昨日NHKの教育テレビで、
「ETV特集 日本と朝鮮半島2千年」と言う特集番組を放送をしていました。
私はその中の「⑨”朝鮮通信使”和解の為に」と言う番組を見ました。
朝鮮通信使が始まった事情は、途絶えていた日朝間の交易を再開したい対馬の宗氏が、
家康の名を騙って朝鮮王朝に謝罪文を送ったのがきっかけであったそうです。
朝鮮王朝の方も家康の手紙ではない事を承知の上で、
日本の謝罪を受け容れた事にして、交流の再開を図ったのだそうです。
朝鮮王朝にとって日本側と交流を再開したい訳の一つが、
秀吉軍が拉致して帰った、自国民の奪還であったのだそうです。
日中歴史共同研究でも、南京事件で殺害された人の数について、日中間の認識において、大幅な違いが有りその認識の違いを埋めることは出来なかったそうですが、
秀吉軍に拉致されたとする人数も、5万人~20万人と、はなはだ幅が大きかったようです。
朝鮮人の中には、各藩にとって重用されていた技能者なども多数有って、返還ははかばかしい成果を上げる事はできなかったようです。
朝鮮王朝のもう一つの目的に、日本人の文化性を高めて、
朝鮮に対してもう侵略行為を起さなくさせたいというものが有ったそうで、
王の意を受けて、通信使の人々は文化的交流に勤めたそうです。
それで朝鮮通信使は江戸までの道中、楽団を編成して音楽を演奏しながら進んで行ったのだそうです。
大名行列の様に、土下座を強いられる事もなかったので、庶民は喜んで行列を見に集まったそうです。
沿道の住民にしたら華やかで異国情緒豊かなパレードに、興奮させられた事でしょう。
全行程歩いて移動するしか無い時代ですから、沿道の住民への宣伝効果は絶大だったかと思われます。
瀬戸内海に入った通信使が最初に泊まったのが、上関だったと言っているのを聞いて、
「あ~ あの上関だ!」と思って、私は今昔の感に打たれたのでした。
こんな歴史ある地区も、原発を造られたら大変な事になってしまうのに、
行政は地域の住民の意思を踏みにじってでも、原発を造る積りなのでしょうか?
それはさておき、朝鮮通信使は上関の美しさに感心し、
続いて広島県の鞆の浦の美しさに更に感心し、
鞆の浦では感激して、鞆の浦の風景を讃える詩を書いて、土地の人に贈ったそうです。
その後噂を聞いた道々の宿舎で通信使は次々と、詩を書いて欲しいと依頼される様になってしまったそうです。
更にその上、道筋で通行人が通信使に「書」を書いて欲しいとねだったりするようになったそうですが、
どんなに疲れていても、通信使は国王の期待しておられることが、日本人との文化的交流である事であったので、快く依頼を引き受けて書いていたそうです。
こんな訳で江戸時代に12回有った朝鮮通信使の行列は、華やかな行事として沿道の人々の楽しみな存在となっていたのだそうです。
日本側も江戸幕府の命令もあって、沿道の各藩の朝鮮通信使に対するもてなしは、心のこもったものとなり、
ご馳走も文字どうり・馳せ・走り回って集めて、整えられたものであったそうです。
江戸幕府は武士の政権であったけれど、平和を守る意志の強い政権であったと思いました。
近隣の友好がこんなに長く、平和的に続いたのは世界史でも珍しい事だったのだそうです。
江戸時代265年間は、近隣国との平和と友好を守っていたのでした。
現代日本も戦後65年目に入りましたが、後200年間の平和も、
かつての日本に実績が無い訳ではないし、夢ではないのかもしれないと思います。
是非江戸時代にあやかりたいと思いました。