風まかせ~

自分で歩いて得た季節のきまぐれ情報です。気が向いたときに写真付きで時々出します。

鴻巣・前玉三社巡り

2024-10-06 | 寺社巡り

 鴻巣市に有る神社二社(三ツ木神社・大野神社)と行田市にある一社(前玉(さきたま)神社)を参拝する三社巡りに行ってきました。

それぞれの神社で専用の御朱印3種類をいただくと「鴻巣・前玉三社巡り満願御朱印」がいただけます。時折小雨が降る中、無事満願御朱印をいただいてきました。

 

<三ツ木神社>

 元は「山王権現」と号し、山王塚と称する小高い塚の大欅の下に祀られていました。この塚からは金環や勾玉なども出土したことから古墳であったと言われています。社伝によれば元亀2年(1571)織田信長比叡山焼討ちで逃れた僧の雲海上人が日枝山王権現の神霊を奉持して諸国を巡り、天正12年(1584)にこの地に至り、塚の上に瑞光を認めたことから小祠を建てその神霊を祀ったのが創建とといわれています。

 明治40年2月25日には村社氷川神社と天満社を合祀し社号を三ツ木神社とし、同年5月31日に八幡社と稲荷社を合祀しました。

当社は婦人病、安産、子育てといった願い事に霊験あらたかで「新編武蔵風土記稿」に「山王社 婦人病腰下の病あるもの祈りて霊験ありとて申の日ことに近郷より詣でるもの多しと云」と記録されています。古くは、安産祈願の人々が御眷属の猿の石像を一体借りていき、無事集散するとお礼として二体にして返すという風習があり眷属殿には約6000体の猿の石像が安置されています。

当社のご神木は「三ツ木神社の大欅」として鴻巣市の指定天然記念物に指定されています。(昭和37年8月16日指定)

 樹齢400~500年 目通り6.97m 樹高22m 根本10m 枝張12m

 

<大野神社>

 「風土記稿」大間村の項に「氷川社 村の鎮守なり、別当を本習院と云」と載る様に、当社は元来氷川神社と称していました。それを大野神社と改称したのは明治40年7月18日、大野村の氷川社と大字北中野の村社津門社が合祀したことに伴うものでした。

神職の吉田家が所蔵する社記「大間氷川神縁起」によると天慶元年(938)に、嵯峨天皇の末流の渡部仕が大巳貴命の神託によりこの地に社を造営したことにはじまります。長元3年(1030)には源頼義が平忠常の謀反を鎮めるために戦いを何度も挑んだが勝てなかったため、当社に獅子頭を掛けて願成ることを祈ったといいます。また神力により天永元年(1110)に沼(現在の逆川)に沈んでいた阿弥陀像を引き上げ正嘉年中(1257~1250)の干ばつには雨を降らせ、延元2年(1337)には疫病を退散させるなど霊験あらたかであったが戦乱により荒廃したとの記述があります。その後、村の再興とともに神社も再建されたようであり天保年中(1830~1844)および明治5年には社殿が老朽化したため再建が行われました。

 

<前玉(幸魂)神社>

 前玉神社は「延喜式」(972)に載る古社で幸魂(さいわいのみたま)神社ともいいます。また、正倉院文書神亀3年(726)の山背国戸籍帳には「武蔵国前玉郡」の表記があります。前玉郡の中心であった当神社の前玉から埼玉へと700年代半ばに漢字の変化があったことから県名発祥の神様と言われています。

神社が最初に祀られた時代については一説には大化の改新(645)より一世紀以上遡る雄略天皇期の古墳時代(400年代後半~500年代前半)に埼玉古墳群を守護する形で祀られたのではないかと考えられています。その名残として社は古墳群に向かって祈願するように建っています。

前玉神社は千数百年の歴史を持つ荘厳で落ち着いた雰囲気の古社であり、埼玉県名発祥の神社です。

境内社の浅間神社は近世初頭、忍城中にあった浅間神社を歓請し、古墳上にある社を「上の宮」、中腹にある社を「下の宮」と呼んで浅間の名で親しまれるようになりました。また当社には、富士の行者が己の命の終わるとき、当所にのみ雪を降らすといい残し、その預言通り6月1日の亡くなった日に雪が降り、これを奇異とした忍城主成田下総守氏長がこの地に浅間神社を祀ったという一説もあります。

 


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