みたり*よんだり*きいたり*ぼぉっとしたり

映画のこと、本のこと、おもったこと。

話す。

2005-02-27 23:40:52 | 散歩する
同じような話を聞いて、どれもこれも似たりよったりで聞き手は別段興味も湧かないから、とりあえず聞き流している場合。わたしは弁別してもらわないといけない。話し手それぞれに程度も内容も差がありながら、聞き手はエンドレスリフレインで聞いてるように内心うんざりしている。これはホントはチャンスだったんだ。差があるのに差が問題にされてないんだから。程度も高く内容も濃い、という人の話は朴訥でだろうが流暢であろうがどう話そうが、あくびをかみ殺している聞き手にもきちんと響いていくものだ。程度も内容もたいしたことない自分の話をどう話したら聞いてもらえるか。
慣れていないとはいえ、これがわたしには欠けている。
ことは了解した。
だかしかしでも、いったい、どうしたら良いのだろう・・?

それにしてもわたしの”志”とはこうも軽くあっさりとベルトコンベアーに乗せられたように流されてしまうものなのだ、
ということが改めて確認できた。
わたしを支えてるのは、これ、しかないんだけどな。
それが弱点だと知ってから1年、量でカバーしようとしてきて今、これから、
に立つ日。

いとうせいこう

2005-02-23 00:19:51 | よむ
っておもしろい。
本も読んだことないし、
「ほれ!テレビに出てるめがねかけた人でしょ。」と言われても、
テレビもほとんどみないからわからない。
今の今まで、お名前だけ知ってる知らん人だったけど、
文楽公演プログラムに文章を書かれていた。
『距離と融合の”クール”』今、拝読して、うなってしまった。
人形浄瑠璃の、いかんともわたしでは言葉に出来ないあの魅力の秘密を
まさにそれ!と手を打ちたくなるくらいに取り押さえてる。
あわててHPやらなにやらを検索してみると、
そうだ、『見仏記』の著者だった。何度か公演があって、ポスターを見ては行こう行こうと思いつつだったのだ。残念!

本日は、人形浄瑠璃の幻覚から現実に引き戻す装置をちゃんと言葉にして、あの舞台は観客の感情移入のためだけの仕掛けではないと謂ういとうせいこう氏が知らん人から尊敬する人になった日。

『おはん』と奥野健男と宇野千代と青山二郎 そしてビセンテ・アミーゴ

2005-02-20 21:07:59 | よむ
 おはんに心理的マゾヒズムを語り部の男にサディズムを作者とそれに共感する自身に退廃を言い及んだのは、奥野健男である。評論する立場に立つよりも読者としての男性的な視線を感じ、ここに言及した奥野健男の背景にもまた興味が湧くが、宇野千代自身が「おはんの中にもおかよの中にも自分がゐるやうに思はれ、話し手のあの男の氣持ちも、自分の心中を描いたやうに思はれます。」と述べているのはごく自然と受け取れると同時に何とも厳しい人間性を感じる。おはんはおはんにしかなれないから世俗の物差しでははかれない幸福を全うできたのであり、おかよはおはんを理解し得ないからこそ貫き通せると言うのに。そして、あの男の心中が見えていたらおはんにもおかよにもなれないであろうに。この点を奥野健男は文楽における人形遣いとして作者、宇野千代を見ている。確かに、作品の構造としてはそれを理解できるが、生身の人間がそれを成し得たことに、わたしは驚く。
  宇野千代の作品にも実生活にもほとんど触れず、お互いの書簡を公開することでその大部分を占めている、青山二郎の宇野千代についての文章はとても不思議だ。青山二郎という人の得体の知れなさ、を感じる。知れないものは知りたくなる、とても知りたくなる。

『おはん』(宇野千代・新潮文庫)
『昭和文学全集10』(小学館)


 Vicente Amigo  POETA 
久しぶりのビセンテ♪

知らないということ

2005-02-16 13:40:58 | ぼぉっとしたり
不登校・ひきこもりという言葉がポピュラーにつかわれても、
その実態や実情を知る人は少ない。
それはなにもこの二つの事に限ったことではない。
「知らない」「その立場に立ったことがない」のである。
無知のまま発言することは自分の無神経の上に胡座をかくことになることを、
多くの人の目に触れ、それで生計を立てている文章を書いている方たちは、
「知らない」ということを
忘れないでほしい。

ずっと ほしかった

2005-02-16 01:22:04 | ぼぉっとしたり


アロマウォーマーをやっとの
こと思いきって入手する。
キャンドル使いのではなくて、
ライトのタイプが
ずっとほしかった。
ふたつは少しの値段の
違いなのに、そこがなかなか
越えられなかったけど、
白い陶器のこのライトが
セールになってるのを
店頭で見た瞬間、決めた。


悩んでオイルは「ベルガモット」を選んだ。

わたしはわたしのためにも生きていいのだ
ということに、途方にくれる初心者だ。

*当たり*

2005-02-08 23:05:48 | ぼぉっとしたり
・東京国立近代美術館の「痕跡-戦後美術における身体と思考-」のチケット2枚。

・~東京ビッグトーク~「石原知事と議論する会」の参加証

が・・・当たった・・・

うれしい


でも・・・・・
チケット2枚だって(ふ~ん)
誰か・・一緒に行きませんか?

人の身になる

2005-02-06 00:49:58 | よむ
少しの気恥ずかしさを伴いながら今日のタイトルを入力したけど、
その手の話ではなくこの手の本の古典的名著とよばれている
『人を動かす』(D・カーネギー 山口博訳 創元社)
第八章見出しの引用。

「人を扱う秘訣は、相手の立場に同情し、それをよく理解することだ。」
というテーマを具体化するために、
ここには、庭手入れを生きがいにする妻とその妻に想像力の欠片もなくクレームする
夫のエピソードが挿入されている。夫妻はある日、ふとしたきっかけで一緒に庭手入れの作業をするのだが、この共同作業から会話がはずみ今までの夫のクレームは誉め言葉に変わり、これまでより円満になった、というものである。
続いて、著者自身の歳月と共に変化した人への言葉かけについて述べられる。

同情、あるいは共感と理解の基盤は経験である。
でも、一人の人間が一生のうちに経験できる領域と量には限りがあるので、
「人の身になる」人や身になる領域に自ら制限を設けるのは、合理的なことなのだろう。
ただそれは同時に、自らの想像力に制限が設けられることにもつながる。

それにしても、
「人を動かす」のは、誰が何のために動かすのか。AがAの利益のためであろう。
同情、あるいは共感と理解は誰が何のためにするのだろう。
この手の本を読む時の、違和感はいつもある。