
写真はお昼前に撮った外苑前の歩道橋からの写真です。
今日はとっても良い天気でした!!
【2023年4月のブログより】
恥の文化は神道と武士道から理解できそうな気がする。しかし欧米で言うところの罪と、日本でいうところの蔑視された民の悲哀といった、親鸞から紐解かれる罪や悪。そこが全く見えてこない。その違いがわかれば少しは理解が深まりそうなので、これから罪や悪について少しばかり調べてみようと思っている。
罪とか運命とか、今思っていることを
4月に書いたブログからあまり進歩していないこの私。まだ浅はかな知識と引き出しの少なさで書くのもあれなのだが、将来書いた記事を読み返した時に自分自身どう思うか、今現在の知識で書ける「罪」や「運命」について、学んだ事を書いておく。
キリスト教を主たる宗教とする欧米は、内面の良心を重視する罪の文化が成熟した。神の戒律を守れば心は昇華され、それに反したときに罪の意識を強く持つ。常に神が自らを見守るため、神に見られているという規範の中で行動する。神との契約が全てなので、人が見ていようが見ていまいが、また周りからして身勝手な行動だと捉えられても、神との契約の中で自らが正当化されれば、例え戦争を起こそうとも、それは正義だ。そんな考えだから、自分が迷惑をかける分、相手の迷惑も許容するといった、お互い様の考えが成立する。
そういえば、何故に浄土真宗の信者でもないのに多くの日本人が親鸞を参照し続けてきたのかとの問いに、碧海寿広さんは「人間の悪と罪をめぐる問いを深めるための既存の試みの中で、この宗教家の到達した地点こそ日本における最高峰だとみなされてきた」と書いていた(考える親鸞、碧海寿広著)。
悪と罪。親鸞から紐解くこの解釈を、自分が学んできた現時点での知識で整理してみる。悪業は本人の意思を超えた宿命が決める。自ら悪さをしようと思ってもそうそうできるものではないし、かといって絶対に人を殺めないと思っていても、何がしかの不可抗力で人を殺めてしまう事もある。だから運命は後付けでしかなく、そこから逃がれる術はない。それらを甘んじて受けざるを得ない絶望、悪人たる私たち凡夫の救いが修行にあるわけもなく、ただただ阿弥陀仏への帰依しかない、といった感じか。
ところで運命と宿命について、五木寛之さんの本を読んで、運命は個人的なものもあるが、地震や戦争等、共同体全体でも背負うもの。片や宿命はもっと自分に近く、個人の背負ったドロドロとした、なんとなく重いどうしようもない人間関係のもつれというか、やりきれなさというか、そんな感じで捉えている。
「過去は変えられないが、過去への見方は変えられる」とは私の好きな言葉の一つ。起こった事への捉え方次第で、それが苦しみから喜びに変わる事もある。あのつらい体験も今の自分になる布石だったのだと考える事ができたら、少しは気持ちも変わるというもの。そこに悪人正機が加われば、もっと今を許せるのではないかと思うのだが、申し訳ない、なんだかこのブログの着地点が見いだせないので、このくらいで終わることにする。
時間なんで(^◇^;)
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