小学校時代は里道をよく使っていたように思います。田んぼがあって、ドジョウすくいをした覚えがあります。夏は賑やかなカエルの合唱が子守歌のようでした。貧しくても自然とともにあった昔と、豊かでも自然と乖離している現代と、どちらが良いかなどという気はありません。すべては人類の発達過程ということだと思います。文明と自然が渾然一体となる時代が来ることを期待したいものです。
里道の私物化は高度成長期に行われました。自家用車が普及して農地の市街化が進み、里道を歩く人がほとんどいなくなったからでしょう。はじめは「通る人がいないなら自分の都合の良いように使わせてもらおう」といったところでしょうか。しかし月日がたつとはじめから自分のものだったような気がしてくるものです。使われないから私物化して良いわけではありませんが、人間は自分の都合の良いように考えるものです。
病室を住居として母はタイル工場へ2kmほどの道のりを通いました。わたしと姉は小学校です。姉は知的障害者です。実は小学校、中学校時代の姉のことはまるっきり思い出せないのです。恐ろしく嫌なこと、多くのいじめに遭っていたのでしょう。最近ちょっとずつ小学校時代のことを思い出しています。恥多く陰惨な時代で一番の記憶は、名古屋から近くに疎開してきていた一家のことです。男兄弟ばかり4人いたでしょうか、実に悪ガキたちだったと言っていいでしょう。一番下が私と同級生で、一番上は中学3年生くらいだったのではないでしょうか。長子のその子は後に暴力団員になったと聞きます。その子たちによって疎開先の家の子もひどい目に遭ったように思います。学校から帰れば親のいない家で私たちは、居場所のない彼らと遊ぶことが多かったような気がしますが、思い出すのは苦痛なので今は止めておきます。良い思い出というか、飛行場跡に薬莢を探しに、山にに水晶掘りに連れて行ってもらった思い出があります。彼らがいたのは1、2年生のあいだだったでしょうか、30年くらい後に同級生だった子と喫茶店で出会ったとき、思わず「おまえらは人間じゃない」といってしまいました。無意識に潜んでいた恨みが口をついて出てしまったのでしょう。30年ぶりに会ったのに作業着姿のその男から小学校1,2年生の面影を思い出すとはよほどの恨みなのでしょう。その男は二度とその喫茶店に来ませんでした。喫茶店の主人はそれを感謝していました。
里道の私物化は高度成長期に行われました。自家用車が普及して農地の市街化が進み、里道を歩く人がほとんどいなくなったからでしょう。はじめは「通る人がいないなら自分の都合の良いように使わせてもらおう」といったところでしょうか。しかし月日がたつとはじめから自分のものだったような気がしてくるものです。使われないから私物化して良いわけではありませんが、人間は自分の都合の良いように考えるものです。
病室を住居として母はタイル工場へ2kmほどの道のりを通いました。わたしと姉は小学校です。姉は知的障害者です。実は小学校、中学校時代の姉のことはまるっきり思い出せないのです。恐ろしく嫌なこと、多くのいじめに遭っていたのでしょう。最近ちょっとずつ小学校時代のことを思い出しています。恥多く陰惨な時代で一番の記憶は、名古屋から近くに疎開してきていた一家のことです。男兄弟ばかり4人いたでしょうか、実に悪ガキたちだったと言っていいでしょう。一番下が私と同級生で、一番上は中学3年生くらいだったのではないでしょうか。長子のその子は後に暴力団員になったと聞きます。その子たちによって疎開先の家の子もひどい目に遭ったように思います。学校から帰れば親のいない家で私たちは、居場所のない彼らと遊ぶことが多かったような気がしますが、思い出すのは苦痛なので今は止めておきます。良い思い出というか、飛行場跡に薬莢を探しに、山にに水晶掘りに連れて行ってもらった思い出があります。彼らがいたのは1、2年生のあいだだったでしょうか、30年くらい後に同級生だった子と喫茶店で出会ったとき、思わず「おまえらは人間じゃない」といってしまいました。無意識に潜んでいた恨みが口をついて出てしまったのでしょう。30年ぶりに会ったのに作業着姿のその男から小学校1,2年生の面影を思い出すとはよほどの恨みなのでしょう。その男は二度とその喫茶店に来ませんでした。喫茶店の主人はそれを感謝していました。