「違いがわかる」とは、よいものを知っているという意味ではない。何がどうよいのかを知っているということだ。よいものを知るには、そうでないものも知る必要がある。これはひいては、どんなつまらぬことでも無意味な経験はないということだ。
日経新聞での脳研究者 池谷祐二氏のコラムの一部です。違いがわかるというのはよいものを知っているだけではなく、悪いものも知っていないと本当によいものというのは判断できないということです。このときのよいものというのはボクの解釈ではあくまで個人的な主観によるものだと思っています。
客観的に見てほとんどの人がよいものという判断をするものもあるのでしょうが、違いがわかるということからいうと、「違い」とは「こだわり」であり、それが「個性」に結びつくと思います。だから「違いがわかる」というのは 格好いいのだろう。
こだわりのないよいものは便利なものが多く、それはそれでいいのだろうが、自分の考えや経験がそこに反映されていないように思う。それは格好いいとはいえないのではないか。多数がよいと思われているものの中に本当はもっとよいものがあり、それを知らないだけでよいものと判断している場合が多いのではないのか。これが日本人のブランド好きに繋がっているのではないでしょうか。言い方を替えれば名の通った企業であればその圧倒的仕事の数によって、まわりを見渡して同じであれば安心するような感覚によって、よいものと感じているだけではないだろうか。
よいわるいの判断というのは全てのことを知った上でできるものだとコラムでは言っている。その範囲があまりにも大きい場合、例えば、これはよくないということはわかっていて、こちらがよいと思ってもみても、実はもっともっとよいものがあるのではないか。それを知らないだけではないか。
これを追求してしくのが可能性だと思う。もっとよいものがあるのではないか、もっと違う考えがあるのではないか、わるいと思っていることでも発想の転換によってよいものにかわるのではないか、それが家族に個人にどう対応できるのか、そんなことを考えながら住宅の設計をしている。