長楽寺の表門をくぐり、境内に入りました。山裾の傾斜地に寺域があるため、参道はほとんど階段となっています。その左右に客殿、庫裏、拝観所、受付などの建物が並びますが、左手の庫裏と拝観所と受付はリニューアル工事のため解体されていて、右手の客殿に臨時の受付が設けられていました。
臨時の受付へ行く手前の左手に置いてあった手水鉢の石盤。大正の頃に当時の住職夫妻が設置したもので、表面には富岡鉄斎の書が彫られています。
その説明板。例によって真剣に三度読みするU氏でした。その背中に向かって問いかけました。
「水戸の、ここには何度も来てるんやろ?この説明文もよく知ってるんじゃないのかね?」
「いや、これは初めて見るんだ。前回は五年ぐらい前に来たんだけどさ、そのときはこの説明文は無かったんだよ」
「そうなのか」
「この手水石盤も、もとは別の場所にあったような気がするんだけどな・・・」
首を傾げつつも、石盤に彫られた書を一字一字、声を発しないで口だけを動かして暗読するU氏でした。
それから臨時受付に行って拝観料を支払い、参道から上図の仏殿を見上げました。
受付に住職が居られたので、U氏が「西賀茂の正伝寺からこちらに移築されたという仏殿を拝見したく参りました」と挨拶し、「ああ、正伝寺ね・・・、その仏殿はあれですよ」と指さして教えられた際に、「もとは伏見城から移築した建物だと聞きましたが」と尋ねました。住職はなぜか苦笑気味に「まあ、そういうことになっとりますがね、建物はその後に建て直されてますんでね・・・」と応じられました。私たちは思わず顔を見合わせました。
とりあえず仏殿に行こう、と階段を登りました。仏殿の全容が木立の間に表れてくるにつれ、U氏が私を振り返りました。
「右京大夫、どう見ても典型的な禅宗様の仏殿にみえるが」
「うん、同感や」
「俺はここに三度来てるんだけどさ、今回で四度目か・・・、この仏殿が伏見城からの移築と聞いてちょっとびっくりしたんだよ、だってそんなふうな建物には見えなかったしな、今改めて見ても、伏見城移築には見えない」
「うん、御住職も、建て直されてます、言うてはったな・・・」
その「建て直されてます」の意味が、仏殿の前に立てられた上図の説明文によって明らかになりました。要約すると、この仏殿の建物は正伝寺にて江戸期の寛文六年(1666)に造営されたのを、明治二十三年(1890)に現在地へ移築したもの、ということです。つまりは江戸期に新造された建築であったわけです。
これによって、伏見城からの移築とする伝承は、ただの誤伝に過ぎない事が判明しました。伏見城から南禅寺金地院を経由して正伝寺に移されたと伝わる御成殿と御前殿の二つの建物のうち、本堂の方丈に転用された御成殿のほうは現在も残っていますが、御前殿を転用した法堂は、何らかの事情によって江戸期の寛文六年に新たに建て直された、ということになります。
それを明治期に正伝寺が長楽寺に譲渡して、いまに至っているわけです。
かくして、伏見城からの移築建築ではないことが判明した、長楽寺の仏殿です。U氏が納得したように言いました。
「そもそも城郭の建物をお寺の仏堂に転用するってのがさ、ちょっと無理があったんと違うかね?城郭と寺院じゃ建物の造りがまるで違うしな・・・、客殿は書院造りだから、書院造りも入ってる方丈の建物には転用出来るだろうけど、御前殿ってのは要するに玄関口の建物だろ、そんなのをどうやって仏殿に使えるんだろう、って思うな」
そういうことやな、と私も頷きました。江戸期に正式な禅宗様の仏殿を新築して置き換えたのも、色々と仏殿に似つかわしくない構造と外見であったからかもしれません。
または、単に老朽化したため、という可能性もあります。慶長年間の伏見城の建物であったとすれば、寛文六年の時点では六十年余りを経ていることになるからです。
正面はもちろん、側面を見ても典型的な禅宗様の裳階付き仏殿です。城郭建築の要素は全くありませんでした。
「ちょっと残念だったな・・・」
「いや、意味は大きい。旧伏見城建築でないことが確定したんやから・・・」
「なるほど、有るのを確かめるのと同じく、無いのを確かめるのも重要、ってわけだな、うん」
それで仏殿の見学は終わりとなり、左隣に建つ上図の十三重石塔の前に降りました。寺では「建礼門院御塔」と伝えています。 建礼門院平徳子は平家滅亡後にここ長楽寺で出家したといい、その縁で遺髪が埋められているとされています。
「建礼門院御塔」の前から仏殿を見ました。境内地の平坦面がそんなに広くないので、仏殿と「建礼門院御塔」は窮屈なほどに隣接しています。かつての長楽寺は広大な境内地を誇り、現在の円山公園の大部分や真宗の大谷祖廟(東大谷)の大半の境内地が含まれていたといいますから、相当な規模でした。現在の境内地は、もとは山麓の奥之院であった地域だそうです。
かつての奥之院であったことは、上図の遊行滝の施設があることからも伺えます。かつての時宗の行者たちの修業の場であったのでしょう。
「建礼門院御塔」の斜め向かいの参道脇に上図の長澤芦雪(ながさわろせつ)の供養碑とみられる石碑がありました。他にも色々な人の碑が建っていますが、U氏は小声で「芦雪を殺す・・・」と言いながらこの石碑に近寄り、一礼しました。
「芦雪を殺す」とは周知のように司馬遼太郎が長澤芦雪を主人公として描いた歴史小説の題です。私も文庫本「最後の伊賀者」を持っていたので、それに収録されている「芦雪を殺す」も何度か読みましたが、ああいう破天荒な画家であったのかな、という疑問は少なからずあります。若くして夭折しているためか、暗殺されたという伝承がやたらに流布しているようですが、それも本当かな、と思います。
石碑の横に立てられていた説明文です。列挙されている障壁画作品の幾つかは実際に拝見したことがありますが、なかでも印象に残っているのは、和歌山県東牟婁郡串本町の無量寺の「虎図」および「唐子琴棋書画図」(国重要文化財)です。あと、説明文にはありませんでしたが、兵庫県美方郡香美町の大乗寺の「群猿図」(国重要文化財)も素晴らしいものでした。 (続く)