自衛隊 感動!数十年もの間 救われなかった人々を助けたのは…日本軍だった…

2016年10月28日 10時34分06秒 | Weblog

自衛隊 感動!数十年もの間 救われなかった人々を助けたのは…日本軍だった…

                                     https://youtu.be/B4eQk3mmAYo

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八重山日報!「土人発言、反対派のガラの悪さも尋常ではない。沖縄差別という批判に違和感も」

2016年10月28日 08時07分16秒 | Weblog

八重山日報!「土人発言、反対派のガラの悪さも尋常ではない

  沖縄差別という批判に違和感も」  https://youtu.be/O6dkA1gqdTU

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100歳、平和願い…三笠宮さまがご逝去

2016年10月28日 06時34分44秒 | Weblog

 昭和天皇の末の弟宮で天皇陛下の叔父にあたる三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと)親王殿下は、27日午前8時34分、心不全のため、東京都中央区の聖路加国際病院で逝去された。

  宮内庁によると、本葬にあたる斂葬(れんそう)の儀は11月4日、文京区大塚の豊島岡(としまがおか)墓地で営まれる。明治以降の皇族では最高齢の100歳だった三笠宮さまは平和と自由を重んじ、大正、昭和、平成と生き抜かれた。

 宮内庁によると、三笠宮さまは27日午前7時40分頃、容体が急変し、同8時34分、妃殿下の百合子さま(93)にみとられて逝去が確認された。三笠宮さまは2012年に心臓の僧帽弁(そうぼうべん)を修復する手術を受け、15年12月2日には100歳の誕生日を迎えたが、急性肺炎で同病院に入院された5月以降、心臓機能の低下がみられた。

  三笠宮さまは1915年(大正4年)12月2日、大正天皇と貞明皇后の第4皇子として誕生された。幼時の称号は澄宮(すみのみや)。10~20代は戦争の時代で、32年(昭和7年)に学習院中等科4年を修了後、陸軍士官学校、陸軍大学校に学び、大戦中は陸軍参謀などを務めた

 港区元赤坂の三笠宮邸には27日、天皇、皇后両陛下や皇太子ご夫妻をはじめとした皇族方、安倍首相らが相次いで弔問。天皇陛下は同日に予定していたフィリピンのドゥテルテ大統領との会見を取りやめたほか、11月1日に予定していた園遊会も中止された。三笠宮妃殿下の百合子さまは27日から90日間、三笠宮、高円宮両家の他の皇族方は30日間、喪に服される。天皇陛下と、両家以外の皇族方も、同日から7日間喪に服されるという。

 宮内庁によると、28日午前9時から一般の記帳を受け付けると発表した。赤坂御用地内の三笠宮邸敷地内の仮設テントで午後7時まで。入退出は徒歩で南門から。

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三笠宮さま薨去

2016年10月28日 06時25分17秒 | Weblog

 激動の時代 生き抜かれ 昭和天皇のご聖断にお立ち会い

  27日に薨去(こうきょ)した三笠宮さまは昭和天皇の末弟として長兄を支え、大正、昭和、平成の3つの時代を生き、歴史的な局面に数多く立ち会われてきた。

  昭和7年に陸軍士官学校予科にご入学。11年の二・二六事件で反乱部隊が襲撃した東京・赤坂の高橋是清邸は三笠宮邸のすぐ向かいにあった。三笠宮さまは市谷にあった士官学校の皇族用宿舎に滞在していたが、著書で当時を回想し「市街戦が始まると機関銃の弾丸がちょうど飛んでくる方向だな、と緊張した」と記されている。

  大戦中の18年には、お印の「若杉」をとって「若杉参謀」と名乗り、支那派遣軍参謀として中国・南京に赴かれている。

  19年1月からの大本営陸軍参謀時代には、陸軍内で東条英機首相を排除しようとする動きが浮上した。若手参謀から話を聞かれた三笠宮さまが「黙認した」と誤解され、首相暗殺計画に発展。三笠宮さまは「軍人として許せない行為」として憲兵隊に通報され、未遂に終わったとされる。

 終戦を3日後に控えた20年8月12日には、皇居の御文庫附属室に高松宮はじめ皇族方とともに参集し、昭和天皇からポツダム宣言受諾の決心を下した「聖断」や、理由の説明を受けられている。

  同じころ、阿南惟幾(あなみ・これちか)陸軍相が空襲で全焼した三笠宮邸を訪問した際、昭和天皇にポツダム宣言受諾の翻意を促すよう訴えると、三笠宮さまは「陸軍は満州事変以来、大御心(昭和天皇の考え)に沿わない行動ばかりしてきた」と叱責されたと伝えられる。

 

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三笠宮さま薨去

2016年10月28日 06時16分17秒 | Weblog

主なご発言 「皇族は外交官」「国民あっての皇室」

  「だれでも音楽がはじまればじっとしておれず、踊り出すなにものかがほしい。(中略)世界がひとつにならねばならない現代においては、世界のすべての人たちが喜んで飛び出して踊れるもの、言葉が通じなくても、踊りで心と心とが通じ合ったら…」(昭和27年、『文芸春秋』秋の増刊号、フォークダンスにひかれた理由を聞かれて)

  「スポーツを通じてこの緊張した国際関係を緩和したいという念願こそ大会にかける私の期待だ。もちろんソ連の入国を拒否すればこの大会の意義もなくなるし、第一、世界選手権大会ではなくなってしまうから私が総裁をひきうけた意図も失われてしまったろう」(29年5月、東京での世界レスリング選手権大会で記者の質問に対して)

  「外国王皇族は外国語もペラペラで、政治、経済、スポーツなどについて広い意見を述べられる。それに対して日本の皇族が口の中でモガモガしゃべっているんじゃ対等の話ができない。皇族はその生活の半分以上を外国のお客さまの接待に過ごしているのだからある意味での外交官だ」(40年8月、渡米を前にした記者会見で)

  「国民あっての皇室だから、国民が皇室に何を期待するかが前提だ。皇室のあり方も、歴史の発展に沿って変わってきたのだし、これからも社会の変遷に即応していかなくてはいけない」(平成元年6月、平成皇室についての質問に対して

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10月27日の訪問者数

2016年10月28日 06時09分00秒 | Weblog

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