「おおしたさん」のブログです

思っていることや考えていることを、気ままに書いています。

世間虚仮

2023年08月15日 | 考えていることとか思っていることとか
昨夜子どもとちょっと飲みにでかけたので、、
本文とは異なる、全く意味のない写真ですみません。

そして今日のブログは自分に対しての殴り書きなので、、 ^◇^;)


聖徳太子の「世間は虚仮なり。唯、仏のみ是れ真なり」という言葉、妃の橘大郎女に残した遺言とのこと。その意味は、この世にある物事はすべて実態なんてない、ただただ仏の教えのみが真実だ、といった感じだ。

この言葉で思い出したのが世界の終焉。例え宇宙を五劫で表したとしても、世界の終わりは必ずやってくる。そう、存在するものは全て終わりがやってくる。宇宙でさえ終わりを知っているのに、たかだか100年も生きる事ができない自分が、さも永遠に生き続ける事ができるように振る舞ってしまう。「もう今日はいいや、終わりにして酒でも飲もう」怠け心に満たされた私が、今日も明日も当たり前に来るかのように生きる毎日。肉体は必ず朽ちるのに、たまたまその肉体に感情が入っているだけなのに、自分という袋がいつかは破れるという現実を分かっているのに。

話は変わるが、ヴィパッサナー瞑想は全ては無常だということを悟るための訓練だと理解している。全ての事は変化し続ける。苦痛も悲しみも、喜びや楽しさでさえも必ず終わりがやってくる。だからその感情が引き起こす諸々を、平常心のもと俯瞰し続ける作業を10日にわたって訓練する。今苦しい生活を余儀なくされている人も、気楽な生き方を享受している人も必ず死ぬ。「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり」。船頭や馬子も、旅の途中に生きるようなものと続く奥の細道。そうなのだ、バックパッカーでなくても、私たちは永遠に立ち止まる事ができない旅人だ。旅のなかに住んでいるようなものなのだ。だからこそ、変化し続ける日々を俯瞰する訓練が必要なのだ。

いつも喜びに満ちて生きている人なんているわけがない。とにかくこの世に生を受けた者は平等に死ぬ。この誰もが平等に死ぬという事実、実はこの事実への意識が私を楽にしてくれた。他者に対する憧れや嫉妬、劣等感等、どんなに羽振りが良さげでも、皆死に向かって生きている。死に向かって生き続けなければいけない旅人として、お互い死ぬまで生き続けよう。そんな気持ちになってしまう。どんな死に方をするか分からないが、死の前では皆な平等、「世間虚仮唯物是新」を思い出すたびにこう言った考えが広がり、生きることは違った意味で楽になった。

だから「どうせ人は死ぬんだから、生きている間はちゃんと生き抜いちゃおう」といった考えに変わっていった。とはいえ、ふとした瞬間に訪れる死への恐怖は皆と同じく存在する。だが「人生というのは結局、人生の意味の問題に正しく答えること、人生が各人に課する使命を果たすこと、日々の務めを行うことに対する責任を担うことにほかならないのである。」というフランクル先生の言葉や、「人を信頼し人に貢献すれば自ずと自分を好きになる。そして幸福に帰属する場所が生まれる」といったアドラー曰くの共同体感覚に助けられ、死への不安も、なんとかかわしつつ生きている。どうせ死ぬ、どんな死に方をするかわからないが、その苦を背負って生き続ける恐怖と、皆そこに向かって生きざるを得ない仲間意識。やはりどこかのコミュニティーに属していないと人は生きるのが難しいと改めて思ったりする。だから人と生きていくことが大切なのだと、聖徳太子の言葉を通してぼんやりとだが、思い出した次第だ。


「人生というのは結局、人生の意味の問題に正しく答えること、人生が各人に課する使命を果たすこと、日々の務めを行うことに対する責任を担うことにほかならないのである。」
フランクル先生のこの言葉には随分と助けられました。

人は人と繋がっている時にも幸福感を感じる。それにはアドラーのいうところの「人を信頼し人に貢献すれば自ずと自分を好きになる。そして幸福に帰属する場所が生まれる」というあの共同体感覚をどう磨くかがポイントになる。

隣の芝はどす黒い
隣の芝もいろいろだ。外から見るだけでは判断できない。だから妬み気分が満ちてきた時「色々あるよね!応援しているよ!」と、道ゆく人を「どす黒い」と決めつけて、密かに言葉をかけてみたりする。
隣の芝がとっても青く見える時もあるかと思うが、隣もおたくの芝を羨ましく思っているかもしれない。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿