魂の発達

私とは何か。私とは魂であるというところから世界を考えます。

小学校高学年時代

2014-02-14 10:31:47 | Weblog

 生活保護の減額通知票があった。母の入院中は生活保護を受けていたようだ。看護婦住所のいまの住所への変更届の書類があった。戦後多くの人が生活保護費の不正受給をしていたようだが、不正のできない人間であった母は生活保護ぎりぎりの給料で生活していたように思う。小学校時代、我々兄弟は土日や夏冬の休みにはタイル工場へ手伝いに行っていた。家にはラジオも新聞もなかった。僕は中学生3年生の頃から新聞配達を始めたように思うが、その頃やっと新聞を取り始めた。

 こうやって思い出をたぐると悲惨のオンパレードのようだが、楽しい思い出もある。母の在所にいる頃はいじめられもしたが遊んでもくれた。牛小屋に積まれた藁ををクッションのようにしてとっくみあいをした光景が思い浮かぶ。五右衛門風呂から眺めた月夜に光る田んぼ。生地では小川の農業用に堰き止められたダムで子供たちで遊んだ。堰から落ちる水が滝のようで、それをくぐるのがおもしろかった。しかしあるとき、くぐっているときに堰止め用に張られた番線に首をつり、堰が崩れて死ぬ思いをした。近くにいた人が助けてくれなかったら死んでいたかもしれない。疎開の兄弟たちと水晶探しや薬莢拾いに行ったのも楽しい思い出といえるだろう。Y川で泳いだのも、最初はおぼれそうになって大人に助けてもらったが楽しい思い出だ。
 土日のタイル工場がよいがなくなったのは4年生くらいからだろうか。疎開の兄弟たちがいなくなったせいもあるだろう。集落の子供たちともよく遊ぶようになっていたように思う。いじめられながら遊んだというところだろう。しかし、紙芝居が来てもみんなと一緒に見られないのが寂しかった。ゴムボールを万引きして店のおばさんにしかられたといういやな思い出もある。
 隣のB家には同級生がいた。父親は中学校の校長だったので教科書などが離れの本棚にたくさんあって講談凡や探偵本がそろっていた。難しい字も少なくなかったが、みな仮名が振ってあった。5,6年生の頃だろうか、土曜日の午後などには縁側に上がって、同級生がいなくても暗くなるまで読んだりした。その影響でか正義感に燃える子供になっていたように思う。同級生に疎開の男の子がいたが、校庭の隅でいじめっ子が4人がかりで彼をからかっているのを見て「馬鹿野郎、弱いものいじめをするな」などと怒鳴ったことを覚えている。しかし、4人が自分の方に向かってきたので家に逃げ帰ってしまったのが情けなかった。
 タイル工場の粉塵のせいか、扁桃腺肥大でよく風邪を引いた。蓄膿気味でよく頭痛に悩まされた。そういえば回虫にやられたこともあった。修学旅行も行けず小学校卒業した。