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事務所で使っているマグカップ
サンウルブズとカープの珍しいコラボ
親鸞と唯円の生々しい問答(歎異抄9条)
歎異抄は五木寛之氏、吉本隆明氏、司馬遼太郎氏、遠藤周作氏、梅原猛氏といった著名人だけでなく、多くの人に感銘を与え、虜にしてきた、宗教の垣根を越えて読み継がれてきた異色の宗教書だそうだ。今回のオンライン講座では、親鸞聖人とこの書を書いた唯円の生々しい対話を記録した歎異抄の9条を学んだ。
「念仏まふしさふらへども、踊躍歓喜のこころおろそかにさふらふこと」から始まるこの9条、何故に念仏をどれだけしても躍り上がるような心がわいてこないと唯円は嘆くに至ったのだろう。講義の中で、世間の諸々に全く執着せず、ひたすら後生往生を願い求めて念仏読経を修する 「後世者」の存在を教えてもらった。彼ら後世者は「浄土を願う者は死を恐れてはいけない。いやもはや死を願うべきだ」といった思想を展開、その考えに惹かれつつも、そうなれない自分に唯円は葛藤があったようだ。
その唯円の問に対し親鸞は「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」と、自身も唯円と同じ疑問を持っていると大いに同調する。そしてずっとそのことを考えてきたと自らの思いを吐露する。
そして親鸞は言う。往生を喜べない愚かな凡夫だからこそ救われる、すなわち、仏に背く煩悩具足の愚かな凡夫だからこそ、阿弥陀仏は救いの目当てとして下さる。煩悩があるからこそ、阿弥陀仏は私を見つけてくれると。そして本来なら喜ぶべきことを喜べないからこそ往生できるのだと。ところで「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」で有名な悪人正機説も逆説的な論理展開で有名だが、ここでもその手法を使い、読者に考える機会を与える。
それにしても、煩悩があってよかったね、とはこれ如何に。凡夫だからこそ、その自覚を持つ煩悩に満ち満ちた存在だからこそ、阿弥陀仏は手を差し伸べようとしてくださる。まだぼんやりとしか理解していないが、今回の講義で少しわかったような気になっている自分がいる。とりあえず、自らを善人だと思う傲慢さは捨ておく。それで良しとしておく。
後世者 - WikiArc(ごせしゃ)
世間のことがらに執着せず、ひたすら後生往生を願い求めて念仏・読経等を専ら修する者。
【2023年4月のブログより】
歎異抄の名前の由来についても教えてもらった。気にしてみると「嘆く」と「異なる」というネガティブな漢字で構成されている。異義を唱える者に反論するでもなく怒るわけでもなく、優しく包み込み、そし考えを諭す親鸞聖人の優しさ。これもこの書の魅力なのだろうと思った次第だ。
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