里道・二項道路の違反については一度弁護士の意見を聞いた方がいいかもしれないと思っている。自分では車に乗らなくても障害福祉関係の人が来たとき、弟やその子供たちが来たときに不便である。弟は車で30分ほどのところに住んでいるが、月に一度くらい来て、仏壇に花を備えたり、お墓の掃除をするなどしてくれる。母は平成三年に病院で亡くなった。86歳であった。庭の崖から転落して脊椎を痛め入院していたのである。痛ましかった。しぬときわT足をじっと見つめていた。眼が金色に光って見えた。姉の面倒を見ろと言っているようだった。死ぬ前10年くらいはアルツハイマーであったが、ずっと家にいた。徘徊で何度か警察のやっかいになった。いつも知的障害の姉を連れていた。
いま、改めて母の残した手紙や裁判関係の書類を読んでいる。いや初めて読み始めたばかりだ。8月の日付のある封筒が目についた。宛先は母の在所だから昭和22年のことだろう。東京の知人からのようだった。達筆で読みにくいのだが、どうやら金の無心を断る手紙のようでだった。結婚前の母は東京で看護婦をしていたから、そのころ勤めていた病院関係者だろう。次に目についたのは昭和31年3月から8月まで、半年にわたる病院の給食用主食領収票だった。それで母が結核で入院したことを思い出した。私が中学2年生から3年生のときだった。兄弟たちの食事の世話をしたことをかすかに覚えている。何を作ったかは覚えていないが、麦飯に味噌汁くらいのものであろう。それと雑炊である。母も雑炊が多かった。量を水増しできるからだった。
後は姉の障害関係の書類が多いようだった。もう昼だから明日に読むことにした。午後は30分の昼寝と1時間半くらいのウオーキングを日課にしている。それで3時を過ぎてしまう。姉がディサービスから帰ってくる4時過ぎまで食事や風呂、洗濯などの家事である。