この記事は違反建築から始まったのですが、もっぱら回想録となりました。それでジャンルを違反建築から人科私目に変えました。ついては書き方もラフにします。
栄養失調状態から解放された時、すなわち学校給食が始まったときを5年生頃だと思っていたが、どうやら4年生からだったようだ。ユニセフ給食という脱脂粉乳の給食が始まったのは昭和24年10月ということです。僕は小学校2年生だっただろう。先生に弁当をもらったりしたのもおそらくそれ以前のことだと思う。完全給食は都市では26年2月に始まったというが、わが田舎小学校で始まったのは僕が4年生の時、27年の4月からだったようだ。その頃から私の頭もはっきりしてきたように思われる。しかし、関節炎や皮膚炎は大人になってもづっと続いた。学校給食だけでは栄養不足だったのだ。僕はずっと牛乳が苦手だった。ガスがよく出るようになるから敬遠していた。
書類のなかに看護婦住所の昭和13年付け変更届があった。それによると母の結婚は昭和13年のようである。看護婦免許を取得したのは昭和7年東京でのことらしい。その四年後には2.26事件に遭遇したことになる。事件後2年で故郷に帰って医師である妻を亡くしていた父と結婚したのだろう。明治39年、山村生まれの女性がどのような夢を持って東京へ向かったのだろう。訂正、看護婦試験合格証が出てきた。大正15年第一回看護婦試験に合格、愛知県であった。20歳だった。その免許証を持って東京へ出たのだろう。その前、大正14年に第2回産婆試験に合格していた。
姉の離職票があった。昭和31年とある。中学卒業後母と一緒にタイル工場で働いていたようだが、半年ほどでやめているのはなぜだろう。おそらく精神病院に入ったのではないだろうか。その頃は知的障害は精神病と同一視されていたようだ。それも1年くらいで退院して、家に帰ってきたような記憶がある。帰ってきたとき顔が赤く腫れ上がっていた。投薬のせいだと考えて母は引き取ったようだ。
腹違いの姉からの昭和31年の手紙もあった。ご主人を亡くして4ヶ月、2人の子供がいるが寂しいと書いてあった。苦労しているようである。お母様とあるのが奇異な感じがした。昭和31年の時点で31,2歳だったのではないだろうか。障害の姉より上に7人いた腹違いの兄弟たちとは、年が離れていて記憶がないのである。その姉は遠くないところに住んでいるが付き合いはない。数年前までは墓地の掃除には来ていたらしい。
長兄が91歳くらいで死んだのはこのたびのことで分かった。次兄の生死は分からない。三兄は戦争で精神を病み精神病院で死んだ。4兄は戦地で死んだ。長女はだいぶ前に死んだと聞いている。次女は事業に失敗した旦那と富士山で自殺したと聞いている。手紙の姉は3女だろう。
信仰はないが、ただ南無阿弥陀仏!