財産分配請求の訴訟記録があった。昭和22年の日付だ。それに添付されている戸籍謄本によると、父は4度結婚している。最初の妻とは離婚していて、富士山で心中した姉はその人の子であった。2番目の妻の子には3人の子がいて、長兄とその妹2人である。長兄が7歳のときその人はなくなり、翌年父はその人の妹と再婚した。次兄、三兄、4兄と4女(手紙の姉は3番目ではなく4番目の娘だった)はこの人の子であった。4女は昭和19年の結婚だかから僕が生まれた頃には家にいたことになる。長兄は肺結核で徴兵を免れた。次兄は教職だったからこれも徴兵を免れたのだろう。長兄は戦前名古屋で映画会社(独立スタジオのようなものだろうか)をやっていたと聞いている。我々を追い出した後、父の死後一年過ぎて、女優の卵だったらしい女と結婚している。結婚の準備のために我々を追い出したのだろう。戦後は名古屋市役所に勤務したと聞いている。長兄の性格には父の度重なる再婚が影響しているだろう。
申し立てに長兄は「不思議なる妖術を使用し、(何か電気よって一種の霊術作用を施すらしい)苦しめるので居るに絶えずついに2月1日三子をつれて郷里に帰った」とある。当時の母の精神状態は非常に悪かったようだ。現代ならノイローゼだといえるが、その当時、明治生まれの母には理解できないことだったのだろう。頭痛は母の終生の病となった。電気というのは長兄が映写機などの電気器具を持っていたからだろう。
昭和23年5月に財産分与の家裁決定があったが、同年6月に不履行による再調停の申し立てがあり、家裁の履行勧告が出された。23年の調停では1,住んでいる倉庫と借家人のいる病室、それらの敷地を贈与すること、そして井戸の共有。2,金二万円の贈与。3,風呂に入らせること。4,畑の半分の使用権を承認すること。5,顕微鏡一基と中布団一組を贈与することとあった。2,3,4が不履行とあった。
23年は小学1年生になった年である。入学時にはまだ倉庫にいたことになる。何にくるまって寝ていたかは覚えていない。風呂も入っていなかったのだ。手ぬぐいでぬぐってでもいたのだろう。夏には風呂には入れたのだろう。長兄たちが入った後だったのではないだろうか。顕微鏡は疎開の悪ガキに盗まれたのではなかったか。風呂に入りに行ったのはいつ頃までか覚えていないが、やがて家の外に掘っ立て小屋をたて五右衛門風呂を作ってはいるようになった。煮炊きは火鉢でやっていたが泥と煉瓦で竈を作った。よく芝刈りにいったものだ。