「おおしたさん」のブログです

2005年6月に始めたこのブログ、鍼灸院をやってた頃のことを含め、今も気ままに書いています。

私の思うずるい人

2023年12月14日 | 考えていることとか思っていることとか

【2023年9月のブログより】
結局ずるい人を寄せ付けない人は、自分に対して責任ある行動をしてきた人だけだと思う。責任はずるい人の言動や言いつけに対するものではなく、自分の行動に対してだけある。そのためには正しさをしっかり理解し、正しい判断をする事が大切になる。そんな責任ある行動をとる事ができるよう育てるのが教育であり子育てだと思う。

私の思うずるい人

勉強ができようができまいが、運動ができようができまいが、たとえ収入に不安があっても不安がなくても、自由に生きている人がいれば、不自由に生きている人もいる。で、いつも考えるのだ、その子の生きやすさにつながる子育てとは果たして何を言うのだろうと。私はその子の興味に関心を持ち続けるだけで良いと思うのだが、万人に共通するかはわからない。ただ、良い教育や人に先んじるためのスキルアップといった、結果にこだわる子育てに重きを置くのではなく、その過程やその子の興味にだけ関心を持ち続ければ、子ども自身どんな状況に置かれても、生きやすい場所を勝手に見つけつつ生きていくとは思っている。

ところで表題のずるい人の話、加藤諦三先生から知識を得るに、平たく言えば責任を負わない人の事になるかと思う。負担からうまく逃げ続ける人がそうで、口では良い事を言いながら、その実高齢者や障がい者、はたまた学生を食い物にしているとか、本当の事を上手く隠しつつ、金儲けをしているような人の事を言うと解釈している。

負担から逃げる人を「ずるい人」と定義すると言ったが、ブラック企業や理不尽な場所で生きる人とか、ずるい人にカモられている人が、その負担から逃げるのをずるいと言っているのではない。だが、ずるい人を見極められないのももしかしたら「ずるい人」の範疇に入るかもしれない。その線引きは難しい。

だったらどうすればいいのだろうか。先ずは当たり前だが、ずるい人に近づかない事。そのためにはずるい人を見極める能力を養わなければならないが、とりあえず「非社会性」を発揮する人を見極める必要はある。そのために、普通とか当たり前を学ぶ事を大切にするのはどうだろう。それなら簡単で、挨拶や服装、作法をちゃんとやる事で身につけていける。当たり前の事だと言われるかもしれないが、自らが日本社会における当たり前ができていたら、それができない人に近づくことなんてできやしない。奇天烈な人に魅力を感じても、そういう人とずっと一緒にいる事に負担を感じる事ができれば、おのずと遠ざかっていくものだから。だいたいにおいてずるい人は非社会性を含んでいるので、その入り口たる、ずるい人を見分ける能力を普段の生活から学ぶ事はとても大切な事のように思う。

でも出会ってしまったらどうするか、取り込まれてしまったらどうするか。ずるい人は言葉巧みにうまく懐柔してくるし、近くにいたらカモられ続けるばかりなので、とにかく離れる事が必要だ。そのためには良い人を演じていてはダメだ。良い人と思われたいという事からきっぱりと縁を切る。そして離れたら余計な事は一切しない。そこで相手に怒りや不安といった感情を見せるから余計な攻撃を受ける。とどのつまり、意識から消すのが一番良い防御なのだ。とここまで書きつつでもしかしだ、これまで自分に合わないとの思いだけで、私は誰かに負担を押し付けつつ逃げていたかもしれない。となると、私こそがずるい人の最たるものかもしれないと、これを書きながら思い始めている。

誰かにとってのずるい人であったとしたら、大変申し訳ない。

【2023年2月のブログより】
食事中にトイレの話はしる。
葬式に白いネクタイをしていく。
余命いくばくかのお嬢さんの誕生日に父親が「役にたつ」という理由で棺をプレゼントする。
少し極端だが、こういう事を「非社会性」という。

【2023年2月のブログより】
普通」がわからないと人は生き辛さを感じてしまう。
「そういうものだから」をいちいち分解して考えていては、辛くなるのも当然だ。
本来ならその「普通」は家族というコミュニティーで教わるべきなのだが、家族という単位が崩壊しつつある今、そのポピュラリティの維持は容易ではない。 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿