「おおしたさん」のブログです

2005年6月に始めたこのブログ、鍼灸院をやってた頃のことを含め、今も気ままに書いています。

人生は短いから不幸でいる暇なんてない

2023年11月13日 | 宗教、哲学
昨日の東京ウィメンズプラザフォーラムでいただいたトートバッグにある「育業」ですが、東京都が育休を取得しやすい社会の雰囲気づくりのために令和 4 年 6 月に発表した育児休業の愛称のことだそうです。

人生は短いから不幸でいる暇なんてない
気づいていない人が多いけど

生き続けたいという動物の本能に対し、人間は「死」を知る生き物として、どこかに絶望を背負いつつ生きている。生き続けるだけで修行じゃないかと思うほどの。

「人は必ず死ぬ」という恐怖と面と向かってやり合える人間なんてそうそういない。だから宗教やスピリチュアルが必要なのだろう、古今東西、未開の奥地にまでもそれらしきものが存在する。私は凡人として生き抜くために、ただただ阿弥陀仏を信じれば必ずや往生できるといった、他力による親鸞聖人曰くの浄土教がぴったりと合ったみたいだ。まあ家の宗教が浄土真宗で、手っ取り早く色々知る事ができたのもあるにはあるが、なかなかどうしてその信仰は変態親鸞のなせる技、かなり興味深いものだと思う。まぁそんな感じで、今も信仰と言っていいのかわからない程の軽薄さでそれらしき本を読んだりはしている。だからといって修行を否定するどころか尊敬しかないのだが、私としては、阿弥陀仏という大船に運んでもらうのが一番自分らしく最後まで生き切れるのではないかと思い、今も信仰の真似事みたいな事をしている。

私の持つ死への恐怖は多分「死ぬ存在に幸福はあり得ない」と言い切る哲学者・中島義道氏に通じるものがあるかもしれない。その恐怖に悩まされたり、逆に忘れたりする自分がいるが、いつも心の奥深くにそれが蠢いている。

そんな感じなので、ふとした時に意識が絶望に向かいがちだ。だが「余は今まで禅宗のいわゆる悟りという事を誤解していた。悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思っていたのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きている事であった」と、脊椎カリエスによる想像を絶する痛みと格闘しながら生き抜いた正岡子規が病牀六尺に書いているように、どんなに苦しく辛い時も、平然と生きてみたいとは思っている。しかし思えば思うほど、自らに厳しくできない自分の弱さが浮き出してくる。

だからといって「どうせ死ぬのだから何をしてもいい」という気持ちになんてなれるわけがない。その考えでは救われないどころか苦しくなるばかりだというのがなんとなくだがわかっているから。ここから思うに、正岡子規につながる「ちゃんと毎日を平気に淡々と生きよう」というのが最適解で、そう思う事が大切なのだとの考えに至る事ができた親の死には大変感謝している。

ということで、いつも死を意識しているわけではないが、「人生は短いから不幸でいる暇なんてない。気づいていない人が多いけど」といった言葉に心動かされるわけだ。結局なるようにしかならないのは確か。だから人との小さな縁に感謝し、今まで以上にその縁で得た喜びや嬉しさを、これでもかというほどのアイメッセージで伝えたい。そして喜びを人と目一杯共有しつつ、老いをやり過ごしたい。そして死に怯えることは誰もがあると思いたい。

「人は必ず死ぬ。だから不幸である。しかしそこから目をそらすことこそ最も不幸である。」とは哲学者・中島義道先生の言葉。 

 


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