世界標準技術開発フォローアップ市場展開

ガラパゴス化から飛躍:小電力無線IEEE802規格開発会議・・・への寄与活動拡充

死因7位誤嚥性肺炎, 予防喉トレ2018/01/14, さだまさし 関白宣言 100年後に残したい歌( BS日テレ)

2019-08-11 17:33:13 | 連絡
石川五右衛門
2018/01/14 に公開
さだまさし 関白宣言 100年後に残したい歌( BS日テレ)


共助,弧状列島19/8,永井隆博士と救護活動を経験友清さん「先生、ありがとう」初めて参列した式典で新たな決意を

2019-08-11 16:05:42 | 連絡
同11時2分、原爆がさく裂した。「病院はコンクリート造り。中にいた人は助かったが、外の人はやられた」。
友清さんは顔や手足を負傷したが命に別条はなかった。博士は大けがを負いながらも救護活動の指揮を執り、友清さんは何人もの負傷者を背負って病院裏の畑へ避難させた。周囲の惨状を見て「ひどい爆弾ができた」と戦慄(せんりつ)した。
 原爆投下から3日後、博士らは「第11医療隊」として長崎市三ツ山地区で巡回診療を開始した。友清さんは12人の隊員のうちの1人で、今では数少ない存命者だ。
 実家の松島(西海市)から時々、長崎に米を届けてくれた父春雄さんは稲佐橋で爆死していた。見つけた遺体はうじ虫がわいていた。兄淳三さん(故人)と一緒に、父を荼毘(だび)に付した。