クリスティアーノ・ロナウド・ドス・サントス・アヴェイロ(Cristiano Ronaldo dos Santos Aveiro, OIH、ポルトガル語発音: [kɾɨʃtiˈɐnu ʁuˈnaɫdu]、1985年2月5日 - )は、ポルトガル・フンシャル出身のサッカー選手。セリエA・ユヴェントスFC所属。ポルトガル代表。ポジションはフォワード[4]。
愛称はCR7[1]、ロニー[2]。日本のメディアからはクリロナ[6][7]、またはCロナ[8][9][10] とも呼ばれる。テレビやスポーツ紙の多くは「ロナウド」と表記されているが、読売新聞や朝日新聞など一般紙では「ロナルド」表記が用いられている[11]。
サッカー関係者からしばしば世界最高の選手と評されるプレイヤー[12][13][14][15][16][17]。サッカー史上最多得点記録保持者[18][19][20]。所属した4チーム全てにおいてリーグ戦または国内スーパーカップでの優勝を経験しており、3連覇を含めてUEFAチャンピオンズリーグを5度制覇している。イングランドプレミアリーグで3度、スペインプリメーラ・ディビシオンで2度、2019年にはイタリアセリエAでも優勝し、欧州三大リーグで優勝した史上初の選手となった[21]。UEFAチャンピオンズリーグで7度得点王を獲得し、バロンドールを5度受賞するなど数々の栄誉を手にした。また、レアル・マドリードの通算最多得点記録、プレミアリーグのシーズン最多得点記録[注釈 3]、UEFAチャンピオンズリーグの通算最多得点記録・同シーズン最多得点記録などで、数々の記録を打ち立てている[23]。
ポルトガル代表では主将を務めており、同国代表の歴代最多出場記録、欧州国家における代表最多得点記録の保持者であると共にUEFA欧州選手権の通算最多出場、最多得点記録保持者でもある。UEFA EURO 2016では主将としてポルトガルを主要な国際大会初優勝に導いた。
幼少期[編集]
1985年2月5日、大西洋に浮かぶポルトガルのマデイラ島最大の街フンシャル(マデイラ自治領の首都)に自治体の庭師ジョゼ・ディニス・アヴェイロと調理師マリア・ドロレス・ドス・サントス・アヴェイロの間、三男二女の末子として出生。複合名の第二要素の「ロナウド」は、父ディニスのお気に入りの俳優であったロナルド・レーガン元アメリカ合衆国大統領にちなむ[24]。
ロナウドの曾祖母(父方の祖母)ローザ・イザベル・ダ・ピエダデはカーボ・ヴェルデ出身のムラートで白人のジョゼ・アベイロ(父方の祖父)と結婚し息子のウンベルトがフィロメーナ(ロナウドの父方の祖母)と結婚し6人の子をもうけ、その中の一人がロナウドの父ディニスだった[25][26][27]。ロナウドは8分の1カーボ・ヴェルデ人という事になる。
ディニスはかつてポルトガルの植民地戦争に参加しており、その後遺症からアルコール依存症となっていた。母マリアはそれに苦しんでおり、ロナウドを妊娠している時に人工中絶を考えていたと明かしている[28]。
ディニスは公務員として働くかたわら、地元のCFアンドリーニャというサッカークラブの管理を手伝っており[24]、また従兄弟のヌーノもアンドリーニャでプレーしていたことから[29]、ロナウドはこのクラブで6歳のときにサッカーを始める。サッカーを始めた当初はセンターバックであったが、徐々にポジションを上げFWとしてプレーするようになった[30]。
幼い頃から才能に恵まれていたが、チームが負けると悔しさから泣いたりし、「泣き虫」(英語: crybaby)のあだ名を付けられていた[29]。
また、子供の頃に目標だったポルトガル代表の選手として、ルイス・フィーゴ、マヌエル・ルイ・コスタ、フェルナンド・コウトを挙げている[31]。
4年後の1995年にアンドリーニャに在籍していた人物が運営するCDナシオナルに入団。1997年の復活祭の休みを利用し、祖父に連れられてスポルティングCPのトライアルを受けた[32]。好きなチームはスポルティングのライバルであるSLベンフィカであったが、スポルティングのファンであった母親に説得されてユースに入団し[33]、母親と共にリスボンへ移住。スポルティングのユース入団に際し、スポルティングはナシオナルに対して2万5千ユーロの移籍金を支払った[32]。