父親は友禅関係の仕事をしていた。今は機械で洗うが昔は「友禅流し」の職人だった。祖父は友禅の手描き職人、伯父は「七宝焼」関係の仕事をしていた。家の中には端切れなどは多くあり、小学校のバザーなどにダンボールで3~4箱ぐらい寄付していた。七宝焼も家に結構あった。(多分失敗品)おもちゃ代わりに遊んでいた。
小学校の低学年までは借家(社宅)に住んでいた。住民はすべて職人である。現在の住環境では経験できない濃厚な近所付き合いを強いられる借家だったと思う。エントランス兼自転車置場の広めの空間があり、その奥に平屋建ての借家が12~3棟ならんでいた。いわゆる長屋である。自転車置場から入って細い路地(2mぐらい)を通って各住居に入っていき、ぐるっと回って自転車置場に戻ってこられるようなアプローチである。住居の入り口部分を過ぎて回ったところに共用便所がある。離れの便所である。
路地には洗濯機が置いてあり、便所に行くのに誰かと出会う。路地にはおばさん達が話しをしていたり、家の中の笑い声が聞こえたり、喧嘩している怒鳴り声が聞こえたり、プライバシーの問題など関係なく、ざっくばらんな近所付き合いだった。夜に便所に行くときなどとても怖く(当時は汲み取り式)裸電球の明かりを目指して必死に歩いた。
この借家の中を2度ほど引越しした記憶がある。最後は自転車置場にも面していたが道路にも面している借家にいた。両親が共働きだったので「鍵っ子」だった。土曜日は学校が昼までだったので学校帰りに保育園へ弟達を迎えに行って夕方まで「子守」をしていた。このころのエピソードもいろいろとあるが、子供なりにもっと小さい子を飽きさせず、夕方までいかに過ごすかというのが大変だった。僕が小さい頃は同じ長屋のおばさんの家で遊んでもらっていた。今思えば母親が頼んで預かってもらっていたのだろう。
家も狭かったが、家族の誰かが隣にいて一人になる時間などほとんどなかった。ただ、こんな経験が今の仕事をしていて家は出来るだけワンルームに近いほうが家族のコミュニケーションを形成できると信じている所以だ。もうかなり昔に、そこは解体され住んでいた住民は様々なところに引越ししていったが、皆とても明るい人たちで明るい家庭であった。