同11時2分、原爆がさく裂した。「病院はコンクリート造り。中にいた人は助かったが、外の人はやられた」。
友清さんは顔や手足を負傷したが命に別条はなかった。博士は大けがを負いながらも救護活動の指揮を執り、友清さんは何人もの負傷者を背負って病院裏の畑へ避難させた。周囲の惨状を見て「ひどい爆弾ができた」と戦慄(せんりつ)した。
原爆投下から3日後、博士らは「第11医療隊」として長崎市三ツ山地区で巡回診療を開始した。友清さんは12人の隊員のうちの1人で、今では数少ない存命者だ。
実家の松島(西海市)から時々、長崎に米を届けてくれた父春雄さんは稲佐橋で爆死していた。見つけた遺体はうじ虫がわいていた。兄淳三さん(故人)と一緒に、父を荼毘(だび)に付した。
原爆投下から3日後、博士らは「第11医療隊」として長崎市三ツ山地区で巡回診療を開始した。友清さんは12人の隊員のうちの1人で、今では数少ない存命者だ。
実家の松島(西海市)から時々、長崎に米を届けてくれた父春雄さんは稲佐橋で爆死していた。見つけた遺体はうじ虫がわいていた。兄淳三さん(故人)と一緒に、父を荼毘(だび)に付した。