ふうちゃんのお城ブログ

お城巡りについての記録、城郭検定試験の体験談

第13回(再掲)ふうちゃんのお城ブログ 伊達政宗公像にまつわる話(仙台城)

2022-01-05 10:22:21 | 日本百名城

わたしが愛読する内田康夫の推理小説の中で特に好きな作品の中に

「杜の都殺人事件」があります。

いわゆる浅見光彦シリーズではありません。

主人公は美人カメラマンの池野真理。

仙台城、伊達政宗公の騎馬像前で、観光客相手に、注文写真を撮って売っています。

わたしが、政宗公像の前を訪れた時、店を広げ写真を扱っている女性がいました。

写真を注文し、「小説のモデルはあなたですか」と尋ねたら、

しばらく、無言で、

写真の注文は受け付けず、

わたしのカメラで写真をとってくれたのです。

もちろん、無料です。

それが、この写真です。

 

仙台城の本丸跡に建つ、

伊達政宗公騎馬像(銅像)は観光スポットです。

この騎馬像が初代ではないことをご存じでしょうか。

 

実は銅像としては二代目なのです。

(石像の政宗像を入れると三代目、今大崎市岩出山城跡)

昭和39年に設置されました。

初代はこちらです。

今、仙台市立博物館の館庭にあります。

胸から上の胸像だけになっています。

もちろん、初めから胸像だったわけではありません。

どうして、胸像だけになってしまったのでしょうか?

 

実は、この話をわたしが初めて知ったのは、

玉川大学通信教育のスクーリングで、

学生の模擬授業を通してでした。

仙台からやってきた学生でした。

この時も、学生さんから、教材ウオッチングをさせてもらいました。

 

わたしは、受講者全員に授業者を体験させるために、

授業冒頭、導入3分の模擬授業をしていました。

この授業では、

まず、二代目の写真を提示します。

次に、初代の写真を提示です。

そして、

「なぜ、政宗公の銅像が胸像だけになってしまったのか。」という問いを引き出します。

これが、太平洋戦争の授業の導入、問題設定の場面なのです。

冒頭3分の授業は、ここまでですが、

この模擬授業がきっかけとなり、現地で写真を撮ったり、

資料を調べてみたりました。

わたしの教材ウオッチングです。

 

初代の銅像が仙台城に設置されたのは、昭和10年(1935年)のことです。

(高さ3.4m、重さ4.5t)

太平洋戦争の激化にともない、日本は金属不足に陥り、

金属類回収令により、騎馬像は、昭和19年(1944年)に撤去され

仙台城跡から姿を消したのです。台座にある四枚のレリーフ(後述)まで、

騎馬像とともに出陣となったそうです。

 

昭和20年(1945年)郷土史家が塩釜市の東北ドック敷地内の金属集積所から騎馬像を発見し、

紆余曲折を経て、

昭和36年に「仙台市立博物館」の開館に合わせて

博物館の庭に置かれることになりました。

伊達政宗公の胸像が戦争を通して生き残ったことは、それだけで感動に値します。

 

詳しく、お知りになりたい方はこちらをどうぞ。

https://gogo-miyagi.com/194#content_13662_0_2

 

城の勉強を進める過程で、四枚のレリーフに出会いました。

今までよく見ることはありませんでしたが、

じっくり、写真を撮りながら、調べてみました。

 

元服(11歳)

朝鮮出兵(26歳)

支倉常長遣欧(47歳)

権中納言(60歳)

人生の節目が綴られているように思われます。

 

宇和島城に行ったときには、城の勉強の過程で知った

貞山公御教書(宇和島城の藩主になった息子秀宗に与えた藩主として心得)を実際に見てきました。

 

本年前期に放送された朝ドラ「おかえり モネ」で

貞山公(政宗公)遺勲が登場します。

毎朝これを唱える登米森林組合の女主人がでてきます。

その映像をみていて、宇和島城の御教書のことが頭に浮かんできました。

「仁に過ぐれば弱くなる。

義に過ぐれば固くなる。

禮に過ぐれば諂(へつらい)となる。

智に過ぐれば嘘を吐く。

信に過ぐれば損をする。

氣長く心穏かにして、萬(よろず)に儉約を用いて金銭を備ふべし。

儉約の仕方は不自由を忍ぶにあり。

此の世に客に來たと思へば何の苦もなし。

朝夕の食事うまからずともほめて食ふべし。

元來客の身なれば好き嫌いは申されまじ。

今日の行くをおくり、子孫兄弟によく挨拶をして、娑婆の御暇(いとま)申すがよし」

伊達政宗

御教書と遺勲は直接関係がないようにも見えますが、

まだ、読みが浅いのかも知れません。

テレビをみていても、城で学んだことが思い浮かぶのが楽しいことなのです。