世界標準技術開発フォローアップ市場展開

ガラパゴス化から飛躍:小電力無線IEEE802規格開発会議・・・への寄与活動拡充

おもてなしの心は同じ日本航空社員、レクサスとヒルトンに出向 コロナ後に里帰り親元帰還又は片道出向選択か

2021-02-27 18:37:39 | 連絡
【グループ全体3万5600人のうち1日当たり最大1000人を自治体、物流やコールセンター、教育機関、家電販売などグループ外の企業に出向】
★トヨタ自動車及びヒルトンの潜在顧客を将来日本航空グループ顧客に顕在化する出向先活動か>
★コロナ後に、里=親元日本航空グループ =帰り前提の手弁当出向か>
★コロナ後に、一部の社員は処遇改善前提・片道出向のグループ外の企業社員となるか>
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2021/02/27 17:33
 日本航空グループの社員が2月から、高い接客のスキルを生かせる職場として、トヨタ自動車の高級車ブランド「レクサス」の販売店や高級ホテルのヒルトンに出向している。日航は新型コロナウイルスの影響で業績が悪化し、グループ全体3万5600人のうち1日当たり最大1000人を自治体、物流やコールセンター、教育機関、家電販売などグループ外の企業に出向させている。日航は新しい二つの出向先について「同じように世界中のお客様にサービスを提供する企業として、相互に学び、切磋琢磨(せっさたくま)する関係を築きたい」と説明している。

激変した老舗しょうゆ蔵 中小パワーこそ地方再生の底力だ!八木澤商店 社長河野 通洋 41歳

2021-02-27 17:15:45 | 連絡
内陸「岩手県一関市事業所と沿岸「陸前高田市」事業所構成による災害リスク2極分散=フェイルーセイフ事業=安全事業環境・社員安心従事経営か>
★和食品 醤油「奇跡の醤(ひしお)」=ライフライン製品=国内供給率160%、国内消費率100%、設計技術ブラックボックスレベル化和食品 醤油「奇跡の醤(ひしお)」商品海外輸出比率60%、一極依存ゆでガエル化回避(注1)、リスク分散多極メッシュ輸出NW構築、海外貿易収支黒字化寄与、国家税収増寄与、国家財政黒字化寄与、保健・医療・介護・福祉予算財源増加、消費税軽減、貧富格差解消、三権分立・普通選挙・議会制・自由民主主義・人権尊重・議員内閣制弧状列島日本の継続的なGDP=消費+投資+政府支出+(輸出ー輸入)=増加、税収増、所得再分配、社会福祉予算増の繁栄に寄与か>
(注1.1)焦点:一帯一路・海外遠征・戦狼外交・人民解放軍拡充、国家安全維持法=国内・域外・事後遡上適用・法=施行、「海警法」施行、共産党一党独裁・ネットカメラ住民監視統制・人権や言論弾圧・知的財産侵害・政府、中国依存のドイツが味わう「ゆでガエル」の恐怖
https://jp.reuters.com/article/germany-china-idJPKBN1HO07I
(注1.2)中国が「武器使用」「防衛作戦への参加」を明記の『海警法案』全文発表https://www.sankei.com/world/news/201105/wor2011050019-n1.html
(注1.3)国連加盟国に定められる「国際海洋法」無視の中国の「海警法」が2021年2月1日施行か
https://blog.goo.ne.jp/globalstandard_ieee/e/cd15741ac981dcc832c8e16d9783c361
(注1.4)髙橋洋一チャンネル 第90回 中国進出のリスク 共産主義国に投資するとはどういう事なのか?
https://blog.goo.ne.jp/globalstandard_ieee/e/300d3e4aec65c46c32b5c46964d5a45c
(注1.5)髙橋洋一チャンネル 第94回 実はこの先は苦しい中国経済。中所得国の罠に嵌まっていた!
https://www.youtube.com/watch?v=rC7MxDqBTNQ

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2015年3月5日 放送
「激変した老舗しょうゆ蔵中小パワーこそ地方再生の底力だ!」
八木澤商店社長河野 通洋(こうの みちひろ)
河野 通洋
  • 八木澤商店 河野通洋社長(41歳)
  • 1973年岩手県陸前高田市生まれ
  • 1997年岩手観光ホテル入社
  • 1999年八木澤商店入社
  • 2011年東日本大震災で「1極集中型事業」社屋 工場 自宅が全壊
  • 2011年4月 八木澤商店の九代目社長に就任
  • 2012年10月 災害リスク2極分散=フェイル・セイフ事業所「岩手県一関市」に工場を新設
  • 2014年11月 震災で流出した「もろみ」を使った
  •        醤油「奇跡の醤(ひしお)」を発売
企業プロフィール
  • 八木澤商店
  • 本社 :災害リスク2極分散=フェイル・セイフ事業所「岩手県陸前高田市」矢作町字諏訪41
  • 創業 :1807年
  • 従業員:31人
  • 売上高:2億8000万円(2014年度)
  • 今年3月11日で、あの東日本大震災から4年がたつ。 災害の記憶が薄らいでゆく一方で、被災各地では、急激な人口減少が起きていた。そして、住居や仕事の問題に見通しが立たないことも影響し、復興の現場では、必要な若い労働力が慢性的に不足。仮設住宅を離れられない高齢者の孤独死も相次いでいるという。
  • そんな逆風が吹き荒れる被災地で、驚くべき挑戦に打って出た醤油店があった。江戸時代から続く老舗のしょうゆ店・岩手県陸前高田にある「八木澤商店」だ。八木澤商店の9代目の河野は、被災直後から「社員を解雇せず営業再開を目指す」と宣言し、若い発想と行動力を武器に会社の再建に奔走している人物。そんな河野が目指した復興の形こそ「地元・中小企業のチカラの集結」だという。
  • 被災地が抱える問題は、今後の日本が直面する問題点を先取りしているとも言われる中で、河野社長は、どう被災地の課題を解決しようとしているのか?地方再生のヒントにも成り得る陸前高田で始まった感動の再生戦略の全貌を徹底取材!
  • 「陸前高田発!震災を乗り越え激変した老舗しょうゆメーカーの復活劇」
  • ようやく復興に動き出した、陸前高田。かつて町を見下ろしていた周囲の山は次々と切り崩され、その膨大な量の土砂を運ぶため、高さ20mはあるベルトコンベアが至る所に張り巡らされている。津波に強い新たな町を作るため、町全体の「かさ上げ」工事が行われているのだ。しかし、その一方で…町の人口は震災前の2万4千人から、2万人を割り込み、大幅に減少…インフラの整備は進んでも、本当の復興の姿はいまだ見えていない。 そんな陸前高田で、驚くべき変貌を見せる中小企業がある。それが、創業200年を超える醤油味噌メーカー・八木澤商店だ。八木澤商店は震災時、本社と工場の全てを流され、社長以下、誰もが廃業を覚悟した。しかし、そこに待ったをかけたのが、専務として経営を切り盛りしていた、当時37歳の河野通洋だった。河野は、震災時東京にいた社長の父親に変わり、被災直後から「社員を解雇せず営業再開を目指す」と宣言。その若い発想と行動力を武器に、会社の再建に奔走した。
  • スイーツ事業を始め、自慢の味噌を使ったケーキをヒットさせれば、三陸沿岸の津波で全壊した食品関係のメーカー4社を集め「madehni(までーに)」という地元食材を使ったスープブランドも立ち上げた。さらに、自社のしょうゆ作りでは、クラウドファウンディングという最新の手法で資金を集め、わずか1年半で自社工場を再建した。
  • 震災前は、しょうゆの販売先の多くが地元の水産加工業だったという八木澤商店のビジネスは、今や一般向けのBtoC比率が飛躍的に高まり、売上げを以前の7割にまで回復させてみせた。
  • 河野曰く「震災という逆境の中で、今まででは考えられないチャレンジが出来た」 逆境からの変貌の裏側とは…9代目社長・河野の挑戦を紹介する。 
  • 中小企業のチカラこそが、地方の未来を切り開く!
  • 若い頃、「ビジネスは利益至上主義」と自分の会社の社員を省みることもしなかった河野。その考えを「社員第一主義」一変させたのは、河野が加入する中小企業家同友会という組織だった。そこで仲間の経営者たちから、中小経営者のあるべき姿を教えられた河野は「地方経済を担っているのは、日本中の中小企業。そこが元気になることこそが、地域問題を解決するはず」と、中小企業の連携を重視してきた。そんな河野は、震災後、地元の経営者たちと「なつかしい未来創造」という事業応援会社を作った。地域資源を生かした新事業を生み出し、地域を活性化することを目的に設立。様々なベンチャー的な取り組みを、資金とノウハウの両面で支援してきた。既に、震災後需要が高まっている「訪問リハビリ」や宿泊事業など、様々な実績が生まれている。被災地発のビジネスが、日本の問題点を解決して行く…そんな新たな取り組みを取材する。
  •  https://www.tv-tokyo.co.jp/cambria/backnumber/2015/0305/

おしゃべりラボ~しあわせSocial Design~中村陽一 残間里江子 八木澤商店

2021-02-27 16:55:23 | 連絡
「おしゃべりラボ~しあわせSocial Design~」では、
私たちの暮らしをちょっと明るくする仕組みをゲストの方をお迎えしながら楽しくご紹介していきます。
日々の暮らしに"気づき"を持たせる「Social Design研究所」です。

出演:
中村陽一 (立教大学社会デザイン研究所 所長)
残間里江子 (プロデューサー)
メールアドレス:
lab@1242.com

twitterハッシュタグは「#jolf」
twitterアカウントは「@1242_PR」
facebookページは「http://www.facebook.com/am1242」 
河野 通義(こうのみちよし)
 大正10年10月24日-平成20年4月17日
当時の八木澤商店(現八木澤商店)に子どもがなく、当主の弟の子であった通義氏が養子に入る。
 昭和14年東京の商業高校を卒業後、家業を継ぎ、清酒などを馬車をひいて販売する。
 昭和18年5月に許婚であった菅原律子と結婚。昭和19年に清酒製造業を廃業し、大正年間にはじまった味噌・醤油製造に従事。
 和35年に株式会社八木澤商店を設立、代表取締役に就任。
 昭和53年に酔仙酒造(株)代表取締会長に就任(~平成13年10月)。
 (株)八木澤商店取締役会長。
4人の父であり、7人の孫と曾孫がいるやさしいおじいさま。平成20年4月17日肺炎のため死去。
店主河野和義の父親でもある人。
多くを語らず、姿をみかけると、いつも本を読んでいる。2階の書庫は足の踏み場がなく、床が抜けそうなほどの本が。
静かで多くを語らないけれど、そんな物静かなおじいさまも、この土地のひとたちと、命と財産をかけて海を守ったという物語があります。
彼は息子(現店主)を呼んで、静かに語り始めました。
「この河野家、八木澤商店の財産をつくったのは、この俺だな。実はこんど、この財産を全部使わなければならなくなった。全部使っても、あるいは間に合わないかもしれない。相手があまりにも大きすぎる。しかし、それだけの大事ができた。俺はおまえに、俺とおふくろの面倒をみろとは言わない。だが、女房、子どものことは、お前の才覚でなんとかしろ。自分は生命をかけて、この開発に反対する。男の生きざまを、これから見せる。」



ザ人物伝 平賀源内 エレキテル

2021-02-27 16:50:33 | 連絡
エレキテルは、江戸時代の博物学者平賀源内が復元した摩擦起電器のこと[1]で、オランダ語(ラテン語)のelektriciteit(電気、電流)がなまったもの。静電気の発生装置。源内は「ゐれきせゑりていと」と表記している。 
オランダで発明され、宮廷での見世物や医療器具として用いられていた。日本へは江戸時代に持ち込まれ、1751年(宝暦元年)ごろオランダ人が幕府に献上したとの文献がある。後の1765年(明和2年)に後藤利春の『紅毛談(おらんだばなし)』で紹介され、それを読んだ平賀源内が長崎滞在中の1770年(明和7年)に破損したエレキテルを古道具屋あるいはオランダ通詞の西善三郎から入手し、工人の弥七らとともに1776年(安永5年)に江戸深川で模造製作に成功した。
構造は外部は木製の箱型、または白木作り。内部にライデン瓶(蓄電瓶)があり、外付けのハンドルを回すと内部でガラスが摩擦され、発生した電気が銅線へ伝わって放電する。
源内は電気の発生する原理を陰陽論や仏教の火一元論などで説明しており、電磁気学に関する体系的知識は持っていなかったとされ、アメリカの科学者フランクリンが行った実験の情報が伝わっていたとも考えられている。
日本でも見世物や医療器具として利用されたが、主に好奇による注目であった。また、寛政の改革による贅沢の禁止や出版統制などにより、電気に関する科学的理解・研究は後の開国以降や明治期まで停滞することとなった。
源内製造とされるエレキテルが現存しており、うち1台が「エレキテル(平賀家伝来)」として1997年(平成9年)6月30日に国の重要文化財(歴史資料)に指定された。
これは現在、東京都墨田区の郵政博物館に収蔵されている。他に平賀源内先生遺品館(香川県さぬき市)にも蓄電瓶がない1台が現存している。


ザ人物伝 平賀 源内 エレキテル(静電気発生機)修理復元 破傷風により獄死 享年52

2021-02-27 16:35:16 | 連絡
平賀 源内(ひらが げんない、享保13年(1728年) - 安永8年12月18日(1780年1月24日)52歳没)は、江戸時代中頃の人物。本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家として知られる。
讃岐国寒川郡志度浦[3](現在の香川県さぬき市志度)の白石家の三男として生まれる。父は白石茂左衛門[3](良房)、母は山下氏。兄弟が多数いる。白石家は讃岐高松藩の足軽身分の家で、元々は信濃国佐久郡の豪族(信濃源氏大井氏流平賀氏)だったが、『甲陽軍鑑』によれば戦国時代の天文5年(1536年)11月に平賀玄信の代に甲斐の武田信虎による侵攻を受け、佐久郡海ノ口城において滅ぼされた。後に平賀氏は奥州の白石に移り伊達氏に仕え白石姓に改め、さらに伊予宇和島藩に従い四国へ下り、讃岐で帰農した伝承がある。源内の代で姓を白石から平賀に復姓したと伝わる。  
宝暦13年(1763年)には『物類品隲』(ぶつるいひんしつ)を刊行[1]。オランダ博物学に関心をもち、洋書の入手に専念するが、源内は語学の知識がなく、オランダ通詞に読み分けさせて読解に務める。文芸活動も行い、談義本の類を執筆する。明和年間には産業起業的な活動も行った。明和3年(1766年)から武蔵川越藩の秋元凉朝の依頼で奥秩父の川越藩秩父大滝(現在の秩父市大滝)の中津川で鉱山開発を行い、石綿などを発見した(現在のニッチツ秩父鉱山)。秩父における炭焼、荒川通船工事の指導なども行う。現在でも奥秩父の中津峡付近には、源内が設計し長く逗留した建物が「源内居」として残っている。安永2年(1773年)には出羽秋田藩の佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導を行い、また秋田藩士小田野直武に蘭画の技法を伝える。
安永5年(1776年)には長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元する。
安永8年(1779年)夏には橋本町の邸へ移る。
大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁2人を殺傷したため、11月21日に投獄され、12月18日に破傷風により獄死した。
獄死した遺体を引き取ったのは狂歌師の平秩東作ともされている。享年52。杉田玄白らの手により葬儀が行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく遺体もないままの葬儀となった。ただし晩年については諸説あり、上記の通り大工の秋田屋九五郎を殺したとも、後年に逃げ延びて書類としては死亡したままで、田沼意次ないしは故郷高松藩(旧主である高松松平家)の庇護下に置かれて天寿を全うしたとも伝えられるが、いずれもいまだにはっきりとはしていない。
大正13年(1924年)、従五位を追贈された[6]。