ああ、あなたがそんなにおびえるのは
今のあれを見たのですね。
まるで通り魔のやうに、
この深山のまきの林をとどろかして、
この深い寂寞の境にあんな雪崩をまき起して
今はもうどこかへ往つてしまつた
あの狂奔する牛の群を。
今日はもう止しましせう。
書きかけてゐたあの穂高の三角の尾根に
もうテル ヴェルトの雲が出ました。
槍の氷を溶かして来る
あのセルリアンの梓川に
もう山山がかぶさりました。
谷の白楊が遠く風になびいてゐます。
今日はもう書くのを止しにして
この人跡絶えた神苑をけがさぬほどに
又好きな焚火をしませう。
天然がきれいに掃き清めたこの苔の上に
あなたもしづかにおすわりなさい。
あなたがそんなにおびえるのは
どつと逃げる牡牛の群を追ひかけて
ものおそろしくも息せき切つた、
血まみれの、若い、あの変貌した牡牛を見たからですね。
けれどこの神神しい山上に見たあの露骨な獣性を
いつかはあなたもあれはと思ふ時が来るでせう。
もつと多くの事をこの身に知つて、
いつかは静かな愛にほほゑみながら---
(大正十四年六月十七日 狂奔する牛 高村某)