擦れならぬ紙擦れの音がひどく他人の神経を逆撫でている、などとは思いも寄らぬことなのでしょう。悪意を持ってプログラムを見るなんていうことは通常ありえないことですし、むしろ配布されたプログラムを読むというのは歓迎される行為ともいえます。でも、演奏中は、これ、爆音に等しいです。とても不愉快です。ましてや、プログラム開きついでに、手持ち無沙汰になって、プログラム丸めてパラパラ漫画見るみたいに、ページぱらぱらぱらっ、ぱらぱらぱらっ、て手遊びするのは、これはやはり言語道断の域に入るでしょ。先日、振り替えで行った読売交響楽団の芸術劇場での演奏会ではアンケート用紙が配布されましたが、このアンケート用紙、演奏中、わたしの並びの席ではずっと折り紙になってました。わたしもこの時までは、折り紙遊びが音出し遊びになるって知らなかった。折り紙遊びしちゃうくらい演奏からは気持ちが逸れているから、折り紙遊び人は、楽器の音と折り紙の音との関係については思い至る余地がないのでしょうね。
さらに、
昨日の能楽堂では、近隣席の方、かばんの中にスーパーのポリ袋が数個入っていて、そのかばんから上演中、上着を探して取り出している。
なかなか探し出せなかったようで、わたしはスーパーのポリ袋が擦れあう音をとても長く聞いていなければならなかった。さらさらにスーパーの小さいポリ袋に紙パックのお茶を入れて持参したようで、上演中ずっとそのポリ袋入りお茶を握りしめている。やはりわたしは絶え間なくポリ袋の音を聞いていなければならなかった。
おねがいです、静かにしてください。
さらに、
昨日の能楽堂では、近隣席の方、かばんの中にスーパーのポリ袋が数個入っていて、そのかばんから上演中、上着を探して取り出している。
なかなか探し出せなかったようで、わたしはスーパーのポリ袋が擦れあう音をとても長く聞いていなければならなかった。さらさらにスーパーの小さいポリ袋に紙パックのお茶を入れて持参したようで、上演中ずっとそのポリ袋入りお茶を握りしめている。やはりわたしは絶え間なくポリ袋の音を聞いていなければならなかった。
おねがいです、静かにしてください。