みたり*よんだり*きいたり*ぼぉっとしたり

映画のこと、本のこと、おもったこと。

さぁてと

2005-01-31 01:30:51 | ぼぉっとしたり
1月も終わりだ。
泡を吹いたり火がついたりしてるはずのころだけど、
ぼちぼち、でんなぁ。

って見栄をはってよゆうかましてる場合じゃない。って。

でも、
ま、いっか。
人生の中でもかなり素敵な1月だった

・・・独り言・・・

品川へ

2005-01-26 18:00:42 | 散歩する
初めて降り立つ。

京都から東京へ向かう新幹線の中では、品川駅は東京嫌いのわたしにとって
「さて東京だ」と気持ちを切り替える分岐駅だった。

ところで、
群衆の中のひとり、ということに思いを巡らせていた。
数百人、千数人の人が集まる場所で人に出会うことはむずかしい。
名刺が交換され、言葉が交わされてもむずかしい。
明確な目的に沿った沿った戦略がなければ、群衆の中で自分を活用することは困難だ。
けど、それがあれば群衆の中で自分を活用することは徒労も多そうだけど、
かなり面白そうだ。

とあたりまえのことをぬぼーっと思った。

2005-01-22 15:32:36 | ぼぉっとしたり
美容院へ行く。
おそらく私の子どもを少し大きくしたくらいの年齢であろう
担当の美容師さんに開口一番「成長しましたね」とお褒め??の言葉をいただいた。
?・・・?・・・?
「前回は6ヶ月ほど開きましたよね。あれから今回は3ヶ月”しか”(笑)経ってませんよ!」

髪が伸び放題になるのは何といっても経済的だしあまり気にならないけど、
美容院で髪を切ったり巻いたりしてもらうのは、賭け事をするような(したことないけど)緊張感があり、
ついつい足が遠のいてしまう。

次は梅雨に入る前に行けるかな~

今日のいろいろ

2005-01-15 01:53:00 | ぼぉっとしたり
今日の
就業率・・(新人)といえども実力派という感じで、労働力率・・は(昇格)ともいえるのかな、そして、失業率・・(意欲がポイント・・だが、そろそろ隠居?)の扱いという印象。


今日の
『狂人の太鼓-木版画による小説-』(リンド・ウォード*国書刊行会)

ここ数日、ことばと映像の情報の質量の違いについて気になっていたところに丁度今日はこの本を見つけた。文字のない小説と解説されている。文字の、また色彩の無い作品では今までに『ヴァイオリニスト』(ガヴリエル・ヴァンサン)に深い感銘を受けている。こちらが短編小説だとすれば『狂人の太鼓』は長編で、もし文字があるとすれば冒頭の一文の導入の巧みさにわたしは惹かれた。


今日の
○BEETHOVEN  piano sonata NO30.31.32
 Vladimir Ashkenazy

○BEETHOVEN  piano sonata NO31.17
 CLAUDIO ARRAU

-NANA-

2005-01-11 19:46:44 | よむ
2年ほど前、わたしは学校を卒業してからの長いブランクを経て再び教室の机に座り先生の講義を受けることになった。先生はわたしより遥かに年若く、しかし、圧倒的な知識量と巧みな話術と端正な顔立ちを持っていた。息抜きなのかサービスなのかコミュニケーションの一環なのか興味からか講義の最中に突然、先生は生徒全員に「好きな漫画」を聞いた。その先生より若い20代になりたての女性が「なな」と答えた。先生はまるであらかじめ分かっていたかのように「・・らしいね。なんとなく似合ってる。」と言った。わたしは、といえば「子どもが愛読している”ちびまるこちゃん”です。」などと、どうもその場にふさわしくない答えしかできなかったのだが。『NANA』という漫画が人気があるということをわたしはその時知り、以来機会があったら読みたいと思っていた。古本屋さんでも自分で買うほどではなかったので読むチャンスも無いままだったが、ここに来て、子どもが「”NANA”買ったけど読む?わたしはイマイチだったからあげる」とわたしの手に『NANA』が巡ってきた。

連休中風邪でダウンしていたので、休みあけを待って今日は午前中に病院へ行った。
予想していたこととはいえ、その混み様は、”冬(風邪)””連休明け”そしてこの病院に限りだが明日の”休院前日”と確かに三段攻めの模様だった。しかしわたしは秘かにほくそ笑んだ。『NANA』を持参して正解だった。

とはいえ、止まらない鼻水に加え、(世界の中心で・・では一切そんなことは無かったのに)すんなりNANA漫画に感情移入してしまったとで、何とも、やっぱり群集?の中で読むものではなかったようだ。

志賀直哉

2005-01-10 23:36:04 | よむ
ほんの数年間だけだが志賀直哉と同じ時代をわたしは生きていたことに、その年譜を見ながら気づいた。意外な気がした。この高名な作家の作品をついにわたしは読まずに今まで来てしまい、その存在も時間も遠いと思い込んでいた。数年前に観た入江泰吉の作品展に、須田剋太、杉本健吉の作品、そして海雲の書「いつか死ぬことを知りつつ生きており」が展示されていたことも、今この文庫本に挿入されている昭和21年、志賀が東大寺海雲宅を訪れた際の写真をみて、改めて思い出し「天平の会」ということで、なるほどつながったのだ。茶論の方で休憩することはあっても高畑に今も残る志賀直哉邸にはついに訪れることがなかったのが、作品を初めて読んで今更に悔やまれる。

ふとしたことで『清兵衛と瓢箪』のお話を紹介していただいた。それがきっかけで、もしかしたら出会うことがないままに過ぎたかもしれない志賀直哉の本を手に取ることができた。



『清兵衛と瓢箪 小僧の神様』(志賀直哉著・新潮文庫)

唐招提寺

2005-01-10 14:50:01 | ぼぉっとしたり
唐招提寺を最後にみたのは「平成の大改修」が始まって間もない頃だつた。
最も好きなお寺だったうえに、駐車場が開放的で止めやすかったため、気が向けばふらりと立ち寄っていた。わたしが最後に訪れた日は、平生の静寂な寺ではなく金堂にはすでに工事の柵が張り巡らされ、参拝の人が列を作るほどだった。改修前の金堂を観ておきたい方たちが大勢いらっしゃったのだろう。多大な年月を費やし施される改修の後の金堂を果たしてわたしは見ることができるだろうか、と平均余命に照らしたら辻褄の合わない思いに、しかしあの時わたしは捉えられていた。その予感はそう外れてもいなかったとみえ、今では気が向いても、想いが募っても、ふらりとあの砂利の駐車場に車を止めて、そこから先は清い静寂が広がる山門をまたぐことはなかなか叶わない距離に移り住んでいる。
1月9日TBS時空サイエンスロマン「金堂復元・唐招提寺1200年目の真実」をみる。テレビの良いところはアップで見られるところだ。6月の開山忌に訪れても鑑真和上の御像はこうも間近でみることが出来るわけではないのだから。
アップでみるといえば、やはり9日NHKの芸術劇場ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第3番」は圧巻だった。ピアニストの指がアップで映るのだから。