[国際]【海外事件簿】韓国は「売春輸出大国」? 日米豪中“遠征”女性10万人超+(1/5ページ)(2012.7.8 07:00)
韓国で売買春が社会問題化している。ソウル中心部で日本人観光客相手の売春グループが摘発されるなど規制が強まる中、若い女性が「海外旅行しながら稼げる」と日本や中国、米国、オーストラリアに“遠征売春”しているというのだ。その数は10万人を超えるともされ、米や豪州では韓国式風俗店が目の敵に。メディアは「韓国の恥だ」と批判を強めるが、韓国特有の風俗文化が背景にあると指摘する声もあり、一筋縄ではいかないようだ。(桜井紀雄)
日本が「風俗の韓流」拠点に
若い女性たちがブランド品を買い求め、大勢の日本人観光客が行き交う韓国・ソウルの明洞(ミョンドン)。このソウルの目抜き通りを舞台に日本人男性に売春を斡旋(あっせん)していたグループが4月、一斉摘発された。
聯合ニュースなどの報道によると、グループの27人が拘束され、売春をしていた女性ら25人と買春側の日本人15人が在宅起訴された。2010年に結成された組織は「一度も登山したことがない」(警察当局)にもかかわらず「明洞山岳会」を名乗り、風俗店に日本人男性を紹介する見返りに1件当たり10万ウォン(約7千円)を受け取り、これまでに25億ウォン(約1億7千万円)を稼ぎ出していたという。
だが、韓国で問題視されているのは国内の売買春だけでない。海外を舞台にした“遠征売春”も深刻な問題として受け止められている。
「日本で働けば月3千万ウォン(約200万円)の高収入が得られ、名前も知られない」
(次ページ)「風俗の韓流」現象は日本だけにとどまらず…
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[ライフ]【ベテラン記者のデイリーコラム・鹿間孝一のなにわ逍遙】イスラエルの英雄もプーチン大統領も感激「浜寺捕虜収容所」 世界一の好待遇が示す史実+(2/3ページ)(2013.7.27 18:00)
動員2万人し突貫工事、電灯も完備
当初は次々に送られてくる捕虜をテントに収容したが、2万人近い大工や作業員を動員して突貫工事で居住棟を建てた。診療所、礼拝堂、パン工場などが設けられ、日本語教室も開かれた。まだ一般家庭に電気が行き届いていない時代に、収容所内ではどこも電灯がついた。
収容者には運動のために外出も許可され、毎朝隊列を組んで出かけ、夕方に戻った。地元の住民との交流もあり、親しくなって家に招待される捕虜もいたという。
負傷者のために皇后陛下から義手、義足、義眼が贈られ、ロシア政府からは同盟国だったフランスを介して手当金が支給された。
明治39(1906)年2月までに全員がロシアへ送還されたが、収容中に亡くなった89人は共同墓地に手厚く葬られた。
◇
余話もある。捕虜の中に「イスラエル建国の英雄」と呼ばれるユダヤ人のヨセフ・トランペルドールがいた。彼は親切な扱いに感激し、日本のような小さな国がどうして大国ロシアに勝てたのかと考え、「日本を手本としたユダヤ人国家を建設する」と誓った。
やがてパレスチナへ渡り、建国闘争で銃弾に倒れるが、「国のために死ぬほどの名誉はない」と言って息を引き取った。これも日本兵から教えられた言葉だった。
浜寺公園の一角に「日露友好之像」が建っている。平成14(2002)年5月に建立され、碑文には「ロシアの勇猛果敢なる子が永遠に人々の記憶にとどまらんことを!」。当時の小泉純一郎首相、プーチン大統領が署名している。
[ライフ]【ベテラン記者のデイリーコラム・鹿間孝一のなにわ逍遙】イスラエルの英雄もプーチン大統領も感激「浜寺捕虜収容所」 世界一の好待遇が示す史実+(1/3ページ)(2013.7.27 18:00)
大久保利通卿も愛した日本初の公立公園
かつて大阪の人々は夏になると、南部の堺市から高石市にかけての海岸に海水浴に出かけた。歌枕の地で高師浜(たかしのはま)と呼ばれ、古くから白砂青松の景勝で知られた。
明治になって新田開発が計画された。明治6(1873)年、たまたま訪れた大久保利通が、伐採される松林を惜しんで、
「音に聞く高師の浜のはま松も 世のあだ波は のがれざりけり」
と詠んだ。内務卿の一声で計画は中止となり、一帯はわが国初の公立公園に指定された。浜寺公園である。
大正から昭和にかけて「東洋一の海水浴場」のにぎわいをみせたという。人気の別荘地でもあった。しかし、戦後の高度経済成長の時代に沖合を埋め立てて泉北臨海工業地帯が造成され、松林はそのままだが、今はもう海水浴客の姿はない。
温暖で風光明媚な村に、人口8倍の捕虜が
南海高師浜駅の駅前に「浜寺俘虜(捕虜)収容所跡」のレリーフがある。日露戦争で捕虜になったロシア兵の収容所がここにあった。現在は住宅街になっているが、碁盤の目のように整然と区画された道路は収容所の名残である。
明治37(1904)年2月から1年半に及んだ日露戦争では、約8万人の捕虜が日本に送られた。うち最大時には2万8000人が浜寺に収容された。当時の高石村の人口は約3500人だから、地元はさぞ驚天動地だったろう。
この地が選ばれたのは、陸軍第4師団の司令部が大阪に置かれていたのに加えて、戦時には似つかわしくないが、気候温暖、風光明媚(めいび)が決め手になったという。
さかのぼる1899年、日本も参加してオランダ・ハーグで第1回万国平和会議が開かれ、捕虜、傷病者に対する人道的な扱いが定められた。日露戦争は会議後初めての大規模戦争であり、国際的に注視された。一等国の仲間入りをめざす日本は、とりわけ捕虜の待遇に気を遣った。