魂の発達

私とは何か。私とは魂であるというところから世界を考えます。

母の書類から2

2014-02-15 13:17:20 | Weblog

 二項道路違反を盾にとって里道の拡幅をAに要請することもできるのではないかと思ったがやめにした。即座にに拒否するだろう。Aは何かというと権威を振りまきたがる性分のようだ。JAで中間管理職をやっていたようだ。現在区長をやっているが、頼み事をしても素直に聞くどころか一言二言能書きをたれないではいられないらしく、区民会館の事務員も辟易していという。訴訟沙汰にするとでも脅さなければ拉致あかないだろう。緊急の必要もないのにそこまで事を荒立てることはしたくない。母とAの先代がやっていた長い確執を再現することになる。愚か者と戦うことは愚か者と同列になることである。個人的争いではなく、必要なら公的な措置を執るべきなのだ。福祉サービスの人が来たとき、救急車も入れないのでは困るのではないかといっていたが、僕も姉も今のところ健康上の心配はないと答えておいた。

 小学校時代のことで思い出したことがある。夏休みに、タイル工場に同級生を連れて行ったことがあると聞いたことがある。覚えていないがそういうことがあった気がする。きれいなタイルをいくつか見せて自慢し、誘ったのだろう。
 楽しかった思い出の一番は祭りの時であった。集落の八幡宮の祭りにはちらし寿司を作ってくれた。たまには魚もあったかもしれない。母の在所の春祭りには毎年行っていた。魚、五目飯、里芋の煮っ転がしなど普段食べられないものが出るのである。母が行けないときでも弟をつれて5,6キロの道のりを歩いて行くのも楽しかった。途中のいじめっ子を避けて山道をたどったこともあった。近隣の祭りにもよく行った。芝居や漫才が来たからである。中学生になった頃からだろうか、芝居小屋が映画に変わった。中村金之助、東千代の助などが出演した「新諸国物語」に熱中した記憶が残っている。市川右太右衛門などの大型時代劇もあった。映画スターにあこがれた時代だった。


 遺族会による靖国神社参拝費用の領収証が1枚あった。昭和33年2月の日付である。母が遺族会に入り、兄の戦没者遺族年金をもらうようになったのはこの頃なのだろう。後年遺族年金は相当高額になったようだが、その頃は少なかったのではないだろうか。それで少し生活が楽になったかもしれない。24歳で戦病死した4兄は母に優しかったらしい。かすかな記憶だが、この兄はアコーディオンを弾いて聞かせてくれたことがある。戦争で精神を痛めつけられた3兄にもおぼろげな記憶がある。英語が好きだったらしい。