昭和25年7月、地方裁判所に財産半分分与の訴訟を起こした書類。それによるとこの2年間で風呂に入れてくれたのは4回だけだとある。そして母を気違い扱いしているという。こうなっては財産分与しかないというのである。昭和23年10月付けの、家裁ではなく地方裁判所への告訴状があった。長兄が子供たちの父の実子であることを疑い電気検査をしたとか、電波をかけて殺そうとしているというようなことが書いてある。被害妄想が相当進行している。26年5月26日付の判決文があった。勝訴の見込みがないから却下。精神疾患も疑われたのだろう。
昭和26年3月15日には近隣親戚などへの証拠調べの申請をしていた。回答は母のメモのようだ。
隣人への質問:入浴させないこと、新聞を読ませないこと、ラジオを聞かせないことを知っているか?答え:入浴させている様子はなかった。何かの事情で仲が悪いと思っていた。
近くの親戚へ質問には「原告が実家に出かけて帰ってきたとき、被告が家に入れなかったので泊めたか」とか、「被告が女医を迎えて従前通り医者を開業して原告親子を見るといったことを聞いたことがあるか」とある。答えは「泊めたことがある。聞いたことがある。」
病院の医師らしき人への質問は「原告に薬品等を買いたいともし出たことがあるか?被告より薬品を買ったか?」 答えは「医療器具、寝台、水瓶、薬瓶を三人で申し入れた。」である。被告から買ったが受け取るときにはだいぶ少なくなっていたという人もいたようだ。
長兄の伯父というのが医者だったようで、売れ残りの薬品の買い取りを頼まれたらしいが、はっきりしないメモだが、どうだったかなどとうやむやの答え方をしていた。
元区長のSに対する質問によると母は次兄に殴られたことがあるらしい。そしてSが仲裁のために行ったとき母の行李を兄弟で調べていたかと聞かれていた。彼らは母が金を隠していると疑っていたのだろう。母はSに食べるものがないから豆を分けてくれ、竈がないから鉄コンロを貸してくれと頼んだらしい。Sはもらってあげるから待てと答えたらしい。結果はわからない。長兄とその妻の仲を取り持ったのは彼の義理の弟で、長兄の友人でもあり、結婚したら家を売って名古屋に出るように勧めたということらしい。集落では売り先にY医師を想定していたらしいことも書いてあった。つまり集落は長兄と話ができていたのだろう。Y先生は後に一時期近くに部屋を借りて診療していたようである。同級生がそう言ったのだが僕の記憶にはない。
母の仲人に対する質問では、長兄が薬品を勝手に売りさばくことに対する立ち会いを求めたが、長兄は聞かずに勝手に売りさばいたようだ。
3月23日には訴訟費用の免除を申請している。それによると当時は生活保護を受けていたようだ。
昭和28年11月28日付の判決文によって財産分けも訴訟費用の免除も却下された。判決の理由は「財産分配に不服のあるときは新民法施行の日から1年以内に家庭裁判所に請求するべきだが、その期間を過ぎている」からということであった。新民法施行の日は23年1月1日、母が再分配の訴訟を起こしたのは25年7月26日であった。法律に対する無知の結果である。法は無情であるということである。また、当時の裁判官たちのほとんどは戦前の封建的意識から抜け出せていなかっただろう。
28年は僕が5年生の時だ。裁判所には我々兄弟もほとんど一緒に通ったのではなかったか。帰りの電車で寝過ごして2駅3駅先の駅から、時には終電のため 歩いて家に帰った記憶が何度かある。どんな思いで歩いていたかは記憶にない。裁判所のことも。